山口県光市の母子殺害事件の差し戻し審で判決が出た。世間の注目はもっぱら死刑になるかどうかばかりのようだが、ある意味で結果は最初から分かっていたわけで(「特段死刑を回避する理由が認められない」として差し戻されているのだし)、むしろ特筆すべきは主文を後回しにした、量刑を最後に言う、つまり判決理由が量刑の説明とならずに逆にその理由の結論として量刑が宣告されるという判決の出し方ではないかと思う。
最高裁で「特段死刑を回避する理由が認められない」と言って差し戻されていると言っても、被告の年齢・殺害された人数からするとこれまでの判例を覆す厳罰の新判例になるわけで、マスコミの注目はそれまでの永山基準と呼ばれる判例が覆るかどうかの表層上の事象だけなのだろうし、「専門家」というのはそういうもの、少なくともニュースというものはその表層的な記号のフォローまでしか出来ない。死刑廃止論者中心の弁護団も、死刑へのハードルが下がるかどうかだけを危険視しているわりには、それでいてたぶんに支離滅裂なストーリーを構築して「殺人」ではなく「傷害致死」だとして争い、「死刑」そのものを争う弁護策をとらなかったのは、素人目にはなんともくだらなく思えるし、結果として裁判所にことごとく否定される惨敗となったわけだ。これはちょっとおかしい。死刑制度の是非というのは、本来なら倫理的・哲学的な問題、つまり私たちの「社会」に死によって人を罰することが許されるのか、たとえ社会全体の利益だとしても人を殺すことが許されるのか否か、我々の社会にその資格があるのかの問題であって、弁護テクニックの問題ではないはずなのだが。
広島高裁としては「特段死刑を回避する理由が認められない」と最高裁が言っている以上、それでも死刑にすべきでないと主張するには勇気を持って「特段の理由」を示す必要があるが、そのチャンスすら弁護方針が封じてしまった格好になる。もし裁判官たち自身が死刑判決を出すことに倫理的な躊躇を感じていたとしても(相手は18歳で牢屋に入って9年間、27歳になるまでまともに「人生」を生きられなかった若者なのだから、それでも心から悔やんでいるのなら罪を悔やみ償ってやり直すチャンスを与えたくなるのが人情だし)、あんな弁護をやられては文字通り死刑を回避する理由、私たちの社会が果たして人に「死」を持って罪を償うことを要求する資格があるのかの問いが、ほぼ完全に見失われてしまう−−つまり償いとは、本人が心から罪を悔いることによってこそ成し遂げられるべきであるはずではないかとは、あんな弁護をやられては、とてもではないが言えなくなってしまう。
なにせ「ドラえもん」に「魔界転生」って、しかも裁判官はちゃんとこの山田風太郎の小説を読んだらしく、「本当に読んだのならあり得ない記憶違い」を指摘していた。「ドラえもん」だって押し入れが「4次元ポケット」って、そんな設定あったっけ? タイムマシンはのび太の机の引き出しにあったように僕は記憶しているのだが…。ドラえもんが寝てるのは押し入れだけど、別に押し入れに住み着いた座敷わらしの類いじゃないし。「魔界転生」は知らないが、この供述には狂気にはその狂気なりの論理性があるはずのがまるで抜け落ちている。「ドラえもん」を妄想するなら、その「ドラえもん」の設定には、狂気であるからこそ忠実であったはずだ。ただ判決文の行間にも疑いがにじみ出ているが、この新供述が被告の自発的なものだったのかはかなり怪しい。弁護側の小手先のこざかしい技に、虐待を受け寂しい子ども時代で精神年齢が12歳といった「死刑を回避すべき」かも知れない理由になるものも潰されざるを得なくなった。
