http://www.windwalk.net/afterlife/sortie.htm
12年前にとったロング・インタビューがまだウェブ上で読めるようになっているので、今だからこそあらためて、ぜひ読んで頂きたい。
この惑星で、 生き延びるために トーキョー=ヤマガタ、ロバート・クレイマー インタビュー
Chapt.1, Chapt.2
Chapt.3, Chapt.4, Chapt.5
この20世紀の終わりに、本当に難しいことは、自分の考えで考えることだ。あらゆることが既存のチャンネルにあてはめれ、一般論で言えば、皆のために経済的な利益を生ずる方向へと収斂されてしまう。だからもしその外側にありたければ、極めて狡猾でなくてはならない。現在ある社会構造を避けて回り道を覚えなくてはならないし、誰が同盟者なのかを見極めなくてはいけない。
現代の映画作りで最重要な問題は、時間だ。なぜなら時間はそのまま金であり、だから自分のやりたい仕事をするのに必要な時間をどう確保するかが問題になるのだ。例えば『ディーゼル』のときの問題のひとつは、私がこのことにまったく気づいていなかったことだ。だから、撮影が終了したとき、題材の3分の1が未撮影だった。プロデューサーが残りも撮らせてくれると期待していたが、プロデューサーにしてみれば、そんなことは一瞬だって考えることがなく、結局映画はその部分が欠けたまま無理やりつなぎ合わせることになった。こんなことは二度と起こらない。自分をどう守ったらいいか、ずっとよく学んでいるからだ。一定額のお金があるとき、その二倍かかる映画を想像することは非常によくない考えで、始終時間との戦いに悩まされることになる。
例えば、今ではほとんど映画をうちのビデオで編集する、ビデオで編集を初めて、フィルムで完成させるのだ。理由のひとつは、私自身の給料は映画一本当たりのものだから、自宅でやっている限り、製作会社の出費になる編集者や編集設備を使わないので、好きなだけ時間をかけても構わないのだ。だから自分が映画をコントロールできていると感じてから初めて、実際の編集過程に入れるのだ。そう言うと、ビデオで編集なんて絶対にできないという人に遭遇する。それに対する私の答えは、確かにビデオで編集するのはフィルムで編集するのとは違う。だがビデオで編集することで、膨大なフィルムの中から何が必要で何が要らないかを見極め、必要なぶんだけラッシュをプリントすればいいのかを決めることができるのだ。これで金の節約になるだけでなく、製作会社から何週間遅れている、何カ月遅れていると催促される苦痛から解放されることができるのだ。例えば『ルート1』のような大きな映画の場合、私は3、4カ月はひとりでビデオで編集し、そのあいだに映画を理解することができたから、実際の編集に強い立場で入ることができた。
私にとって映画作りのイメージというのは、戦争なんだ。あるいはサムライのイメージ、軍隊の演習のイメージだ。自分を守らなくてはいけない。攻撃態勢でなくてはならず、さらに自分を守らなくてはいけない。一本の映画にどれだけ時間がかかるかを把握しなくてはいけない。今はよく、同じ連中と組むようになっているが、彼らは私のやり方を知っている。だから撮影スケジュールを見て、私がこれでいけるだろうと思っても、彼らが「いや無理だよ。君ならこの倍の時間が必要だ」と言ってくれる。私も「OK、君の言うとおりだ」というわけで、別のやり方を探すことになる。こうしたことすべてが、生き残りの戦略なのだ。
私は自分の傷つきやすさを感じて、生き延びるために立ち上がるような人間の方にずっと関心があるんだ。自分を守るために立ち上がる人。それは我々の大部分がこの世界でおかれている状況でもある--極端に、傷つけられる立場にあることだ。この世界は個人個人の欲求にいちいち心を配ってくれる場所ではなく、人間はただ定まった男である在り方、女である在り方にあてはまって生きるように求められているが、それは一人一人の本当の体験にとって正直なこととは言えない。たとえば父親の役割を要求されてるある人の、その内面が崩壊しつつあることだって少なくない。だから私の映画の人物たちが傷つきやすいというのは真実だ。彼らは「俺は知らない」と言ってしまう立場におかれているし、自分の置かれた状況のなかでどう行動したら分からないように準備されている。その代わりこの彼ら、いわばささやか人間たちは、ただその分だけより正直に生きようとしているのだ。
