最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

5/30/2014

拉致事件の行きつく果てに

昨日夕方、安倍晋三首相が唐突に、北朝鮮政府が拉致事件の再調査を行うことについて日本と合意したと、自慢げに記者団に告げた。

だが首相官邸のロビーで記者たちに自分を取り囲ませて得意満面に語ったわりには、正式の記者会見は菅官房長官に任せて逃げてしまう。案の定、記者達に質問を浴びる立場になってしまう菅長官は、なかなか苦しい面持ちの、針の筵の状態だった。

なにしろ答えられる材料がほとんどないのだから、官房長官がしどろもどろになるのも仕方がない。安倍氏が得意満面に「拉致問題は私の政権の最大の過大」と暢気に言っていられるほど現実は甘くないのだ。

しかしこの総理大臣は、なぜこうも難しい話は他人に丸投げでシレっと威張れるのだろう?

安倍晋三氏は何も考えてすらいないだろうが、恐らく菅氏にはさすがに分かっていることとして、北朝鮮側は拉致問題再調査でどのような新事実が出るのかをある程度は交渉段階で明かしているだろうし、だから菅氏も「拉致被害者」ではなく「拉致が疑われる」ケースのことを会見でも強調気味だったのだろう。

つまりそれを認める準備は北にはある、ということだ。

漁船で遭難して北朝鮮に救助された、とされている人が実は拉致被害者ではないかと疑われている実際の例はいくつかある。

小泉政権の日朝交渉(当時安倍氏は官房副長官)で金正日政権が日本人拉致を認めた際、多くの被害者がすでに鬼籍に入っていることを北朝鮮は日本に告げている。恐らくは今回の再調査で、その方たちが亡くなった事情のより詳細な事実関係も、北側には出す準備はあるということも推測される。

父親の政権が病死や事故死と発表したことについて、金正恩率いる今の北朝鮮の政権は、実際には殺害された事実があれば、それも率直に認めるだろう。

日本のメディアはそこに気づいていながらわざと歪めているのか、本当に気づいていないほど政治や外交が読めていないのか…?

金正恩は父の代の大変な有力者であった叔父をあえて処刑する決断まで踏み切っている。これほど分かり易い政治的ジェスチャーをなぜ理解できないのだろうか?親族であっても腐敗高官は告発し、処刑粛正すら辞さないという決然とした態度は、若い指導者が「僕の政治は父の時代とは違う」と国民にアピールしているからに決まっているではないか。日本人拉致がその父や祖父の時代の負の遺産、誤りであれば、既に粛正した勢力がやったことだと明言した方が、現政権はむしろ傷つかずに済む。

金正恩が北朝鮮の三代目の国家指導者になってもう約2年になる。

つまり金正日と小泉純一郎が交渉した時代とは違ったフェーズになっているのに、「拉致問題は私の政権の最大の課題」と自称し、一回目に総理大臣になれたのはこの事件を利用したおかげである安倍晋三が、なぜ一年前には北朝鮮と再調査に向けた交渉に入っていなかったのか、理解に苦しむ。

昨年に叔父の粛正処刑を金正恩が決断する前に、安倍政権が拉致問題再調査を含めた交渉を北朝鮮とやっていれば、その叔父を粛正する理由のひとつに拉致問題を絡め説得力を増させることで、日本が金正恩政権に恩を売ることだって出来ただろうに。 
処刑が済んだ今では「あれは叔父達がやったこと」で済まされてしまえば、日本はなにも口出し出来なくなるだけだ。 
それも北朝鮮側から様々なオファーがあったのに逃げて来た、訪朝した参議院議員の懲罰までやって敵意と悪意だけを剥き出しにして来たのが日本である。

それどころか金正恩の政権に代替わりして以来、韓国ではパク・クネが大統領であり、対北強硬派保守で軍事独裁者の娘である政権とは関係改善が難しいと睨んだ北朝鮮は、昨年にはもう日本に国交正常化交渉再開と関係改善のためには妥協も辞さないサインを送って来ている。だが先日、拉致被害者・横田めぐみさんのご両親がお孫さんと面会出来たのだって、どうみても安倍政権の采配ではなく、外務省がモンゴル政府の仲介に(多分に独断で)応じたようにしか見えない。

それをきっかけに日朝間の実務者協議が再開し、そして北朝鮮が拉致問題の再調査を申し出た、というのが客観的にみれば今回の経緯である。

つまり、実は北側がオファーして来たことであって、ちっとも安倍外交の成果ではない。

だからこそ北側が準備をちゃんとやって条件を整えた態度で臨んで来たのに対し、日本側は首相が自慢たっぷりに記者に発表して官房長官がしどろもどろ会見、翌日に慌てて近しい新聞社に言い訳記事を出させるほどに拙劣な行き当たりばったりしか出来ないのでもあろう。 