今度映画版も公開されるらしい人気の刑事ドラマ『相棒』で、津川雅彦演じる法務大臣が死刑執行命令書に署名せず、業を煮やした検察のトップ岸田今日子が拘置所の職員を使って死刑囚を殺させるという話があった。津川雅彦の法務大臣が死刑執行を拒否する理由は、実家がお寺で、自分は還俗しているもののやはりどうしても殺生戒を破れないというもの。この元法務大臣がその後もたびたび登場しては死刑とか法制度と政治の関係問題を突く話を持って来て、法務省が実はえん罪だと気づいていて19年間死刑執行しないことが法務大臣の極秘申し送り事項になってるとか、下手するとテレビの方が映画よりも自由に日本という社会をあぶり出しているじゃないかと思ってしまうくらいだが、現実の死刑廃止議連の親分・亀井静香も、やはり仏教徒だから死刑には賛成できないと言う。かつ自身が警察官僚出身だからこそ…って「あんな尋問で自白をとっていたら、絶対にえん罪が避けられない」と、野党になったら人間は正直になれるものです。「たいていは拘禁反応のノイローゼで、まったく頭がおかしくなった状態で自白する。他ならぬ私が言うんだから本当です」。
一方で現実の司法はもっと恐ろしい。当時新米の左陪席だった判事、判決文を書かされた裁判官ご本人が、退官後に涙を流しながら「私は無罪だと確信していたが、2対1の多数決で死刑判決になった」と告白した袴田事件は、明らかに『相棒』の最新シリーズ最終回の、えん罪の可能性が高いから執行命令書に署名しないことが極秘引き継ぎ事項になっているという話のモデルになっている。石橋連司演ずる三雲判事が 19年前に無罪だと思っていた被告が多数決で先輩判事に逆らえず有罪の判決文を書いたトラウマを抱えていて、その彼を通して司法制度の硬直性と、人を裁くことの資格が問われる。一方、現実の袴田事件では先日、どうも袴田死刑囚が犯人でない可能性が高い新証拠が出て来ているのに、最高裁がなぜか再審請求を蹴ってしまった。ドラマのなかの政府は国家の威信を守るためにこっそりえん罪死刑囚を生かし続けるが、現実の最高裁は形骸化した権威を必死で保守するためだけに、かえって司法の権威を失墜させている。事実はフィクションよりも恐ろしい。
最高裁がかつての最高裁自身の判例を覆して「特段死刑を回避する理由が認められない」と言って差し戻した事件に関して、広島高裁の判事がこの判決の出し方をしたのは、一種の逆説なのかも知れない。判決を出す前にことこまかに弁護側の主張をひとつひとつ否定した上で、弁護のやり方からして被告に反省や改悛が見られずただ死刑を逃れることしか考えていないとしか言いようがない、だから「死刑」と言い渡す。わざわざそういうことをやった意味、裁判長の思い、それがなにを伝えようとしているのかを、我々も少しは考えるべきではないのか。このやり方のほうが、死刑判決とそれが新しい判例になってしまうことよりも、本当ははるかに重要に思える。だいたい、人の生き死にに関わることが、年齢が何歳で何人殺した、というだけで決められていいのか? 死刑制度反対の弁護団は結果としてその死刑制度そのものに潜むあまりにもの残酷さと不条理、そこであまりにも人の命が軽視されていること、そしてそもそも我々の社会に人を裁いて死を要求するだけの資格があるのかという問いを投げかけようとは、まったくしなかった。「死刑のハードル」という形式論に留まって、二人殺したのではなく一人は傷害致死だから殺人は一人だと言う結論を作り上げようとしたとき、実は自分たちが「死刑のハードル」からさえ逃げていたことに気がつかなかったのだろうか?
一方、ニュースは遺族が「満足する判決」と言った判決を、ただそれが死刑だったからであるかのように伝えているが、本当にそうなのだろうか? むしろ言葉にならないし言葉で安易に説明すべきでもない、なにか言葉に出来ないものをなんとか伝えようとしているこの判決の出し方、死刑かどうかよりもまず被告がなにをやったのかを重んじて延々と判決理由を読み上げたそのことが、遺族の心を9年ぶりにやっと和ませたのではないか。裁判官の心がなんとか、なにかを伝えようとしているのを、どこかで遺族も感じたのではないか。
まず明らかなのは、弁護側の方針の虚しさへの怒り、そして被告人に自分の犯した罪をもう一度考え直して欲しいということ。傍聴していた佐木隆三氏が弁護方針を「自爆行為」と指摘し、「被告人が生きて罪を償いたいと思っていたとしても、そのことにまったく役にたってない」と語っていたが、ある意味で裁判官が主文の前に判決理由を読み上げ、しかも微に入り細に入って事件そもののを再現するように語ったのは、せめてその役に立ちたいという思いではなかったのか? 「君はかくかくしかじかこういう許されない罪を犯した。それをよく考えなさい、思い出しなさい」。
