最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

12/22/2014

茶番の総選挙後ニッポンを生き延びるための良識


終わってみれば自民党は議席を減らしている。史上最大議席を誇る与党にとって最初から分かっていた通りなんのメリットも大義もない「解散総選挙」にしかならなかったその結果は、しかしなぜか「圧勝」と報道され、しかも「圧勝」のはずなのにその余波が報道からあっと言う間に消えて、2014年は終わろうとしている。

強いて言えば、減った数議席ぶん以外の与党議員たちは2年後までが任期だったのがこれから4年に、つまり2年ぶん延長され、任期満了後の選挙だったら惨敗しそうだったところそれが先延ばしになった、というメリットはあったのかも知れないが、仮にこの解散がなく2年後に任期満了で総選挙になったとしても、今回のような選挙報道だったら、結局はやはり与党が勝つのではないか?

争点もなにも報ずることもなく、選挙戦で野党から当然出て来る与党批判を国民の耳に入れないために選挙それ自体をほとんど報道しない、というやり方の結果は、当然の帰結としての史上最低投票率だった。

なのにその大手メディアがしたり顔で「国民の無関心」をなじるのだから、どこまでご都合主義な自己欺瞞で、空威張りを続けたいのだろうか?

近頃のブンヤは読者を「愚民」とでも決めつけてエリート気取りでふんぞり返っているのだろうか? あるいは「自分たちはエリートだ」というプライドにしがみつくため読者を愚民扱いしなければ、自我が根底から崩壊してしまうのかも知れない。

まあしょせん、日本で東大出であることでもっともエリート面して威張り散らすことのできる世界といえば三つあって、霞ヶ関と、築地(朝日新聞)と、代々木(日本共産党)である。 
この三つの世界での東大卒バリューは、当の東京大学の学内よりも大きいほどだ。

なにしろ安倍が解散を発表した時点で言い出したのは、もはや誰も反対できない「消費増税10%の先送り」という争点にならない争点だったし(内需と消費に関する経済指標がこれだけ悪ければ、財務省ですら強行は不可能だ)、公示前はさすがに報道せざるを得なかった行き過ぎた円安のダメージやアベノミクスの明らかな失速も、選挙戦中は報道が激減して、今度は空前の原油安で円安による燃料費値上げが相殺されるかのような話までさんざん喧伝され、なにを判断すべき選挙なのかの問題意識は徹底してぼやかされ、隠蔽されていた。

もちろん実際の選挙期間中には野党候補からアベノミスクの問題点や、安倍政権のやって来たことで明らかに誰もが疑問を持つであろう問題も、ちゃんと提示はされていたのである。ただそれが報道されなかっただけだ。

みんなの党の政策ブレーンだったはずがいつのまにか維新の江田憲司氏は、安倍政権になって公共事業が5兆から10兆に倍増していることを暴いた。さんざんもてはやされた「アベノミクス」は確かにこれまでの常識では考えられない異常な金融緩和政策だったが、しかしそれで一時は景気が上向いたかのように見えたのすらただの幻想で、昔ながらの公共事業で実態経済に税金から真水が注入されたから、ということになる。

しかもその前には、「震災復興」と称してやはり相当量の真水がすでに建築業界を中心に注入されているのだから、アベノミクスによる景気回復と成長路線というのがまったくの当て外れだったのだ、と言わざるを得ない。 
昨年は比較的数字がよかったのだって、金融緩和の結果の金あまりが、消費増税前の駆け込み需要で建築関係を中心に使われたからだろう。 
不況時の経済政策の定番であるはずの金融緩和がほとんど効果を示さないのは日本では今回に限ったことではなく、バブル崩壊後の度重なる金融緩和だって一度として期待された効果を上げたためしがないのだが、前代未聞のアグレッシブな金融緩和でさえ日本経済についてほとんどなんの効果もなかったことになるのだから、きちんとした検証が必要なはずだ。それこそインフレ・ターゲット論の最初の本格実験がアベノミクスだったのにそれがうまく行っていないのなら、経済記者はいったいなにをやっているのだ?

ミスター年金こと民主党・東京七区の長妻昭氏は、かつてバブル期に年金が株に投資されて「消えた年金」となった苦い過去があるというのに、安倍政権になってから年金積み立て基金がすでに半分以上株に投資されていることを暴いた。

「このままでは今度は消えた年金基金になりかねない」という危機感はその通りだが、これもまったく報道されないので、危機感が国民に共有されることはまずない。

●メディアは今年夏の黒田日銀による「追加金融緩和」(その結果がもはや歯止めの効かない行き過ぎた円安)の内容を決して分かり易く報道はしようとしなかったが、生活の党代表の小沢一郎氏は「もはや公定歩合を下げるだけでは足りず、日銀にお札を刷らせてそれで債権を買わせている」と分かり易く本質を解説した。

これもそう説明されれば、中学校で習っている程度の経済学の基本で「危ないのではないか?」と普通に気づくことなので、メディアはわざと難しい言葉で本質をぼかし、挙げ句に選挙戦の報道すら控えてしまっていた。

さらに始末が悪いことに、これらの問題はいずれも、本来ならとっくの昔に新聞やテレビがすっぱ抜いて報道しておくべきだった話なのだ。つまり政治ジャーナリズムが怠けに怠けて来た事実がばれないように、今度は選挙報道すら怠けてしまったのだ。