「政府高官は『茶番劇なのは承知の上だ」と指摘する。首相自身もこれまで同様の趣旨のことを述べてきた」
産経新聞、5月30日 「北朝鮮の「汚いやり口」を熟知する首相 

しかしここまであからさまな提灯記事で必死に擁護、というのもマスコミとしてあまりにだらしない…。  
安倍晋三政権にとってこの件の唯一のメリットは、集団的自衛権の問題での支離滅裂な国会答弁を連発しては恥を晒している真っ最中だったのが、この件で政治報道の関心がシフトして、国会での愚劣な発言が叩かれずに済むようになる程度のことだ(ただこういう面だけでは、この人は本当に運がいい)。

報道で漏れ聴こえて来たとろこでは、北朝鮮側が交渉で中心に出して来たか、ほとんどそれしか言わなかったらしいのが、朝鮮総聯本部ビルが借金で差し押さえられ抵当物件として売却されることになった一連の問題だという。

だとしたら、金正恩は独裁政権であっても、大人の政治、大人の政権であり、それに対して安倍政権と今の日本の子どもっぽさが際立つ。

総聯ビルの問題はモンゴルの企業が落札し(つまり日本とも北朝鮮とも外交関係を持ち、日本と北朝鮮の仲介を買って出る気満々のモンゴル政府のはからいであろう)、総聯は恐らくその企業のテナントとして本部を実質維持出来るようになるはずだったのが、借金問題を総聯追い出しの在日朝鮮いじめに悪用したいだけの日本政府やその意向を受けたのがミエミエのメディアの攻撃で、この件は暗礁に乗り上げてしまっていた。

これが善処されることは、タテマエだけでも北朝鮮の公民である在日朝鮮人の人権を守るには不可欠である。朝鮮総聯はまず在日朝鮮人の互助組織であるし、北朝鮮在外公館の役割も持っているとしても、だからこそそれを追い出したり仕事を妨害するのは露骨な悪意でしかない。

その人権・人道上の問題をメインに交渉で出し、あえて「拉致を再調査するから代わりに国交正常化交渉の再開を」とはほとんど言っていない一見控えめな態度で、かえって北朝鮮の立場を改善することになるし、逆に総聯ビルの借金の問題を差別に悪用した日本側の立場は微妙になる。

それにしても、総聯ビルを落札したのがモンゴル企業となると、とたんに日本のメディアが持ち出して来たのは「朝青龍」である。 
元横綱だからこそ日本とモンゴルの友好に大いに役立ちたがっている、ここ近年で最高の横綱で相撲ファンには最も愛されていた彼を、なにせ頭がいいから記者が馬鹿にされてしまったことを根にもって悪役扱いしたくてしょうがないのだから、日本のメディアと来たら本当にレベルが低下しているし、最早差別意識丸出しではないか。 
あまりにみっともない。

それにしても安倍晋三氏だけが得意満面、その首相をメディアも一生懸命に持ち上げているのが異様なのだが、北朝鮮が拉致問題の再調査をきちんとやればやるほど、安倍晋三氏の立場は実は悪くなるに決まっている。なのになぜかこの総理大臣閣下は、こんな当たり前のことにも気づかないらしい。

菅長官のしどろもどろ会見で安倍晋三もさすがに自分の考えが甘かったことに気づいたのか、本人が気づかぬまま世耕辺りが動いたのか、慌ててメディアを牽制しようと産経新聞にヨイショをお願いした模様だが、本当にこの人のやることと言ったらなぜこうも後先を考えない行き当たりばったりばかりなのか?

確かに金正日政権の段階で北朝鮮が出して来た、拉致被害者の安否情報は、かなりいい加減なものだった。「亡くなった」と言われても、その詳細があやふやな場合が多く、遺体もほとんど出て来ない、遺骨として提出されたものがDNA鑑定で別人と判明してしまえば、ご家族はなかなか納得出来るわけもない。

その心情を冷酷に利用して死亡時の状況がはっきりしないというだけのことを「北が噓を言っている、生きているはずだ」と、その金正日政権以上に非論理的でヒステリックな決め付けで世論の支持を得てしまったのが安倍晋三氏だ。

では生きているという保証はどこにあるのか?

ちょっと考えれば誰でも気づいているはずが、しかしご家族の気持ちを思えば明言はしにくいのは、逆に死亡情報があやふやであればあるほど、確実にその方たちは亡くなっているだろうと言うこと、かりに生存していても「死んだ」と当時の北朝鮮政府が言ってしまえば、その体面を保つためにすぐに殺されてしまうのが普通だ、と言うことである。

自分が言っているメチャクチャな暴論を、ご家族の気持ちへの配慮にスリ替えて、明らかな噓で奇妙な国威発揚に邁進して利用して来ただけなのが安倍氏の不誠実っぷりなのだが、金正恩政権が「ではちゃんと再調査して報告します」と言い、本当にそれをやってしまえば、安倍氏の命運は実はつきる、この10年間彼がひどい嘘つきであり続けて来たか、少なくとも現実をなにも考えられない愚か者であることが、明らかになってしまう。

