非常に見事に向き合って、自身の民族的/文化的アイデンティティを発展させ昇華させているのがダライ・ラマ14世なのだろう。少数民族の抵抗運動に脅威と恐怖から「テロリスト」のレッテルを貼ってそれ以上考えもしない世の中(ヴェトナム戦争はもはや大昔…ベトコンのゲリラは今の中華人民共和国風にいえば「テロ」ってことになるんだろう…)で、実態はまったく植民地主義から抜けきってない世界のなかで脅威と恐怖のパラノイアから本当に少数民族の抵抗を「テロリスト」に追い込んでいる世界の大勢のなかで、チベットが中国人以外にはそうは見られないのは、ひとつには中華人民共和国の単純化されたナショナリズムのプロパガンダがあまりにも内向きで無粋だからなのももちろんなのだが、一方でダライ・ラマ14世のふるまいと、その語ることが単に自民族のことだけでなく普遍的な慈悲・博愛と非暴力平和主義であること、そしてとくに仏教徒でなくても会ったとたんにたいていの人が魅了されてしまう人柄が大きいのは確かだ。チベット文化の最良の部分を体現し、その価値が普遍的であることを指し示す「民族の象徴」がいる点では、チベット民族はとても恵まれているとすら言える。本来なら、どの民族文化だって根底の部分に普遍的な価値があるはずであり、そうでなくてその民族が数世紀に渡って社会を維持出来てきたはずがない。だがなぜかチベット人だけが、その中核にある普遍的な価値を維持しているようにも見える。それは現代中国の漢民族の民族主義の薄っぺらな、もの悲しいまでに20世紀前半の欧米のナショナリズムのコピーでしかない空虚さと、強烈なコントラストを放つ。
世界に跋扈する多くの民族主義は、その部分をまったく見失うことで単純化された「勝ち/負け」レベルの力の誇示、マッチズモに陥っている。それは「金銭」「経済」という悪い意味でとっても普遍的に均質化された価値観(我々はそれをカッコつけてグローバリゼーションと呼ぶ)へのほとんど自動的な反応なのかも知れない。過去に明らかに「勤勉」の美徳を尊び、細かな手仕事と職人的直感から生まれる自由さの追求のなかに類いまれなる洗練されたミニマリズムを発達させて来た我が日本が、勤勉を突き詰めて経済大国になったとたんに、成金趣味の過剰装飾の悪趣味に覆われ、「勤勉」がいつのまにかマニュアルへの服従になってしまったのもしかり。その絶頂期には「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と妙に空威張りしていたのは今いずこ。その凋落と並行していわゆる「右傾化」が進んで来たわけで、「南京大虐殺はでっち上げ」を主張する某元芥川賞作家が、まあ文学的才能が枯渇したのもあるんでしょうが、ああいうことを露骨に言い出す前はソニーの会長と共著で「Noと言える日本」とかを書いていたのだった。もっとも、石原慎太郎の本当の才能はまったく枯渇していないのかも知れない。つまり、「太陽の季節」以来、“時代の空気” を捉えてそれにおもねる直感だけは衰えず、今や希代のオポチュニストである。70過ぎてあそこまで本能的に敏感なのは、それはそれで立派なのかも知れん…。あの歳になればそこに少しは自己省察とかがあってもいいとは思うが。
中国は毛沢東の元で儒教的伝統がガチガチの封建主義になっていた旧弊な社会制度を改革しようとしたのはいいが、性急にぶっ壊そうとした文化大革命が大惨事になり、いつのまにか「社会主義」なぞどこへやら、伝統的価値観の悪いところ(なにかと中央集権体制を夢想したがる想像力に欠如した権威主義と、科挙の伝統の官僚主義の腐敗)だけ残して文化的・倫理的に根無し草となると、民族の誇りと言って拝金主義とマッチョなナショナリズムに頼るしかなくなる。あの悪趣味極まりない「鳥の巣」にエクスタシーを感じ、聖火リレーを露骨な国威発揚と勘違いしてしまう。実際にやってることと言ったら、オリンピックに万博と、大嫌いなはずの日本の真似、それも実にヘタクソな真似じゃんか。まだ東京オリンピックはなんだかんだ言っても円谷選手という実にニッポン的にうるわしくも複雑さに満ちた国民的悲劇神話と、天才・丹下の恐ろしく美しい体育館と、市川崑の傑作映画を遺して日本人の文化を継続させ、70年万博で日本人は「こんにちは、こんにちは、世界の国から♪」と歌っていたし、ソウル・オリンピックで韓国政府がソウルの表通りから犬料理店を駆逐したのはちょっとやり過ぎだったが、そうしたちょっとやせ我慢まで含めた「世界に自分の国を見せる」「世界に興味を持つ」努力(それは客人を歓待するという中国も含めた東アジア的伝統でもある)と較べて、国際的大イヴェントを控えた中国の今の内向きさ加減、外の世界に対してまったく盲目なのはなんなのだろう? 漢民族の「国民性」なのか、共産主義の破綻の後遺症なのか、それとももっと広汎に、21世紀の人類の問題なのか?