安倍官邸の圧力を恐れて政権に不利な報道をずっと控えて来た大手メディアは、政権の問題だけでなく自分たちの不作為というか報道機関として明らかに問題がある自分たちの怠慢も隠蔽しようとして選挙報道自体をほとんど怠けてしまうことでさらに状況を悪化させている。

選挙中に安倍が海外のメディアに対して発信していたことも、日本のメディアはまったく無視している。

公示後まもなく、安倍は英国の経済紙Economistのインタビューに応じているが、そこで彼は総選挙の目的を、政権の権力地盤を固め確かな経済政策を行えるようにするためだと論じ、具体的に「何十年も改革出来なかったことを改革する」と言って電力自由化、さらにはなんと農協の解体、そして高齢者医療や終末期医療の改革と雇用制度改革まで目標として挙げている。

インターネット上で英語とはいえ誰でも読めるような首相の重要インタビューで、首相が争点とみなすものが語られているのを、選挙中の国内メディアがまったく無視するとはいかなる珍事なのか?

むろんこと農協解体は、国内で報道されたとたん自民党の地方における組織票のかなりの部分が瓦解する。 
高齢者医療や終末期医療の改革はよほど丁寧に内容を説明し決して国民の生命それ自体に関わるようなことにはならないと保証出来なければ、高齢化が進む都市部でもあっという間に自民票は激減したはずだ。

選挙戦が終わった途端、安倍は開票速報番組で改憲を進めて行くことを力強く(自慢げに)強調してしまったそうだが、安倍に選挙を(一応は)勝たせることが改憲推進になり得ること自体、メディアは選挙期間中ずっと国民から隠して来た。

2012年総選挙でも翌年の参院選でも、メディアは改憲論集団的自衛権特定秘密保護法も、安倍政権がそれを推進するのが分かっていながら選挙中に争点として報ずることはしなかった。それで安倍を勝たせておいてギリギリになって反対論を社説に書いたところで、今さらなにを、でしかない。

別の選挙速報番組では、いわゆる保守系メディアのはずのTV局のニュースキャスターが、アベノミクスの将来について当たり前の疑問を問うただけで、安倍はイヤホンを外して一方的にまくしたてたという。本来ならこの醜態は翌日朝刊の一面を飾っておかしくないスキャンダルなのに、とりあげたのはごく一部のウェブ媒体だけだ。

まったくもって、とにかく政権に不利そうなことは一切メディアが報じないのでは、史上最低投票率でなんとなく安倍が「圧勝(ではない、議席数は減っている)」してしまうのも無理はないし、それは安倍とその政策が支持されていることをまったく意味しない。

国民にはこの政権、この首相についてどう判断するかの十分な材料すら与えられていないのだから、支持するかどうか以前の問題だ。

じゃあなんのための選挙だったのか?750億もかかったそうだが。

この責任はまずなによりも、報道業界の怠慢にある。はっきり言えば日本の報道は、もはや死んでいる

メディアや識者と称する人たちが安倍に支持が集まっているかのように装って「右傾化」を危惧するかのように言うのは、半ば以上欺瞞でしかない。「右傾化」しているのは国民ではない、あなた達だ。 
国民に問題があるとすれば、あなた達が進んでいる危険な方向性に疑問すら持たないことなのだが、しかし疑問を持つもなにも、そもそも知らされていないのだからしょうがない。

日本のメディア、ジャーナリズムの堕落が決定的になったのは、いわゆる慰安婦問題について、朝日新聞が官邸の圧力に耐えられず、90年代初頭に朝鮮半島の女性を慰安婦になるよう強要したことに関する初の元日本軍関係者による直接証言(吉田証言)の報道を自ら否定し、「誤報」「虚偽」と言わされてしまったこと、その論理のおかしさを他の新聞がまったく批判すらせず、金太郎飴のように「慰安婦問題は朝日が捏造しただけで存在しない」とまで言い出しかねないことだ。

本来なら、いわゆる保守系で吉田証言を報じた朝日とは立場が相容れないかのように見えるメディア(たとえば読売新聞や産経新聞)でさえ、ジャーナリストとしての職業意識さえあればあの朝日の「撤回」は批判しなければならなかった。 
右だ左だ以前に、ジャーナリズムとしてやっていること、言っていることが、あまりにおかしいのだから。

朝日の当初報道で問題があったとしたら、慰安婦制度やその問題点についての認識が当時としてはやむを得ないこととして、研究が進んだ現代からすればいささか杜撰だったことと、当時には直接的な裏付け資料が見つかっていなかったことに過ぎない。

朝日が報道した時点では吉田証言を完全な事実として確証を持って報道する根拠がいささか足りなかった、という批判はまああり得なくもないが、曲がりなりにもある人物の証言内容を「虚偽」と断じてその報道を「誤報」などと断言する根拠こそ、現代の朝日新聞社はまったく持っていないし、少なくとも朝日が「訂正」「撤回」と称した記事には、その根拠が一切提示されていない。

吉田氏はすでに鬼籍に入っているが、こんなことが本来なら許されるはずもなく、根拠もなく嘘つき呼ばわりされた氏が朝日新聞社を名誉毀損罪で訴えてもおかしくない。

実名で証言した取材対象に対するジャーナリズムの側からのひどい信頼関係の冒涜以外のなにものでもない。 
お人好しにもスクープの中身を提供してやったのにこんな侮辱を受けるのでは、誰も新聞の取材になんて応じなくなくなる。