つまり亡くなったと報告されている拉致被害者が実は生きていたなんてことは、普通に考えてあり得ない。気持ちの問題では認めたくない、あまりに辛いことでも、ご家族の多く(例えばお孫さんに会った横田さん夫妻や、田口八重子さんの兄の飯塚さんや忘れ形見の息子さん)は「やはり死んでいるだろう」と分かっていてもそれを口に出来ないだけだ。

改めて死亡が確認されても、安倍氏はまた「北朝鮮が噓を言っている」で逃げ通す算段だからこそ、ああも自慢げにこの件を発表出来たのだと推察できるが(だから政府高官が「茶番は承知の上」などと言い張るわけである)、だからこの人は本当に後先の計算が出来ないというか頭が悪いというか…。

政権の問題があると必ず変な殺人事件が起きて報道から隠されることが繰り返されるなど、妙に運がいいのと、そうでなくともメディアが一生懸命プロテクトしているから維持出来ている政権だと言うことが、この人にだけはまったく自覚出来ないらしい(たとえば菅長官はそこは分かっているから、あえて今回も泥を被る役を引き受けたのだろう)。

前回に北朝鮮が日本と再調査で合意しながら立ち消えになったのは金正日政権の時だ。今回は金正恩の政権で、事情がまったく異なるし、この政権は説得力のある再調査結果を出さなければ自国の立場が悪くなるだけであると承知の上で、それなりの準備や覚悟をしてこの「再調査」を出して来ている。

しかも金正恩がより慎重に準備して交渉戦略を練れるように、一年以上準備期間を与えてしまったのが、安倍晋三の政権が逃げ続けて来たことなのだから、まったくもう…。

だから「噓だ」とは言わせないだけの報告を出して来るだろうし、もし実は金正日政権下で殺害された事実があればその事実を認め、既に菅長官が会見でさんざん匂わせたように、これまで拉致被害者とされていなかった人たちが「拉致だった」と認めて謝罪すれば、北側の報告内容が噓だと決めつけることは極めて困難になる。

なにしろ、そこまで認めてしまえば、北側には噓をつく理由が一切なくなるし、殺害などの事実を認めれば、それは北側の現政権の誠意とみなされる。

安倍晋三が自慢げに吹聴した「拉致再調査」が、彼にとってとんだ地雷になる可能性は高い。彼が国民に期待させているような結果は絶対に出て来ないし、しかも北側はこれ以上日本側に「そんなの噓だ」とは言わせないカードも出せる立場にあるのだ。

ただかなり高度に大人の外交を続ける金正恩(巧いといえば巧かったにせよ父の代のアクロバティックな自爆スレスレ綱渡り瀬戸際とはレベルが違う)にも、大きな誤算はひとつあるように見えてならない。

金正恩が日本との関係改善に積極的な理由のひとつは、今の韓国のパク・クネ政権では南北関係の改善が望めない、せいぜい「お互いに侮辱合戦はもうやめよう」と呼びかけるくらいしか出来ていないからでもあろう。

そのパク・クネの韓国は日本との関係も悪化している。金正恩政権はそのパク大統領を「馬鹿だ」と思っているだろうし(そして実際に馬鹿なんだし)、日韓関係の悪化の一因が韓国大統領の愚かさにあると思っていることは充分に推測できる。

だがだとしたら、金正恩政権は一点、肝心なところで状況を読み誤っている。日韓関係がここまで悪化しているのは、安倍晋三がその愚かなパク・クネ以上の、お話にならない、なにも分かっていない、常識の通じない愚かな政権だからなのだ。

北朝鮮が今度出して来るであろう報告の内容が普通に考えれば噓だとは決して言えそうにない内容であっても、安倍晋三だったらそれでも「噓だ」と言い張るに違いない。かくして北朝鮮の期待している日朝関係の改善、今必要な経済成長のための交流の拡大も、在日朝鮮人の地位向上や人権の擁護も、すべて期待はずれに終わるだろう。

残る問題は、果たして我々日本国民が、安倍晋三がそこまで愚かであり、日本政府が歴史問題だけでなく、本来なら日本にとって圧倒的に有利な外交カードになるはずの拉致問題についてすら外交上の大きな誤りばかり繰り返して来たことに、気づけるかどうかだと思う。

よく考えて見れば、日本との関係改善は新政権下で新しい国をめざし経済成長を必要としている北朝鮮にとって重要なだけでなく、日本にとって悪いことはなにもないのだが。

こんな醜い妥協の産物なら、新国立競技場は建てるべきではない


2020年東京五輪に合せて新しく建て替えられることになった国立競技場は、国際コンペで選ばれたザハ・ハディドの案がずいぶんと物議を醸して来た。


なおコンペが行われた経緯はほとんど国民に知らされず、気がついたときにはこのバグダット出身の女性建築家の途方もないデザインに決まっていて、そこでやっと周辺住民の反対などが始まるというのは、相変わらずのニッポンの風景ではある。