この裁判が死刑判決で終わるのはある意味、最初から分かっていた。よほどのことがない限り、他の判決は(最高裁がああ言っている以上)あり得ない。だが広島高裁の判決はある意味でほとんど自動的な手続きとしての死刑を、その出し方を変えるだけで、裁判官たち自身が人間としての自分の責任と義務を少しでも、彼らの出来る限り深く考え、彼ら自身の人間としての匂いを持った判決に変えようとしたのではないか。少なくとも遺族は、そう受け取っていたように見える。
もう少しマスコミの記者さんたちが賢かったら、もっと広く深い意味を持ち得たはずだ。つまりどうしても報道したい判決を聞くまで、記者さんたちはずっと判決理由を事細かに聞くことになる。傍聴席で彼らは被告を見て、被害者遺族を見て、彼らと共にこの判決理由を聞かざるを得なくなる。単純に数行の記事には凝縮できない「犯罪」というものの実相を、彼らもまた考えなければならないようにこの判決は作られていたはずだ。本当なら記者たちは、その時点で「判決が出ました、死刑です! 死刑です!」と叫ぶ以上の報道を考えなければいけなかったはずだし、人の命の重みが分かっていたら、考えたはずだ。彼ら自身もまた、この判決の本当の意味と、「死刑」ということの重みを考えて報じるべきだった。一見裁判所が死刑を出しているように見えるし、我々はそこに逃げている。だが実は、裁判所は我々の社会を代表して死刑を宣告しているに過ぎない。ましてマスコミはたとえばこの判決が無期懲役だったら、裁判所を叩くだろう。我々と我々の社会が、死刑囚を殺しているのだ。国民主権の国で死刑があるというのは、そういうことだ。
それにしても記者さんというのは不思議な人たちだ。ずいぶん長くかかった判決理由の読み上げは、聞いてりゃ判決が死刑なのはほぼ予想がついておかしくない内容だったようだし(なにせ弁護側の主張は、被告自身が暴力的虐待の犠牲者であることに理解を示した以外は、ことごとく弁護側の主張をバッサリ切り捨てているのだそうだし)、そうでなくても最高裁が「特段死刑を回避する理由が認められない」と言って差し戻していて、マスコミも死刑を求めるような論調を繰り返して来たときに、死刑判決そのものは今更驚くような話ではないはずなのだが。なんであんな節操のかけらも見せずに「判決が出ました、死刑です! 死刑です!」と、そのことだけに興奮できるんだろ?
鳩山法務大臣が規則的なペースで順調に執行命令書にサインしていることが批判されている。むろん法務大臣就任時の無責任な発言などいろいろ困った御仁なのだが、我々は彼を責めることでなにかから逃げてはいないだろうか? 凶悪犯に死刑判決が出たと興奮し、鬱憤を晴らす。その一方で死刑執行命令書によってその死刑が執行されることには反対する。そこではなにかが、明らかにおかしい。
詳細な判決理由を延々と読み上げたことは、なによりも遺族にとって「家族はなぜ殺されなければならなかったのか」というどうしても知りたいことを、改めて聞く機会を与えること。被害者側の新しい権利として特別に傍聴できるようになった遺族(以前は遺族だろうが抽選に並ばなければならず、死刑がかかっているような注目の裁判だと、マスコミが融通でもしないと傍聴できないことがほとんどだった)もまた、判決理由を聞くことで、被害者がどう死んだのか、なぜ殺されなければいけなかったのか、最も知りたかったことを聞く。マスコミは被害者遺族と加害者をあたかも対立図式であるかのように報じ、被害者遺族の復讐を安直にはやし立てる。だが本当は死刑になるかどうか、犯人が殺されるのかどうかが本当の問題ではないはずだ。裁判で本当に「真実」が明らかになるかどうかは制度上大いに疑わしいが、しかしその真実のかけらでも把握することを、被害者遺族は求めているのではないか。なぜ愛する家族は殺されなければならなかったのか? 愛する家族は、どう死んだのか?