こうして官邸の圧力に屈して報道の矜持を売り渡しただけの朝日と、金太郎飴のようにそれに追随した現代の日本大手メディア(リベラル系、保守系のかつてあった区分けを問わず)の態度のさらなる問題は、その報道があった当時の歴史的文脈すら完全に無視し、いわば「現代の価値観で過去を断罪する」の典型をやってしまっていることだ。

第二次大戦で日本兵だった人たちがまだ多く存命だった時代には、日本軍が朝鮮人女性を慰安婦になるように強要して性的に搾取したなんてことは、おおっぴらに語ることこそはばかられる恥であったものの、当たり前の認識だった。

吉田証言が出て来た文脈とは、誰もがそうであったに違いないと思っていても確定的な証言・証拠は誰も明らかにしていなかったことに、初めて匿名告発ですらなく自らの実名を名乗っての証言が出て来たことに過ぎない。

つまり当時の一般的な受け取り方では「吉田証言に裏付け」が必要だったのではなく、吉田証言の登場の方こそが、みんなが実はそう思って来たことの「裏付け」だったのだ。

さらに馬鹿げた話なのは、直接的に吉田氏が自分が関わったと証言した件についてならともかく、より広範な意味での「裏付け」、つまり慰安婦徴集に強制性があったことを示すか、強制であったと解釈するのがもっとも合理的な資料も証言も、この20年のあいだに大量に出て来ていて、そこにはアジア女性基金による綿密な歴史学的手続きを踏んだ調査の成果だけでなく、日本政府が(しぶしぶながら、遠慮がちに、明らかにやる気なさそうに)調査の上開示した公文書も含まれているのが、現実であることだ。

吉田証言が発表された時点では、日本政府は当時の公文書の調査すらしていないし、それらの資料を公開・開示もしていなかったのに、その当時について「資料的な裏付けが」とか言い出すこと自体、倒錯したナンセンスもいいところであることも指摘しておく。 
まさに事実関係の時系列の認識がひっくり返っていなければ思いつかないような話だ。

しかし河野談話やその準備のためもあって、政府がしかたなく当時の公文書で現在も残存しているもの(慰安婦制度関連の公文書は終戦時にほとんどが破棄され証拠隠滅されていて当然であるにも関わらず)を調査した結果、政府がギリギリの詭弁の言い訳でなんとかでっち上げられた公式見解は、せいぜい「強制を直接に命じた文書は見つからなかった」でしかなかった。

こんな「見解」が実質的な意味皆無の下手な言い訳でしかないことは、子どもだって本来なら分かる。

まったくもって、常識で考えればこんな公式見解は見え透いた詭弁の言い逃れで、なにも意味しておらず否定も出来ていないのは言うまでもない。

文献学としての歴史学の基本すら、この人たちは理解出来ていないのだろうか?

過去において起きた事実がすべて記録されていることなぞあろうはずもなく、当時に書かれた膨大な記録のなかで現存が確認できるのはごくごく一部に過ぎないのは、歴史学では当然の前提だ。現存してないからそうした記録が「なかった」、記録がないからその「事実がなかった」などと言えるわけもなく、まして一次資料である当事者証言があるのなら、よほど非常識で素っ頓狂で現実的にあり得ないものでもない限り、まず事実を踏まえたものだという前提で考えるのが当たり前だ。

ちなみに、例えば先ごろ朝鮮総督府の木っ端役人だった人が「慰安婦が強制されたことなんてない」と “証言” したそうだが、こっちは「よほど非常識で素っ頓狂で現実的にあり得ない」の典型になる。慰安婦になるよう強制されたのは現場でであって、総督府の役人の耳に直接入らない、見えないように、知らないフリが出来るようになっているのが、役所として当たり前の組織論だ。
実を言えば安倍晋三自身、先にも触れたEcominist紙のインタビューで、強制があったことを認めている。ただし「当時に兵隊たち個々人がやった犯罪行為ならあっただろう」、つまり軍が命令に基づき組織的に関与したのではなく現場で兵士が勝手にやったこと、という言い訳になってない言い訳で逃げているわけだが。

慰安婦制度の運用の実態については、まず仮にそんな直接命令の文書記録があれば、終戦時の混乱で紛失している場合が多いどころか、可能な限り破棄・証拠隠滅されていて当然だ。

朝鮮総督府や陸軍20師団などが出した命令書の全体で、破棄されたり終戦時に紛失せずに残っているものはいったい何パーセントあるのか、最低限でもそれくらい同時に公表しなければなんの意味もない。

しかも当時の日本の国内法でも、直接的に女性に慰安婦になるよう強制・強要すれば、それ自体が違法行為だ。そのような命令は軍法会議で証拠採用されてしまうので、口頭や暗黙の了解で済ますのが当たり前で、最初から文書になぞしない。その程度の知恵も働かないほど間の抜けた軍隊、軍事機密を守る意識が皆無の無能な司令部なぞ、前代未聞の笑い話にしかならない。