私は服従なんて信じない、子供の親の支配に対する服従とか。
これはときには、弱さに見えることもある。だが私の描く人物たちは傷つきやすいかもしれないが、弱者とは程遠い。そして自分たちの持つ力の多くを注いで、自分自身の尊厳を守ろうとしている。基本的にまったく尊厳とは無関係のこの世界のなかでね。
私は多くの映画に、本当の"人物"を見いだせない。見えるのは図式だ。ただ現在ある階級構造を甘受すること、性的役割分担をそのまま甘受すること。そうしたものを何か別のやり方で再定義しようという努力を映画のなかに見いだせないのだ。これは大ざっぱに言ってハリウッド映画と、我々の生きる世界との関係にも言えることだろう。炎の壁をくぐり、交通事故でも切り抜ける人々--さて現実には、私には交通事故や自然災害、暴力で傷つく人間しか見えない。これは実は、私がドキュメンタリーとフィクションの違いについて悩んでいることでもある。リアリティとフィクションの違いは、物語り形式を取るか取らないかに関わらず、現実の世界の在り方についてか、そうではないかだと思う。ドキュメンタリーでもまったく我々の生きる現実と無関係なものを作ることができるし、実際いつもテレビでやっているのがそれだ。
一方で、世界は大変急速に変化している。人々はいまや、伝統的な家族とは異なった様々な人間関係のなかに生きているのだ。たとえば日本では、テレビで見ていることと、実際の街で見ていることの違いは驚くほどだ。連続ドラマや、東京を映した映像にでさえ、実際に私が見ることとのあいだになんの関係を見いだせない。
シネマとは特別なものだ。ムーヴィーとは違う。我々の知っていた映画はまた、我々がどういう考え方をするか、世界をどう分析するかと関係があった。そしてあの手の大きな映画がまず絶対やらないのは、世界を分析することだ。世界について何か言ってはいるかもしれないが、基本的に最も強烈な印象だけを混ぜ合わせているだけだ。たとえば"愛"はこうした複雑な宇宙ではない、だれも愛のディテールにまで入って行く暇がないから、愛は"電撃"ということになる。暴力とはこういうものだ、権力とはああいうものだ、というように、単純なゲームのように将棋のコマを動かしていく----これは分析じゃない。そして人々は生活のなかで、分析をしようという忍耐をどんどん失って来ている。読書は減ってマンガを見るだけになり、テレビもまた分析とはなんの関係もない、 ただニュースや連続メロドラマ、ときたま映画を混ぜ合わせた自己満足的な映像の流れに過ぎない。その意味で、世界を理解することという映画本来の投企は、すでに死んでしまっている。
Q それでもあなたは、この世界をよりよく理解するために映画を作り続けている。
まだ作ろうとしているし、続けて行くつもりだ。自分はそのやり方を知っているし、自分の全能力を注ぎ込んでも、それをやり続ける立場を守って行くつもりだ。そして何が起こるかを見極める。それがこの人生をつかってなすべきことだからだ。まさにウォーク・ザ・ウォーク(笑)、人生の歩みを歩くことだ。
Q あなたの映画の一本一本が、映画の表現の上でも、世界に対する考え方の点でも、新しいこと、別のことへの挑戦になっているのではないでしょうか。それはあなたが常に今、現実の世界との関係のなかで映画を作っている以上、当然そうなるしかないことではあるのですが。
この世界で、誰であろうと人に、何か違うことをやって欲しいと思う人間はほとんどいない。"違うこと"とは普通--そして何よりも私の場合は絶対に--自分が何をするのか正確に、前もって言えないことだ。どのような物語になるか、どの程度の量のフィルムを使うかさえね。ああした映画は途方もないギャンブルなんだ。
ボブ・ディランの歌詞に「ハイウェイはギャンブラーのためだ、チャンスに賭ける者の」とかいうのがあった。後半は「偶然から手に入れられるものは全てを手に入れろ」だったかな。すべてがこの問題、どう歩いて行ったらいいかを模索すること、簡単ではない状況の中で生きるための別の道を探ることについて展開する。
人生は楽ではない。リスクはたくさんあり、まだ若くて、自分のキャリアが何であるか定まっていない者にとって、これは決して容易なことではない。若いということは、年上の人達のなかで自分のキャリアを切り開くことが深刻に限定されるということだ。だが君が自分のなりたいような人間になりたいと思ったら、そのリスクは受けて立たねばならない。これが私が、本当に語りたかったことだ。