未だに「日本の国立競技場なのになぜ外人が」という話すら出て来るのも困るわけだが(だから国際公募でコンペやってるんだからそうなりますって)、ザハ案に決まってからその計画が建築予定地の現況からすればあまりに大き過ぎることが初めて問題になるは、神宮外苑は風致地区でありこんな巨大建造物は違法ではないか、あるいは今の敷地を大幅にはみ出して幹線道路にかかってしまい渋滞まで危惧され始める、というのではコンペの運営自体がよく分からない。


さらに総工費1300億円の予定がザハ案は試算では3000億はかかりそうだということになり、大幅なデザイン変更が余儀なくされるのでは、という経緯を、僕自身はザハ案にあまり感心しなかったので多分に白けて見て来たわけだが、それでも建築費を抑え、大きさの面でも環境に配慮したという新しい最終案の中身には唖然としてしまった。




「代々木の森にこんなSFチックな宇宙船が降り立ったみたいなのは」と言うのがザハ案に対する僕の最初の素直な感想であった。


ところがいざ最終計画が発表され、並べて見せられた今では、元の設計がいかに美しかったか、とすら思えて来てしまう。

いやまあ、これでは比較すれば誰だってそう思うでしょう。

安藤忠雄が審査委員長を勤めたというコンペでザハ・ハディトの案が選ばれたのは、立地の問題や美的な趣味では反対もしたくとも、評価されたこと自体は理解出来ないことではない。

元のデザインの大きな特徴である、縦方向にスタジアムを横断する流線型の曲線の構造物こそがミソであるのに対し、最終案のデザインは、この曲線になんの魅力も美しさもなく、曲線という記号性のみ踏襲されているようにしか見えない。

建築家に言わせれば、元のデザインは「スタジアムではない、橋」なのだそうで、つまり二つの曲線は単なる美観上の要素ではなかった。

それ自体が自立する、いわば橋のような単一アーチ構造物を二つ並べて、スタジアム自体は普通に地面から柱と壁で上に積み上げられ支えられるのではなく、この二つの曲線から吊り下げられることになるのが、新国立競技場の建築的な最大の特徴だった。


この斬新な構造のアイディアこそがこの案が評価された最大の理由であろうし、国際コンペで公共建築のデザインを公募するというのは、こうやって新しい建築の在り方を切り開くチャンスを建築界に与える、という役割もある文化事業でもある。

と同時に、単なる装飾でなく構造上の必然だからこそ、元のザハ・ハディド案の二つの巨大曲線はこうもシャープで躍動感のある力学的なカーブを描いていたのである。まさにこのフォルムは、建物の本質、その設計の根幹から産み出されたものだったのだ。

口の悪い建築関係者のなかには、安藤忠雄が理工系の建築学科の出身ではないから構造計算が苦手だからこれを選んでしまったのだと言う人すらいたようだが、無論女性建築家でしかもアメリカ人でもヨーロッパ人でもないことの政治的な利点もあったにせよ、安藤だってなによりもこの構造のおもしろさに着目して評価したのだと思う。 
ただ確かに、構造計算のプロではない安藤忠雄の弱点もあるとしたら、土木の専門家でもなければこれが実際の施工でどれだけ難しいのか気がつきにくかった、ということはあるかも知れない。

いや「こんな巨大アーチ本当に作れるの?」というくらい、現代の建築土木技術の最先端に挑戦するような代物なのだ。だがそういう新しいチャレンジのため、建築史の新たな一頁を切り開くためにも、こういう巨大公共建築の公募はあるのでもある。

64年の東京オリンピックの全体像をデザインしたのは丹下健三で、今でも20世紀の名建築、丹下の代表作のひとつとされている代々木の国立体育館は、屋根を支える構造の斬新さが世界の建築界をあっと言わせ、戦後に復興した日本の建築水準の高さを世界に見せつけた。

国立代々木体育館、遠景にはやはり丹下健三設計の東京都庁と東京パーク・ハイアットホテル、および丹下事務所で息子の丹下憲孝の手がけた東京モード学園

この屋根の美しい、ユニークな曲線もまた、実は建物の構造そのものと密接に結びついているからこそ産まれたものだ。巨大な室内空間を実現する屋根を支えているのが、屋根の曲線構造それ自体なのだ。

と同時に、これが発表された時には当時の建築施工の業界は頭を抱えたのだろうし、施工技術が追いつかず、比較的最近まで雨漏りなどの問題が絶えなかった。
国立競技場
ザハ・ハディドの元デザインの特徴であり美点であると同時に欠点ともなりかねない2本の巨大なカーブの最大の問題は、湾曲の頂点でかなりの高さになり、端が今の国立競技場の敷地を大きくはみ出して幹線道路すらまたいでしまうことである。

これが「短くすればいいじゃないか」で済む話ではないのは、もうお分かりだろう。なにしろこのカーブの長さが、8万人を収容できる開閉屋根付きのスタジアムという巨大構造物の全体を支えている…というか、吊り下げているのである。短くしたり湾曲の度合いを変えてしまうだけで、その強度は維持出来なくなる。幹線道路をまたがないで今の敷地内になるべく納めるのなら、スタジアム部分の重さを減らす、つまり規模を小さくするしかない…