しかも日本政府が極めて消極的な態度で手近な公文書を調査しただけでも、その目的が「慰安婦になり、慰安婦として働き続けるよう強要するため」と明記されていないだけで、徴集時の立ち会いに始まりいわゆる慰安所の警備・管理を軍が直接やっていたのはもちろん、慰安婦の健康診断(というか妊娠や性感染症の管理)まで軍医がやっていた、あらゆるレベルで軍が関与していたことまで証明されてしまっている。

「立ち会い」がただの傍観者であったと言い張るとしたらあまりにバカバカしくてお話にもならないし、「命令の目的が強制だとは書いていないから強制はなかった」と言い張るようでは、子どもにさえ馬鹿にされる。

安倍政権を中心とする慰安婦問題を矮小化ないし無視しようとする側の論理は、日本軍が並外れて純真で無邪気過ぎて、軍事組織としてはあまりに世間知らずの幼稚さゆえにまるで無能だったとでも仮定しない限り、まるで成り立たない子どものへ理屈に過ぎない。

ところが彼らはこんな帝国陸海軍チョー無邪気お子さま軍隊説と並行して、当時の日本では借金のカタに貧農の子女を強引に娼婦にするのが横行していたことや、日本に限らず軍隊に性の問題はつきもので戦時性暴力はどこの国の軍隊でも問題を起こしているではないか、と主張するのである。

馬鹿げた矛盾のダブスタもたいがいにすべきだ。

悪徳女衒が横行していたらしい国の軍隊だけが、世界じゅうのどんな軍隊でも当然ながら大なり小なり犯していたはずの罪とまったく無縁の、純粋で純朴な正義の味方で性欲ゼロの貞節な童貞集団だった、とでも言い張るのだろうか?

だが日本の大手メディアはすべて、まともな知能と現実社会の理解さえあればバカバカしくてお話にならない、詭弁にもなっていない詭弁を金太郎飴のように鵜呑みにし、朝日新聞がよりによって政権の圧力に屈してジャーナリズムの最低限の矜持と取材源の確保を担保するルールをぶっ潰したことを批判すらせず(なんの根拠も示さずに自らの取材に応じてくれた相手を嘘つき呼ばわりとは、こんなことをやっていてはもはや誰も新聞記者を信用して証言しようなどとは思わなくなり、ジャーナリズムが自らの首をしめるようなものなのに)、しかもたったひとつの、確かに今からみれば詳細が曖昧で不正確な部分もあるようにも見える古い証言ひとつを否定するだけで(取材者の認識不足で質問が未熟だったのは明らかだ)、過去20年の間に調査も研究も進み証言も多々出て来ている慰安婦問題そのものを否定できるという論理倒錯すら、通用すると思い込んでいるのだ。

もちろん同じバカバカしさの先頭を切っているのが我らが安倍総理大臣閣下であるのは言うまでもなく、朝日新聞は日本の名誉を毀損したことを国際版で謝罪しろとまで息巻いているそうだが、こんな倒錯したナンセンスで報道機関に圧力をかけようとする(しかも恥ずかしげもなくそれを公言してしまっている)政権にまったく無批判なようでは、新聞記者も新聞社の経営陣も安倍と同罪、同レベルの愚かしさ、いや自らの職業に対する裏切りでしかない。

安倍が問題なのはもちろんだが、本当のガンはメディアにあるように思えてならない。

今の日本のメディアは大手を中心に、フリーランスの多くに至るまで、いくつもの面でジャーナリズムに必要な最低限の認識が欠けている。

1)大手メディアがここまで官僚機構や官邸、政治家とりわけ与党のそれ相手に弱くなってしまったのは、情報源のほとんどをそこに依存してしまっているからだ。政治報道のネタのほとんどが会見か官僚や政治家の「オフレコ懇談」では、情報源を握られてしまってその機嫌を損ねるようなことは一切言えなくなってしまう。情報源がジャーナリズムにとって死活問題なのは分かるが、これでは報道に絶対不可欠な客観性を担保しようもない。

こうなってしまうのも、記者たちの取材能力それ自体が極端に低下してしまっているからだ。 
記者が調査能力も鍛えず、分析能力も持たず従ってまともに質問も出来なくなるようでは、ただ会見やオフレコ懇談でもらった情報をそのまま垂れ流すだけで、報道の独立もへったくれもない。

2)報道の社会的役割に関する認識も明らかに欠けている。そもそも報道機関がサービスを提供する相手はあくまで読者・視聴者であるはずが、これでは新聞社は民間企業のくせに無償で政府広報機関を引き受け、その経費を国民に押し付けているような話にしかなっていない。

3)なによりも問題なのは、「事実とはなにか」についてのもっとも基本的な哲学的な認識や思考が、あろうことかその事実を探り当てて報ずることが使命であるはずのジャーナリズムから欠如してしまっていることだ。

言うまでもないことだが、過去に起きた事実は、現在の人間がどう逆立ちしようが変えることはできない。 
過去の事実についての誤った認識を糾すことは出来るが、起こった事実それ自体をその時点から見て未来になる現在から変えられるはずもないのに、これでは因果関係の時系列すら分かっていないことになる。 
「報道がなければ事実がなかったも同然になる」のはジャーナリズムの側の能力不足や怠慢の結果論で、単に報道されるべき事実が無視されたか、無能故に誤報になっていることに過ぎない。