ここには大きな矛盾がある。私の映画は本当に若者達のためなのに、映画の形態は本当に若者達にとって分かりやすいものではない。この問題は私がずっと考えていることだが、その答えはまだ見つからない。私の映画はまだ若い世代、自分の人生について、自分の人生を変えること、自分の夢に生きることができるだろうか、など諸々の問題について真剣に考えている人々のためのものだ。だが一方で私は確実に年をとっていき、私の映画作りはある面で洗練されていっている。私の60年代70年代の映画は若者にとって取っ付きやすいものだったが、今ではその判断が見えない。
子供は親の世代が生きた経験を自分が生き直すべきなのか、すでに生きられた経験から何を学ぶことができるのか。普通、父と子の関係というのは、親父が「息子よ、俺の経験からいって、俺はこれこれこういうことを知っているから、お前はこうするべきだ」と始まる。だが私は、「我々がやってしまったことのこのひどい結末を見ろ」という立場にいる「お前は自分の道を自分で見つけなければならない」とね。同時に、私も私なりの経験があり、その知恵は伝えたい。だからこの関係にはまだ豊かな鉱脈があり、まだ私がその可能性を探り尽くしたとは思っていない。新しい映画でもまた始めようと思っている。
Q『マント』で息子的人物に当たる少年は、父親像にあたるあなたの人物よりも実は強いし、あなたたちが世界をめちゃくちゃにしたが、我々が戻ってくる、と言いますね。
まあね、それは・・・それは本当だと思う。これからがもう我々の世界ではなく、君たちの世界であることを期待している。ただしまだ確信は持てんがね(笑)。
この10年、ないし12年で世界は大きく変わったはずだが、実はなにも変わっていないのか…。12年前の「説教親父」の言葉は今でも十二分に有効に思える。
説教親父…と未だについ冗談めかして言ってしまうのには、上に一部を引用した4時間に及ぶインタビューというか大説教(笑)以外にもわけがある。
このときの来日の後、クレイマーは二本の日本で撮る企画を考え始めた。その一本は戦後間もなく広島に軍医として駐留した父のことからインスパイアされた『Ground Zero』というかなりの大作。もう一本がとてもパーソナルな製作規模で日本の若者の現実をドキュメンタリーとジャン・ジュネにインスパイアされた象徴的なフィクションのあいだのスレスレの一線上で撮ろうとする野心作『Lust For Life』。
実はこの企画のシノプシスで、初老の画家の「ユキオ」(もちろん三島を意識しての名前だと思うが)とはクレイマー自身のことであり、「The Boy」は僕がやることになっていて、二人がそれぞれにキャメラを持って二人の主観ショットだけの映画にする、という斬新というかめちゃくちゃなアイディアの映画だった(当時もスチル写真はやってたので、鍛えりゃムーヴィーも出来るだろうということらしい)。当時はまだ「自分は映画なんてまだまだ撮れるほど成長した人間ではない」と思っていて批評とインタビュー取材ばかりやっていたのが、まず「お前は映画批評なんて世界の動きから一歩引いた立場に居続けてはいけない」とかなんとかさんざん説教され…。って、でもすぐに「じゃあ頑張るわ」と言ってしまっていたわけなのだが。
1998年ごろにはずいぶんやりとりをして、時にはクレイマーから見て僕が言ったことの考えが足りないと思ったところを容赦なく、プリントアウトしたら5枚に及ぶ大長文で緻密に分析かつ指摘されたり。「説教親父」の面目躍如と言ったところだが、そんな体験が大変だけど面白過ぎて準備してたのが、ロバートがその遺作になった『平原の都市群』の編集中に突然倒れ、わずか一週間後に帰らぬ人になってしまったのが10年前の11月10日だった。
それから10年、世界は変わったのか? たぶん今みたいにSkypeとかあったら、長文の説教が届くよりももっと大変だったかも知れないけど…。でも『Lust For Life』が撮影にも入れなかったのは今もって心残りなことではある。
2001年の「ロバート・クレイマー特集」会場で、バール・フィリップスと筆者。バールはその後筆者のデビュー作『インディペンデンス』の音楽を担当。
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