…と、このデザインが国際コンペで選ばれている以上は、誰もがそう考えるはずだ。スタジアム自体がこの二つの曲線から吊り下げられることが設計コンセプトの要であり、それはさすがに無視できない。無視したらこの案を選ぶ意味がない。

そこへ国立競技場を管理する文科省傘下の独立行政法人日本スポーツ振興センター…というか要するに文科省が出して来た、総工費を1700億に抑えたという最終計画が、ザハ・ハディドの当初案以上に、それも今度はただ悪い意味で、我々の度肝を抜くべき代物であるのは、改めてその全体イメージを見るだけでもうお分かりだろう。

大きな曲線二本がスタジアムを縦方向に貫く見た目だけは踏襲されているものの、元のデザインにあった流線型の躍動感がまるでない、寸詰まりで単調で、力強さのかけらも感じさせないことには一目で気づく。

これでは当初構想が骨抜きどころか、まるで別物だ。

元の設計案の仕掛けを知っていれば、なぜこんなに無粋でかっこ悪いのか、理由は明白になるだろう。

最終案の二つのカーブは、ただスタジアムの上に張り付いた屋根の支えでしかなく、スタジアム本体はごく当たり前に壁と柱で支えられた平凡な構造に、安易な装飾性をゴテゴテと付け加えただけの代物だ。二つの曲線に至っては屋根を支えるだけなら大きさが桁外れな以外はとくに斬新でもないし、鈍重で平板で寸詰まりにしか見えず、建物をかえって醜くしている(それでも前代未聞の大きさで金額は相当なものだ)。

なぜこうなってしまったのか?ザハ・ハディドの元の構想を生かしながら、幹線道路にまではみ出てしまう問題を解消するには、全体の規模を縮小するしかなかったはずだ。

ならば観客収容8万人が本当に必要なのか、ということも建築費や維持費の問題からして検討されてしかるべきなのが、文科省はオリンピック招致の際に8万人規模の屋根付き競技場を建てるとアピールしてしまったとかで、そこは譲れないらしい。

8万の観衆を集める巨大イベントの需要がそんなにあるのか?

独立行政法人JSCの側では、採算を合せるため年12回のコンサート使用も予定しているとか…って、そんな大人気のミュージシャンがそんなにいるとも思えないし(月イチでジャニーズ事務所専属になるとか?)、だいたいこれ「国立競技場」でしょう?教育スポーツ行政の一貫じゃないの?

2020年オリンピック開会式だって、そこまで観客が集まるかは怪しいのではないか?ここまで無様な建築をただ8万人収容と屋根付きだけで強行し、文化的に意味がないどころか妥協の産物に落ちぶれるだけでなく、将来すぐに無用の長物になりはしないか?

僕は実は丹下健三だってそんなに好きではない…というのは高校生くらいの時に東京都庁の新築コンペというトラウマがあり、そこで選ばれたのが今もみなさんご存知の、恐らく丹下の最悪の作品であろうあの都庁だ。
当時めきめき頭角を表していた磯崎新の都庁コンペ案がとても美しいものだったのが、なんでも巨匠・丹下によれば「パリのノートルダム寺院へのオマージュ」という(って地方行政のお役所ですよ、なぜ教会?)あの意味不明の二つの塔である。


とはいえそれでも、大人になれば丹下の国立代々木体育館や広島平和記念資料館がすごい傑作であることは認めざるを得ないし、丹下は第二次大戦後の世界に衝撃を与えた天才建築家であると同時に、64年東京オリンピックをひとつの契機とした丹下の東京都市計画の構想は、日本のひとつの時代を象徴するものでもある。

日本政府ではなくフランス政府が、ル・コルビュジェの国立西洋美術館を世界遺産に申請しているが、高度成長の時代の始まりに天才丹下が構想した一連の東京オリンピック関連建築物もまたそう申請されるべき価値がある、とも言えるのである。

国立代々木体育館ほど凄いとは思わないにしても、国立競技場もまたそうした日本の過去の、輝いた歴史の記念碑なのだ。それを取り壊して新しいものを建てるなら、それにふさわしいだけの建築でなければならないはずだ。

国立代々木体育館建設現場の丹下健三
好き嫌いやコンセプトについての意見の相違はいくらでもあるにせよ、ザハ・ハディドには新たな建築を目指す強烈な意志もあり、当初案にはそれだけの構想も目指したものだとは言えるものがあった。

いや僕らが「こんな宇宙船みたいなの」と思ってしまったのは頭が古いだけなのかも知れない。少なくとも言えるのが、彼女の発想自体が、64年の丹下の国立体育館がそうであったような建築構造の新たな挑戦、スタジアム建築として前代未聞の斬新なものだったということだ。