4)事実とその事実の記録や記憶の関係性もまるで認識出来ていないのも問題だ。証言は信用ならず公文書記録しか史実およびその解釈として認めないなんて馬鹿げた話もなく、文書として記録される内容がなんなのかすら分かっていない愚昧な主張で相手にする価値もない。

極端な話「日本書紀」は律令国家の公式歴史書だからそこに書いてあることはすべて史実で日本書紀の解釈が絶対に正しい、などと言い出したら「みそ汁で顔洗って一昨日来られても迷惑だからそのまま永久に眠ってろ」と罵倒されたって文句は言えないはずだ。

ある事実についての記録は、その記録している主体が政府だろうが誰だろうが、単に記憶の証言を記述したものに過ぎず、こと司法ならともかく行政府・行政機関の残す記録なぞ、ありのままの事実ないしその証言を過不足なく精確に残していることなぞ、まずあり得ないに決まっているではないか。

権力の直接行使を担当する者は、どんなに真面目で正直であっても常にその権力の行使を自己に対してもパブリックに対しても正当化する必然を抱えている。むしろ真面目で職務に忠実な人間ほど、完全に正当化できなければ権力の行使を躊躇してしまうからこそ、逆に不都合な側面を無自覚に無視してしまう傾向が出て来るのが当たり前ではないか。こと行政組織に所属してその組織の権力行使を担うものは、真面目にその組織への忠誠を考えれば考えるほど、どうやったって恣意的な偏向解釈に走りがちなものだ。だからこそ民主主義国家では三権分立が肝要とされている、ということにすら気づけないようでは、近代民主主義では「第四の権力」とも称される報道を担う資格なぞない。

実際の世界では権力の行使が完璧に無謬でなんの負の側面もない、などということはあり得ない(そんな完璧さが人間的に可能なら、民主主義それ自体が必要なくなる)。そこにも気づけないのなら、今の日本のジャーナリストの大半は恐るべき世間知らずか、さもなくばとんでもない盲目さだ。現実社会の権力の行使に関わる際には、どこから見てもまったく間違いのない完全な正義の状態なぞ、そもそもあり得ないというのが、まともな大人の社会人の認識ではないか?

だからこそ、ジャーナリズムが権力の行使に常になにかしら批判的な眼差しを向けることの意味があるのではないか。 
なのにそのジャーナリストたちが「日本の公文書に直接の証拠がない」という政府見解を無批判に鵜呑みにするのか?

まして慰安婦の強制も、あるいは南京大虐殺なども、当時の日本の国内法でさえ本来なら違法になる。公文書ではその違法性が隠蔽されるか無視され、記述することが忌避され、適当なでっち上げのいいわけで誤摩化されるのは、当たり前のことではないか。

5)歴史認識や時代感覚の変遷を理解認識出来ていない、というのも恐るべき不勉強だ。現代の価値観で過去を判断してはいけない。

第二次大戦や十五年戦争の最中の日本がどんな社会で、日本軍がどのような組織だったかについてまったく無知でなければ「慰安婦を強制したはずがない」なんて言えるわけがない。むしろ強制が当たり前だったのだ。鉄や金属器の供出を断れた人間なんて内地の日本国民ですらあり得ず、勤労「奉仕」だってタテマエではボランティア、特攻隊だって志願扱いでも実際には断れるはずもなくつまり強制だったのに、植民地の、それも貧農の娘やその家族が「軍への奉仕」を断れたはずもかなろうに。

6)人間関係の権力性の認識もあり得ないほどの幼稚な無邪気さで欠如していて、現実の世界についての報道として成立出来ていない。

まず軍が立ち会っている慰安婦の徴集なら、軍の存在自体が強制力を自動的に発揮する。「業者の違法行為を監視するために軍や警察が立ち会った」なんて絵空事を本気に出来るだけで頭がおかしいし、また実際にその任務に当った兵士が手ぶらで帰還して「業者が不正をしないように我々が監視したところ、慰安婦を志願する女性は一人もいませんでした」と報告することなぞ出来るわけもない、とすら気づかないのはどうしようもない。まったくもって、現代の価値観で過去を判断してはいけない。 
むしろ軍が同行して不正を防止とは、軍の存在自体が逆らえない圧力になるから、騙す等の不正の必要がなくなる、という意味にしかならない。再三繰り返すが、現代にしか通用しない価値観でみだりに過去を判断してはいけないのだ。

7)ある事実やそれを伝える情報、あるいはある発言がパブリックになったとき、それが他者からみてどのように解釈され得るのかの多義性を考えられない、という点でも、安倍は政治家失格だし日本の大手メディアのほとんどはジャーナリズム失格だ。日本はただの敗戦国ではなく、その戦争犯罪や人道に対する罪が処断されながら、その過去への反省を戦後70年ちかくずっと曖昧にして来た国だ。その日本の政府が人道犯罪として批判されている過去の史実を、理屈にならないへ理屈で否定しようとしているだけでどれだけ印象が悪いか、それだけで日本への批判や反発が起こって当然であることを、この人たちはまったく考えられもしないらしい。

口先だけでは「村山談話河野談話を継承する」と言いながら、東京裁判は勝者が敗者を裁いた不公平だからと言い張ってその事実認定すら認めないと国内ではうそぶくのは、二枚舌にすらなってない幼稚な詭弁というかただの嘘つきにしか見えない。