日本で起きたのとは比べ物にならない暴力的なスピードと乱暴なやり方で、自らを振り返る余裕もなく進行する「近代化」。戦後の日本はまだ高度成長からバブルまでに2,30年はかけている。中国はオリンピックをやる前からすでにどう見てもバブルだし、オリンピックが終わることにはバブルははじけるのかも知れない。日本は70〜80年代には幻想とは言ってもそこそこに実態はあった「一億中流」があった。中国は社会主義の掲げる平等など一度も形式的にさえ実現できないまま、実はかつての階級制が猛烈な格差社会へとそのまま以降してしまっている感さえある。だいたい毛先生も、その師匠マルクス御大もとっくに看破していたはずだ−−市場主義の経済至上主義はそのまま放置すれば破綻する。巨大な傲慢さでそれを制御できると必死で思い込み、拝金主義とうわべだけの「近代化」に奔走し、世界最大の民族だとうぬぼれながら、その裏で漢民族アイデンティティそのものがバラバラに崩れ落ちている。同じ漢民族マジョリティの台湾の世論は今や「独立」を表立って標榜しようとすらしないで自然に「台湾人」になってしまっている。国内の地域格差はそのまま事実上の階級格差で、一方で共産党下部組織の官僚的特権は変わらない。
お金と権力以外の目標も指標も失って空虚さを抱えたその現実から逃げようとオリンピックに象徴されるナショナリズムの幻想に恍惚となることが…ってのは彼らの問題なのだから彼ら自身が考えればいいことなのだが、その発露はいささかハタ迷惑で、そして見ていて滑稽であることに彼ら自身が気がついていない。いや、どこかで気がついているからこそ、よりヒステリックにサドマゾヒスティックな恍惚に没入していくのかも知れないが。自国の特殊警察にオリンピックの聖火を他国で警護させ、それも見るからに専制的にテレビで見ても分かるように取り囲んで、いったいなにを勘違いしているのか? 彼らはどうせこう言うだろう−−「チベット独立分子がすべて悪い」と。つまりなにもかも“他人のせい”。かつて彼らが批判したはずのアメリカ帝国主義とまったく同じパターンを、アメリカ人以上に下品で野蛮でカッコ悪くやっている。
民族的アイデンティティの保持というのは一般に保守主義に分類されることであり、っちゅうか旧来の伝統のconserve なんだから conservatism 本流そのものなんだろうが、現代の世界でマッチョ的、男権的というかフロイト的に言えばずばり男根主義な保守主義としての「民族的アイデンティティ」は根本的な矛盾を孕んでいる。挙げ句の果てに共産主義を目指してたはずの革命中国がもっともその矛盾のどツボに嵌っているのだが、グローバリズムの世界の偽りの相対化のなかで、個々の価値の相対性を認めることは逆にその価値判断に触れないということなかれに陥り、結局頼れる価値観はしごく単純化された経済的指標とか軍事力とかの「強弱」になり、男根主義的な民族主義は自国が「強い国」「大国」で「無謬」…というよりは批判されることにもの凄く神経質になる。そこでは個々の民族が本来歴史のなかで育んで来た価値観なり倫理観のデリケートな部分はまったく消え去り、どこの国の保守的ナショナリストも結局まったく金太郎飴状態、たとえば日本の「南京大虐殺はねつ造」派と彼らの天敵の中華ナショナリストたちは、行動パターンなどあまりにも似過ぎていて、民族の固有性もへったくれもないし、アメリカの宗教右派の人々とも非常によく似ている。
そんな世界のなかで、なぜチベットが異民族支配と抑圧と離散のなかでチベット民族の文化をああも美しく維持できるのだろう? ダライ・ラマがなぜああいう人物になり、チベットを離れることでチベット文化を守るという離れ業を思いつき、実践できているのか? 誤解を恐れずに言えば、もしチベットが20世紀のなかで普通の発展途上国として継続していれば、こうはならなかっただろう。中国に占領されて民族文化をかなり強引なやり方で抑圧されたからこそ、彼らにとって「近代化」はあまりありがたいものに見えなかったのではないか?