だが最終的に発表された案は、原案を形だけは踏襲したつもりでいても、中身はまるで別の平凡なもの、それも無駄な装飾があるだけで平凡どころか出来の悪い建築でしかない。

それもそうなってしまった経緯は、いかに今の日本の行政がだらしなくなってしまったかの象徴みたいな話である。

なにしろ案が発表されてやっと批判が起こった中には違法の可能性すら含まれ、都市計画の観点では無茶苦茶で建築費が大き過ぎると叩かれ、付け焼き刃の対応で、しかし「屋根付き競技場で収容人員8万人」というなぜか文科省が拘るIOC相手の見栄というか媚ばかりを最優先した結果の、どうしようもない妥協の産物でしかない。

今からでも遅くはない。

こんな珍妙な妥協の産物なら、8万人の収容人員が必要かどうか(オリンピックでさえ競技本番でガラガラに見えてしまいはしないか)も含め、いったんこれは白紙に戻し、今や日本の戦後の歩みが刻まれた歴史的建造物である現状の国立競技場を生かし、改修する形にした方が、まだ先進国・文化国家としての日本の体面は立つのではないか?

それに昨今の国際オリンピック委員会の方針である「無駄遣いはしない、設備はなるべく新設はせず、大会終了後も有益に使い続けること」にも合致する。

1936年のベルリン・オリンピックのスタジアムは未だ現役だ。ロサンゼルスのオリンピック・スタジアムは1932年と84年の二度の大会で使用された。

丹下の名作を中心とする代々木と外苑の東京オリンピックに関する建築群が、56年の時を経て二度の五輪大会をホストするのは、併せて世界遺産にでも登録申請でもすれば、むしろセールスポイントにだってなる。

ザハ・ハディド氏本人がこの最終案にどこまで関われたのか、彼女が納得しているのかは知らない。それは巨大コミッションを受注しながらそれを取り消されるのは、気鋭の女性建築家にとっても大きな損失にはなる。

とはいえここまで自分の構想を骨抜きにされた、見るからに醜悪な代物に自分の名を冠されることの方が、アーティストとしての彼女にとって不名誉であり、もうほとんど許し難い侮辱にも見えて来てしまうのである。

そして同時に、こんなひどく無教養な妥協と化した新国立競技場を建ててしまえば、それはこの国にとって不名誉であり恥さらしにしかならない。

まったく、「愛国心」を称揚し民族の歴史だ伝統だと言いたがる割には、なぜ今の内閣はこうも歴史を軽視しながら新しい創造も殺す、世界に日本の恥を晒すようなことばかりやるのだろう?

5/16/2014

三年経ってまたもや「鼻血」騒動の不毛

まずこの際、はっきりさせておいた方がいい。放射線被曝の症状として「鼻血」というのは、ある意味完全な間違いである。

広島・長崎の最初の原爆症、つまり急性放射線障害の症状として実際に現れたのは鼻および歯茎からの大量出血と全身に紫斑が現れたことであり、ほとんどの患者は数日以内に死亡している。

実際に被爆者の身体に起こっていたのは、大量の放射線で血管細胞や造血細胞それ自体が破壊されたことによる大量の内出血であり、鼻粘膜と歯茎が、その出血が体外にもっとも出易い部位だったに過ぎない。

決して「被曝したから鼻血が出た」のではなかった。見た目には「鼻血」もあったが他の症状も同時にあり、そして実際に起こっていたのは、決してただの鼻からの出血ではなかった。

被爆者の証言や、身近なところでは『はだしのゲン』を見ても「鼻血が」だけとはまず書いていない。鼻と歯茎からの出血と体中の紫斑、それに脱毛(これは放射線で毛管細胞が破壊されたことによる)などが同時で起こり、ゲン(作者の中沢啓治氏)のような極めて稀で運がいい例外を除けば、ほとんどが数日中に命を落としている。

私事でいえば、これは医師であった祖父にとって人生最大のトラウマだった。 
熱線によるケロイドなどの外傷がなければ、とても元気に見えた広島市内からの避難者が、突然大量の内出血を始め、毛髪が抜け落ち、なにが起こっているのか祖父にはなにも分からないまま、手のほどこしようもなく、みな数日以内に亡くなってしまった。  
名医との賞賛も欲しいままにし、また自分でも腕に自信があったプライドの高い祖父にとって、手も足も出せないまま患者を死なせてしまったことはあまりに重い記憶であった。 
祖父が開業していたのは、広島と山口の県境の和木町(元々この地の郷士の家系)、山陽本線での最寄り駅は大竹で、広島市内から30Kmほど離れている。この距離を原爆を受けた多くの避難者が、かなりの部分歩いて来た。丸木俊・位里夫妻の原爆絵本『ひろしまのピカ』でも主人公の少女は歩いて宮島口まで辿り着いているが、昔の人は健脚だったことを割引いても、原爆症の症状が出る被曝直後からのタイムラグのあいだは、それだけ元気だったのだ。 
祖父は僕が小学校一年生の時に亡くなっているが、被爆者を診察した体験は何度も話してくれたし、原爆ドームと平和記念資料館にも幼稚園の時に見学させられた。末期がんで入院していたのは広島日赤病院で、病室の窓の向かい側はいわゆる原爆病棟だった。自分の病気のことよりも被爆者と原爆症のことを丁寧に話していたのが祖父だった。 
その祖父が1950年代には原爆ドームの保存に反対だった、「あんなもの壊してしまえ」と言っていたと知ったのは、亡くなって何十年も経ってからだ。