で、挙げ句に「韓国の反日宣伝が」となるのなら寝言もたいがいにしてほしい。NYタイムズに「慰安婦はただの売春婦」などという広告を出すなんて、普通なら「日本の悪印象を振りまこうとする悪ふざけか?もしかして工作員?」と疑っておかしくない。

一部には日韓基本条約に付随する賠償に関する協約をタテに、韓国人の元慰安婦が被害を訴えていることを韓国政府が(民主主義主権国家の当然の義務であり、自国のかつての軍事独裁政権の過ちの償いの意味も込めて)支援する立場を明白にしていることを「国際条約違反だ」などと言い張る者がいる。いや実際、この協約を盾に日本では裁判所ですら裁判を門前払いにして来ているわけで、それだけでも印象最悪なのだが、この協約自体が客観的に見れば不道徳で公序良俗と社会正義に反する不平等条約であることに気づけないのだろうか?

他国政府に気がねして自国民個々人の財産権を勝手に放棄してしまう独裁政権も問題なら、それをその独裁政権に札ビラを見せつけて強要した相手国(しかも力関係として明らかに強国の側)はもっと問題にされる。そんな協約を日本が独裁政権相手に結んだこと自体、日本側の傲慢で無反省な植民裡主義と倫理観の欠如が問われてもおかしくないのだ。

しかも慰安婦問題を否定したがる人たちは、慰安婦は民間業者がやったことで軍の管理・雇用ではない、と言い張りながらこの協約を持ち出すのだから、ここでも完全に矛盾している。日本政府の権限で請求権をチャラに出来るのは日本政府に本来なら支払い義務がある給与などに限定され、実際にこの協約で放棄されたのは旧日本軍人および軍属への未払い給料と恩給に限られ、民間業者による未払い給与や民間業者が賠償すべき損害は含まれ様がない。日本はいつ市民の財産権と民間の経済活動の自由を公式・法的に否定したのだ?ここでも安倍やその周囲の人々の主張は完全に自己矛盾しているし、これではハタ目には下手ないいわけで責任を誤摩化そうとしている不誠実さとしか解釈され得ない。

8)だいたい慰安婦問題を日韓関係の問題だと勘違いしていることからして、ものごとの認識がなっていないし世の中の仕組みと言うものが分かっていない。

確かに現実には慰安婦問題は日韓の外交マターとして交渉対象にもなっているが、韓国側の立場はあくまで自国民のこうむった損害を主権国家としての責任で代弁しているという論理である。タテマエはあくまでも、自国の独裁政権が過去にその被害者たちを徹底して無視どころか儒教道徳を振りかざして侮辱までして来た反省に立っていることも含め、問題にしているのは個々の被害者の受けた損害への償いであり、個々の被害者への謝罪だ。 
国家レベルでは日本政府の誠意と過去の過ちへの真摯な反省が問われているだけであって、「日韓」の喧嘩ではない。慰安婦問題とはあくまで人権を侵害した加害国政府と、尊厳を踏みにじられた被害者の間の問題なのだ。 
それをあたかも日韓の二国家間の問題であるかのように装い、韓国の一部の極右勢力をあげつらって「どっちもどっち」であるかのように論じて「両論併記」する欺瞞自体が、ハタ目にはただの姑息な欺瞞で、しかもひとめで誤摩化しがバレてしまうような稚拙な独りよがりにしか見えない。

繰り返しになるが、慰安婦問題でもちろん第一義的におかしいのは安倍やその周囲、および支持者を自称するらしき人たちの倒錯だ。だが彼らの倒錯はあまりに馬鹿げていて、およそまともな社会、まともな大人同士の議論として通用するものでなく、真面目に相手にすべきものですらない。

子どもの駄々レベルの独りよがりで論理的な整合性にも社会常識にも客観性にもまるで欠如していて、本来なら真面目に批判することすらバカらしい、恥ずかしい笑い話レベルのものだ。

なのに一流の報道機関を自認しているはずの日本の大手メディアはもちろん、識者や著名人と称する人たちですら、「そもそも言っていることがあまりに無知で非常識でおかしい」ことをすら批判できず、あたかも日本側と韓国側(ではない、あくまで被害者である元慰安婦と加害者であった日本国との関係だ)を両論併記すれば「公平な報道だ」とか思い込んでいるらしい。

挙げ句に朝日新聞などは「韓国側で反日だ」という馬鹿げた言いがかりをつけられることを本気で恐れているかのようなみっともない態度に終始してしまっている。 
これでクオリティ・ジャーナリズムが務まるのだろうか?