この裁判は言うまでもなく、死刑を求め続ける遺族の意思が広く喧伝されて全国的な話題になった事件だ。正直に言って、殺されたお母さんの夫、赤ちゃんの父である遺族には、ずっと違和感を感じて来た。この人の人生はなんなのだろう。もっともいろんなことを学んで吸収し、人生を楽しみも出来る若い時期を9年間も復讐に費やすことで自分の人生を止めてしまっていいのだろうかとすら思って来た。犯行時にはまだ彼も23歳、妻子の死は辛くても、新しい人生を始めることもまた必要なのではないか。それができないのはあまりに不幸ではないか。忘れろとは言わないが、乗り越えることは必要なのではないか。いかに憎い犯人とはいえ、その死刑を求めること、はっきり言えば憎しみの対象を殺すことだけが生き甲斐になっていいのか。
だが今日、彼の記者会見を見たとき、彼は本当にただ「死刑」を求めていた復讐の鬼であるだけのように見えていたのが本当だったのか、マスコミが作って来た彼の人物像そのものに疑問を感じた。今日の記者会見で彼は「死刑」それ自体、つまり被告が「殺される」ことを求めるわけではなく、この国の司法制度で死刑があり、それが18歳から適用されるものである以上、この犯罪には死刑という判決しかないと思って来た、と語った。一方で死刑制度そものの是非を、彼は明言しようとはしない。つまり、日本に死刑がなく終身刑が最高刑ならば、それでよかったという意味にもとれる。
その上で彼は人の命の重みという言葉を執拗に繰り返している。そういった部分は生放送以外ではカットされるのだろうが、実はそここそが本当に重要だったのではないか?
「被害者感情」を言い訳に死刑の存続を正当化し、厳罰化を歓迎する世論がこの国にはある。この光市母子殺害事件はその代表的なプロパガンダとしてマスコミに利用され、安易な同情論に染め上げられた遺族は復讐の鬼として、「異常な」犯罪者との二項対立によってもてはやされて来た。そのことについては、僕自身が正直に言って、彼に反発すら覚えて来た。だが今日の判決を受けての彼の記者会見は、それを覆すものだった。「死刑という残酷な判決を出さない社会をどう作るのか」、この判決を受けて自分もまたまっとうに生きていかなければいけない、と彼は語った。
彼が本当に戦って来たのは「異常な」犯罪者である被告ではなかったのではないか?
彼はまた、永山基準の判例によって自動的に量刑が決まって、という従来の司法の流れや、「死刑のハードル」という安易なマニュアル化を厳しく批判してもいた。「それぞれの事件をよく検証して」、個別の事件に対して罪を決めるべきである、と。人の命の重みが、「死刑」といううすっぺらな言葉にのみ集約され、被害者がそれまで生きて来たことのその人だけの生き方も、せいぜいが「死刑」への気分をセンチメンタルに高めていくことにしか使われない。なんら深く考え抜き迷い抜く倫理的で人間的な悩みを経ることなく、ただ「判例」をもとにしてマニュアル的に決まって行く。そうした非人間的なテクニック論の司法によって、死者の記憶は二重にも三重にも蹂躙されていく。地下鉄サリン事件で亡くなった国会議事堂前駅の助役高橋さんの奥さんのシズエさんがが最近出版した手記では、ご主人の遺影を裁判に持っていこうとして裁判所に拒否されたことが書かれている。傍聴も最初のころは、ごく少数の親切な記者が融通してくれなければ席もなかった。シズエさんも「麻原を殺せ」のイメージでマスコミで見せられていたが、手記はむしろ高橋さんがどう死んだのかを知りたいという望みに貫かれ、高橋さんを「英雄」と呼んだオーストラリアの彫刻家に心から感謝している。高橋さんが亡くなったのは、自ら命を賭してサリンの入ったビニール袋を運ぶ役を担ったからだということが、様々な証言から明らかになっている。
そういえば今回の事件でもまず遺族が注目されたのは、裁判に妻と子の遺影を持ち込む権利を勝ち取ったことだった。そして今日、遺族は、被告が以前に送って来た手紙を開封しないと言った。「罪を逃れるための反省文に過ぎないのではないか」「彼の本当の気持ちが書かれていないようにしか思えない」だという。そして被告が判決後一礼したことについて、遺族は「彼がなにを考えているのか “まだ” 分からない」と語った。そして彼はなによりも、この判決後に被告が手紙を書くのなら、それは読むとも言った。