福島第一原発事故では即、被曝=鼻血という誤ったステレオタイプが無節操に流布し、「鼻血が出た」という“証言”らしきものが、匿名で、事実確認なぞまったくないまま飛び交った。当然ながら急性放射線障害による死亡例は一切ないまま、いったんは収まったかと思えば(かつての)人気漫画(でありこれまでも何度も問題を起こして来た)『美味しんぼ』で、三年目にしてまた騒動になっている。

福島県内で鼻血が多発しているという事実もなく、むろん福一で事故収束に懸命に当っている現場の労働者にも、特段そんな症状が現れているという話も聞かない。

被曝=鼻血というステレオタイプ自体が実は誤りなのだから当たり前の話だし、福島県民や原発事故による避難者にしてみれば「またか」とうんざりするだけだ。



福島の皆さんの「もううんざり」にはとても及ばないにせよ、僕らだって現実に被害はある。 
原発事故後の浜通りについて真面目な映画を作るよりも、「鼻血が」とか「甲状腺の膿胞が」とか、科学的根拠の薄いセンセーショナリズムに走り、「政府が噓をついている」という安直なプロパガンダに徹することを、国内外の出資するプロデューサーに要求されてしまうのだ。 
映画作家の最低限の良識として「そんなことは出来ない」と言えば、それで企画が成立しなくなってしまうのが、我々の現実である。

抗議の声があがるのは当たり前なのだが、政府関係者や閣僚が鬼の首でもとったように批判を連発するに至っては、逆効果にしかなっていない。

なにしろ通り一遍の「風評被害だ」と「福島県民が」の感情論しかないのである。そうすると『美味しんぼ』が福島県内の農業の取り組みなども取り上げているから「作者も福島県のことをちゃんと思っている」という類いの、これまた幼稚な感情論で反論にもなってない抗弁が持ち上がり、「政府が都合の悪いことを隠そうとしているのだから『美味しんぼ』は擁護すべきだという、これまたひどく子どもじみた二項対立の善悪二元論に終始する。


もう「フクシマの人たちを思っています」を自己正当化のへ理屈に利用するのはいい加減禁止した方がいい気もして来る。これは在日コリアンいわゆる同和など、被差別者をいわばダシにした自称「良心派」の偽善すべてに敷衍できる話でもある。

はっきり言って『美味しんぼ』は批判されるべきである(そしてこの漫画のこうした問題が決して今に始まった話ではないことも検証すべきだ。もっと直接的な被害を受けた農業者や食品関係者も多い)。


単に勉強不足のリサーチ怠慢、差別的な先入観の偏見に囚われたまったくの間違いなのだから、「間違いだから問題」「とるに足らない幼稚な虚構」とはっきり言えば済むことだし、この原作者の(以前からしょっちゅうある)拙速な偏見だらけの権威の偽装による決め付けにふんぞり返る拙劣さをあげつらう余勢で「政府に都合の悪いこと」の隠蔽に利用しようとしたところで、そんなことは通用しないどころか逆効果であることくらい、安倍内閣の閣僚たちは気づくべきだ…

…ってそれは無理なんだろうな、首相以下驚くほど世間知らずで実務能力のない人たちだから…

また安倍晋三首相や政府を批判する側も、幼稚な二項対立に囚われて『美味しんぼ』を「言論の自由」などと言って擁護すべきではない。

そもそも公表された作品が批判されることは言論の自由の範疇であるのだから論理倒錯も甚だしいし、少なくとも左派リベラルを自称するのであれば、デマや偏見の決め付けが昔から多かっただけでなく、人物設定からして笑っちゃうほどの保守父権主義の男権的/女性蔑視的な権威主義まみれのこの漫画を、今さら擁護するのも馬鹿馬鹿しいではないか(ちなみにこの漫画が本当に人気漫画だった20年以上前には、多くのフェミニズム論者がこの呆れるほど時代錯誤の甘ったれたマチズモの説話構造を厳しく批判していた)。

だがこの三年経って何を今さらな「鼻血」騒動の最大の問題は、雁屋哲なるいい加減な権威主義者の幼稚な思い込みと不勉強な差別偏見に基づくデタラメな表現それ自体ではないだろう。

いかに20年、30年前の人気漫画で映画化まで(三國連太郎と佐藤浩市父子が、父と息子役で初共演したことも話題になった)されようが、今さら時代錯誤のマンネリズムで「まだやってたの?」という、日本の漫画界が新しい創造に関して恐ろしく脆弱になっている現実が「困ったもんだ」であるものの、本来なら今さらとるに足らない、無視していいはずの代物だ。