極めて皮肉なのは、「議論の対象にする以前のバカらしさ、そんな “意見” は口にするだけ無価値」という、本来なら健全な民主主義の運営において当然の大前提であることが(そうでなければあまりにも時間の浪費になる)、この国ではもはやまったく機能していないことであり、なぜそうなるのかと言えば「小学校からそう教育されているので価値観が歪んでいる」という解釈がもっとも妥当に思えてしまい、ならばその主体であり最大の責任者が安倍たちの仇敵であるはずの日教組であることだ。

こんな歪んだ価値観がなぜ育ってしまうのかと言えば、70年代半ばから日教組が学級運営の手法として推奨して来た「学級会」の欺瞞と、教師の質の低下が思考力を伸ばすことではなく単に言われた通りの正解で点数を稼ぐことしか教えられなくなった現実の不健全で矛盾した野合の当然の結果、とみなせば説明はついてしまうのだ。

安倍やいわゆるネトウヨが日本の歴史問題について言い張ることを「議論の対象にする以前のバカらしさ」とはっきり言えないのは、「『みんな』の意見に価値があるのだから無視してはいけない」からだけであり、要は運動会の徒競走で「ビリの子か傷ついてはいけない」から「みんなで手をつないでゴールイン」と同じ発想である。

中途半端でその実欺瞞でしかない「個性」の尊重、実は点数主義の「正解」教育しか出来ていないのに「みんなの意見はみんな正しい」と学級会や読書感想文では推奨することで「正解」を出せない生徒を甘やかして不満をガス抜きした妙なダブスタで子どもを洗脳して来た当然の結果、と言ってもいい。

これも安倍たちが「反日」と言いたがっている日教組が普及/蔓延させたことだ。70年代以降に教育の現場で日教組がやった甘やかしの欺瞞がなければ、安倍のような主張が真面目に相手にされる余地すらなかっただろう。

なにが事実でありなにが正しいのかすら「みんなで決めること」にしてしまい、なのにルールは「それが正しい、ないし公正さの維持に必要だから」ではなく「みんなで決めたことだから」守らなければいけないという妙な教育の結果、「事実とはなにか」の認識が持てなくなるのは、ある意味で当たり前である。

既に起こった事実は「みんな」だろうが誰だろうが、「決められる」はずもないのに。

たとえばある学級でいじめが起こっているという事実があったとする。

ところが日教組の推奨した「学級会」式の学級運営では、いじめが起こっているかどうかすら「みんなで決めたことが正しい」になってしまうわけで、それでもさすがにいじめが起こっている事実が被害者の具体的・身体的な傷害や登校拒否などの現実で隠せなくなると、今度はなぜいじめが起こったのかを「みんなで決めましょう」になる。

その「みんな」の圧倒的多数が加害者側なのに、いじめをめぐる正確な事実関係がこれで把握できるはずがない。

さらに「みんなの意見はみんな正しい」的な読書感想文的価値観の「国語教育」で「作者の気持ちを考えてみましょう」をやっていては、いじめ被害者が現に深く傷つけられていることと、加害者側が自分の非を咎められて「傷つく」ことすら等閑視されてしまう。

まさに「ビリの子を傷つけないためにみんなで手をつないでゴールイン」の発想そのもので、そこに「みんな」の妙な多数原理を場違いに持ち込んでは、自業自得で「傷ついた」などと泣き叫んでいる場合でなく本来ならきちんと反省しなければならない加害者側が「傷ついた」ことばかりが問題にされ、いじめの「解決策」は被害者をその体現する不都合な事実といっしょに排除しよう、という結論にしかならない。

この陰惨極まりない結果として、もはや日本社会全体が共有する欺瞞として繰り返されるのが、いじめ被害者におためごかしに「逃げること」ばかり強要する恐ろしく残酷な偽善である。

過去の日本の侵略戦争とそれにともなう人道犯罪、失敗した植民地支配に伴う植民地住人に対する不当な搾取、つまり日本の戦争責任・歴史責任の問題は、実はこの日教組が推奨した「学級会」とまったく同じ論理で、今の日本国内では処理されてしまっている。

学級会の「みんな」がしょせんその学級という閉塞された集団内の話でしかないのと同様、この場合の「みんな」は最大でもしょせん、日本国内のコップの中の嵐でしかない。戦争犯罪と歴史責任は日本国外の、他国の人たちに与えてしまった被害の問題だというのに、その肝心の被害当事者である「他人様」も、実際の過去に起きた事実も、予め排除されてしまっているエセ議論だ。

しかもこの「事実とはなにか」と「他人様」がまるで無視された倒錯は、慰安婦問題や戦争責任を問うて安倍や自民右派などを批判するかのように見える側でさえ共有されている。

要は皆が自分が所属する「みんな」という半径5m程度の内輪集団の多数派がいかに「傷つかない」で済むかのへ理屈を一生懸命に捏造しているだけで、他者である被害者の尊厳は無視され、その人格を尊重し損なわれた尊厳を回復することも、自分たちの責任を自覚し、社会の一員としてその社会をより良くする責任を担うことも拒否され、「歴史修正主義」を批判する側の圧倒的多数ですら、悪者を叩くことで自分の正当性を相対的に担保することにしか、実は興味を持っていない。

たとえば「ヘイトスピーチ」をめぐって「法規制を」という話なぜかなってしまうのも、実はこの種の歪んだ論理の典型になっている。 
なにが差別偏見の流布で憎悪を煽動する発言になるのかを「みんなで決めましょう」と、構造的に差別する側であるマジョリティの「みんな」が決めて、その「みんなで決めたルール」に反するたとえば「在日特権を許さない市民の会」を排除しよう、という発想なのだ。

絶望的なのは、しょせん自分の属する「みんな」の内輪しか見えておらず、そのなかの対立回避と「みんなが傷つかないこと」ばかりが最優先されていることであり、それがもっとも顕著に現れているのは、実は安倍氏の周囲や今の自民党とその支持層以上に、大手を中心とするがもはや大手だけとも限らないメディア、報道の業界だ。