「私たちは、たとえ間接的にでも暴力と受け取られかねないいかなる行為をもすべきではないのです。たとえ耐え切れない怒りに駆られているとしても、私たちが育んできた深く尊い価値を傷つけるようなことをしてはならないのです。私たちは非暴力の道を成就できる、と私は固く信じています。私たちは賢明であらねばなりません。これほどに先例のない愛情と支援を世界中からいただける理由はどこにあるのか、理解していなければなりません。」
ダライ・ラマ14世、2008年4月6日、「チベット人のみなさんに向けて」の声明
その「深く尊い価値」、非暴力、平和の希求、思いやりというのは、果たしてチベットだけのものなのだろうか? そんなはずはないし、だいたいダライ・ラマ14世自身が、本来それが人間として当然のことであるはずだと言い続けている。だがいわゆる保守伝統主義のほとんどは「愛国心」を煽りながら、それぞれの文化が本来持っているはずの智慧や道徳や美意識を真っ先に捨て去る。映画『靖国』で実はもっとも感情的な反発を潜在的に引き起こしている部分は、本当は南京大虐殺の写真でもなんでもなく、コスプレ参拝者のおよそ日本的美意識などとは無関係な滑稽さではないかと思う。見たくない自分たちの姿を撮られてしまったみたいな…
ダライ・ラマは実体ある国家組織を運営する日常生活的な政治の凡庸な現実と切り離され、理念をめぐる過酷な政治的現実に晒されて来たからこそ、直接「近代化」に晒される(それはもう、現代の世界において止めようがない)民族の国土を持たなかったからこそ、チベットの文化はチベット人のなかに残ったように思えてならない。ダライ・ラマはチベットという国土を離れることでしかチベットの文化を守れなかったから亡命しエグザイルの立場に身を置いたのだが、エグザイルの身になったからこそ、彼はダライ・ラマであり続けられたのかも知れない。同じような立場で思い浮かぶのはローマ教皇は、ヨハネ=パウロ2世までは辛うじて尊敬を集め得たものの、現ベネディクト14世の俗っぽさは「宗教的官僚」と揶揄され、ホンネが出たのか(?)的な差別発言は本名のラツィンガーをもじって「ナチンガー」と母国ドイツで言われているほどだ。
チベット民族にしても気になる現実もある−−たとえばニューデリーでの聖火リレーに呼応してデモを行ったのは、主にチベット青年同盟のメンバーだったようだ。そのデモのやり方は非常に、なんというか、普通の派手な、っちゅうかバタ臭いデモであり、チベットが宗教国家だったが故の非暴力主義や精神性などほとんど感じられない。サンフランシスコでのチベット側のデモ隊と中国系のデモ隊の衝突は、とてもアメリカっぽい風景だった。現実問題として、ダライ・ラマは抗議する自由は誰にでもあると表明しつつ繰り返し暴力的行動は慎むように呼びかけているが、あまり効果は発していない。亡命チベット人もまた明らかに変化し、「近代化」している−−チベットの文化が指し示し得た、あるいはダライ・ラマが説こうとし続けているオルタネイティヴな方向性とは異なった、世界中どこの発展途上国、あるいは先進国に住む発展途上国出身移民の欲求不満と変わらないような…。今のダライ・ラマがいずれ亡くなるか、影響力を失っていけば、チベットの運動が暴力的独立闘争に変貌する危険は十分にある。元々寛容の精神が非常に賞揚されていたはずのイスラムが今では一部の人間からどう解釈されているか、やはり徹底した非暴力主義であるはずキリスト教はなにをやっているか。チベット仏教だけがそうした変化から逃れられるという保証はどこにもない。逆に言えば今の争乱状況が、物事をなんとか平和的に納める最後のチャンスなのかも知れない。今のダライ・ラマがいなくなれば、精神的支柱を失ったチベット民族主義が凡百の暴力も辞さない独立運動に変貌することはないだろうか? そうなったら中国にとっても取り返しのつかない事態になるだろう。
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