マスコミは残念ながら「死刑判決」にしか興味を示さないし、彼もまたそれに乗せられて来たのも事実だろう。だが一方で、彼は実は犯罪被害者の権利を守る運動でずいぶん大きな功績を残して来ているし、それは「厳罰化」などに単純化できることじゃない。本人が言うようにかつては被害者側が裁判を傍聴するのも不可能だった、「お国」「司法」が人間の心を無視して裁判を進めるシステムを、彼は変えさせた。被害者がちゃんと裁判を傍聴できる権利を獲得もしたし、遺影も裁判所に持ち込めるようにした。我々が普通に知っているのはその程度のことだが、実は被害者の側の心のケアというのは、恐ろしく複雑な問題でありながら、まったく省みられて来ていない。そして我々世間は彼らの感情に味方するフリだけしながら、「死刑だ死刑だ」だけを騒ぐ。彼の「復讐」を成功として持ち上げることで我々は「異常な」犯罪者への憎悪を一晩だけ満足させてスッキリするかも知れないが、それが彼の「復讐」であったのなら、その復讐殺人の罪を今度は彼が背負っていかなければならなくなることを、我々は少しでも考えたことがあるだろうか? 広島高裁の裁判官は、少しでもそれを考えていたのかも知れない。だから「我々は君が犯した罪をかくかくしかじかこう認識し、それを許せないと考える。だから」という形の判決をやったのではないか。そのことにこれまで恐ろしく頑なだった遺族の心の中で、少しでもなにかが和んだ、どこかで彼は本当の自分を取り戻せたようにも見える。
これは彼の「復讐」ではなかったのだ。少なくとも今の彼は、そんなものちっとも求めてはいないことを言っている。彼はただ法治国家において最高に残酷な罪には最高の罰をという、ある意味で単純すぎるほどにシンプルな法治の適用を求めただけだった。弁護側の出して来たストーリーに「本当に罪を後悔しているのなら、死刑は回避できたのかも知れないのに」とさえ言っていた。社会のレベルでは被害者二人だけでなく被告自身も含めて三人の命が奪われることは「明らかに不利益」だとも言い切ったーーあえて殺された妻子と殺したも元少年を合計して「三人」と。
彼はただ、無駄に殺された妻と子が生きて死んだことになにか納得できる意味を見いだしたかっただけなのかも知れない。
亡くなった妻子に「どんな言葉をかけたいか」というマスコミのおなじみの無神経な質問に、彼はそれは言いたくない、「自分だけの言葉にさせて欲しい」と言った。どれだけこの「社会」が残酷にこの青年を搾取して来たか、味方をするフリをしながらどれだけ彼を傷つけて来たか、いかになにも理解して来なかったか、我々こそが反省しなければならないのかも知れない。
弁護側は即刻上告した。恐らく裁判所としても予測の範囲内だろう(だからまだ「死刑」を出せたのかも知れない)。普通の手続きならこの上告をすぐに最高裁が棄却し、死刑が確定する。だが遺族の記者会見を見ていると、最高裁は棄却する以上のなにかをしなければならないと思う。単なる手続き論ではなく、もう一度裁判官たちが自分の人としての心で、この事件と今という時代のなかでその「死刑」がどんな意味を持ちうるのか、遺族自身が「死刑という残酷な判決」と言ったその言葉をただ機械的に繰り返すべきなのかどうかを、まず考えるべきだろう。そして我々の世間も「死刑です!」と興奮なぞしている暇があったら、「死刑」ということの重みをまず考え直さなければならない。我々には人を裁いて死を宣告する資格があるのか? 「被害者感情」を安易に搾取する社会の集団ヒステリーとしての世論におもねるのでなく、人間として我々の社会に本当に「死刑」で持って罪を償わせることが許されているのか、その重荷を背負っていく覚悟が我々にあるのかを、最高裁の判事も我々も考えなければならない。彼らが、そして我々がそこから逃げるなら、殺された若い母親と赤子は、結局は犬死にということにもなってしまいかねない。遺族は「彼がなにを考えているのか “まだ” 分からない」と言った。そして彼が今後書く手紙は「読む」と。
ただ遺族である本村さんには、もうこれ以上、社会が背負うべき重荷まで一身に背負うのはやめてもいいですよ、と伝えられるものなら伝えたい。やるべきことはもう十二分にやったのだから。
これからこの社会を「死刑という残酷な判決を出すような社会」にするためにやらなければいけないこと、この判決の重荷を背負ってまっとうに生きていくためにすべきこととは、誤解を恐れずに言えば、今度は本村さん自身が幸福になることだと思う。もうまなじりを決して戦わなくてもいい。ヒステリックにさえ見えるほど思い詰めた顔でなく、事件が起る前の親子の写真に写っていた微笑みを、もう取り戻してもいい。死後に霊魂が本当に残るのなら、奥さんと娘さんもそれを望んでいるはずだ。あなたは不器用なまでに純粋に、誤解されてまでも彼女たちを愛し続けた。その愛をあなた自身にも、他の誰かにも、向けてもいい。「妻と娘と犯人の三人の命が奪われることになる」社会を、「死刑という残酷な判決」が出ない社会にするときに、役に立つのはそのあなたの愛と、同じ立場にある犯罪被害者の人たちに示したあなたの思いやりなのだから。
4/22/2008
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