報道の本来の役割からすれば、まったくとんでもない話である

公正で正確な報道の第一歩とは、まず取材対象に対して一定の他者性をきちんと担保する一線を守ることだ。そうでなければただ盲目的に、言われたことを右から左へ、情報源の側が目論んだ通りに報道する広報機関にしかなり得ない。

ところが昨今のジャーナリストはフリーランスでさえ、なにかを事実として報道することについて自ら判断し責任を担うことから逃げて、最悪ネット生中継頼り、「誰かが言った正しいこと」を仲介することにのみ専念する有り様だ。
こんな「取材」には迂闊に応じない方がいい。それこそ朝日新聞が吉田氏に対してやったようなひどい裏切りで、後で自分だけが一方的に傷つくことになりかねないですよ。

あるいは一般市民を取材対象にするのでも、相手があくまで他人様であることの認識が前提になければ、まともに質問すら出来ず、この場合は相手が主張することをいちいち事前に準備して暗記していはいないので、その言わんとしていることすら満足に引き出せないで終わる。このように他者性が認識できないインタビューは、結局一般の取材対象を、自分たちの幻想する主張を補完するコマとして搾取することにしかならない。

たとえば震災や原発事故の報道では、いや報道に限らずドキュメンタリー映画ではなおのこと、「被災者」は取材する側の思い込みの投影としてしか表象されていないのがほとんどだ。

さらに言えば、既に述べた通り報道がまず「事実」を伝えることを第一の目標としているのなら、報道している時点で既に過去になっている「事実」とは、報道したり伝えたりする側にとってさえ、決定的に他者的なものだ。

たとえ自分自身のことであっても、過去に起きた事実は現在の自分の都合で変えられるものではなく、事実それ自体は過去において確定しているはずだ。

その実際に起こったことの概要をどこまで正確に把握できるかどうかはともかく、事実それ自体は事実であって今になって変えられるものではなく、報道する側や報道の受け手の思い込みや願望とは無関係に存在しているはずだし、それを追及することが報道の本来の役割でなければおかしい。

むろん、自らが所属する社会や組織、集団の権力構造を認識してその構造に配慮してしまうことを極力排除しなければ、事実を出来る限り正確に把握したりきちんと論理的に解釈することは出来ない。

残念ながら我々には自分の立場や生活やプライドを守らなければならない強迫観念が常にある以上、得てして自分の保身のために無自覚に自分の解釈を歪めてしまうものだからこそ、自分から半径5mの「みんな」しか見えていないのでは困るのだ。

所属する集団の権力構造にとって都合の悪いことを指摘した結果自分の立場が危うくなるのなら、それを本能的に避けてしまうのが人間というものではあり、だがそれはことジャーナリズムの場合、報道の本来の目的や社会に対して持っている役割を決定的に裏切ることになる。

ところが今の日本のジャーナリズムの大半は、大手を中心にもはやフリーランスやネット上メディアでさえ、右も左も関係なく「ボクたち正義」を自分たちの内輪で確認しあうことを優先してしまい、自分たち自身の立場の持つ危うさを気づこうとすらせず、うっかり誤報をしてしまったらそれを糊塗するために誤報を増幅させてしまう有り様だ。

たぶん今の安倍政権下の日本で起きていることの本当の問題は、「社会の右傾化」などではない。

本当の問題は幼稚化、社会のあり方の基本的価値観や行動原理が小学校の学級会並みに退行してしまっていることであり、とりわけ政治家や官僚や大企業社員、そしてなによりもジャーナリズムに属する人々が、自分たちが「傷つく(それも実害を受けることよりも感情論、要は偉そうな顔ができなくなる劣等感に苛まれること)」ばかりを恐れる保身に凝り固まっていること、そして「事実」「現実」の認識をめぐるもっとも基本的な哲学的概念すら理解できなくなっていることなのだ。

社会のあり方やその価値観が学級会並みになっているだけではない。その成員のなかでもとくにエリート層であるはずの人たちもまた、いわば「しょーがくせー」、ただ「ボク悪くないもん」と威張りたいだけの幼稚な動機のまま大人をやっているのだ。

勝ったはずの選挙の報道番組でキャスター相手に逆ギレして、イヤホンを外し(つまり相手の言うことを聞かないぞ、と駄々っ子のような意思表示をした上で)自説をまくしたてた総理大臣というのは、この「エラいはずの人たち」ほどどんどん幼児化していく日本という国家にとって、まことふさわしい政治指導者なのかも知れない。

なお安倍がいつのまにか選挙の争点にしていたらしい「改憲論」に関しては、僕自身は実はそんなに危惧はしていない。 
少なくとも今の自民党の、安倍の周辺で作っているような憲法草案なら、いちばん心配なのはあまりにもバカバカしい中身であることがバレてしまった瞬間に彼らが「傷ついた!」と泣き叫んでどんなヒステリックなバカ騒ぎが始まるのか、まったく想像がつかないことだ。 
そしてメディアは、そんなヒステリックな馬鹿騒ぎをなんとか正当化しようと(安倍さんたちを「傷つけ」まいと)、ますます虚報に虚報を重ねるのだろう。こうして世論の劣化がどんどん進んで行くことの方が、あり得るはずもない改憲よりもよほど危険だ。

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