それがここまで話題になってしまっている、日本の世論構成自体がそこまで幼稚化していることこそが、問題なのだ。

もっとはっきり言えば、現実に原発事故が直面している問題や、原発事故の直接の被災者の現実が無視され、たとえば仮設住宅暮らしが4年も5年も続くことがいつのまにか決まり、将来に関する目処がほとんど立ってすらいないことはメディアで話題にすらならないのに、こんな下らない漫画のこととなると全国紙の記者や東京のテレビ局がわざわざ福島県に取材に行く。

今さら福島第一原発事故についての関心なんてほとんど失っていた人たちが、こんな時だけ「フクシマの人たちが」と言い出す、そのご都合主義で絶望的に東京中心主義の、他者も当事者も見えていない無責任っぷりこそが問題なのだ。

福島県と原発事故が全国的に話題になるのなら、もっと話題にすべき重要な、当事者の生活に直接関わることがいくらでもあるはずだ。

またこれが雁屋哲なるいい加減な権威主義者の、表現者としての最大の問題でもある。もっとも安直に俗受けすることで「福島の真実」などと称し売名だか掲載誌の部数を伸ばすことを狙うなどとは、さすがに無責任に過ぎる。

「福島は安全」とみなすか「フクシマは危険」とみなすか以前に、放射能による被害の危険性に警鐘を鳴らしたいのなら、真面目に取材さえしていればよほど重要な「福島の真実」は幾らでも掘り出せたはずだ。



今年一月に、フランスのアングーレム漫画フェスティバルの主催者側企画展示で、韓国の従軍慰安婦をテーマにした作品群が展示されたことに対して、一部の日本人が勝手に「日本ブース」を立ち上げ『慰安婦の真実』なる展示を始め、問題になったことがある。 
これがその「日本側の主張」の展示だそうで、主張の中身以前に漫画作成ソフトにいい加減に自分達に都合良く恣意的に引用した他人の発言を切り貼りしただけのやり口が、そもそも漫画を馬鹿にしている、と当然ながら批判を浴びたわけだが、曲がりなりにもプロであるはずの雁屋哲なる人物が「福島の真実」と称しているものは、この「慰安婦の真実」と称する素人細工とまるで同レベルだ。
唯一の違いは、市販アプリケーションに付随のキャラではなく、かつて自分が創造したキャラを使っただけ、あとはおよそ「漫画表現」と呼ぶに値しない杜撰なつまみ食いの切り貼りでしかない。


放射線被曝による健康影響でも、ただの誤解の差別的なステレオタイプに過ぎない「鼻血」などとは異なった、現実に起こりうる健康リスクをこそ、ちゃんと話題にすべきなのだ。

またこのもっとも安直に俗受けすることに体もなく乗ってしまう世論もまた、これでは手塚治虫以来、漫画が日本では文化としてそれなりの地位を築き芸術表現としても認められるようになって来たはずが、「なんだしょせん漫画の読み過ぎで一億総白痴化しただけではないか」と言われても文句は言えまい。

こんな幼稚化した世論の騒動は、現実にある問題や十全に想定すべき今後の問題からの逃避にしか、実はなっていない。

東電の賠償責任をどこまでに設定すべきかの議論すらなおざりにただ「鼻血が」では、「『美味しんぼ』を批判することで東電を擁護するのか」的な言いがかりも、実はまったく成立していない。

…というのも、福一事故レベルの放射性物質の環境内への放出でもっとも危惧される甲状腺がんをめぐる問題すら、かなり複雑な医学的な知見を要する議論になるせいもあるのだろうが、「鼻血が」というそもそも実は単なる間違いであることの話題性に隠されたまま、まるで論じられてすらいないではないか。

甲状腺がんは見つけにくいがんであり、成長も遅い。仮に一部の細胞ががん化しても、そのまま免疫で排除されがんにはならない場合が多い、とも言われている。いずれにせよ放射性ヨウ素が甲状腺に取り込まれたことによるがんを発見し確定するには、4年から5年待たなければならない、と言うのが医学的な定説であり、福島県ではその4年後を目標に十全な検査体制を整え早期発見の準備を進めている。

…ということすら全国規模で話題にはまるでならず「鼻血が」なのだから、そりゃ福島県民はウンザリすると思いますよ…

そしてこれから約1年後、可能な限り万全の検査体制が整えられれば、福島県内では確実に甲状腺がんの発生が見つかるだろう。

いや決して「原発事故で必ずがんが起こる」と断言しているのではないので誤解なきよう。統計的には人口に対する一定の比率でこのがんは見つかっているわけで、その比率よりも高い割合であれば「原発事故が原因」と特定出来るだろうが、ほぼ同じかより低い割合であっても、甲状腺がんの患者それ自体は多かれ少なかれ見つかるはずなのだ。

『美味しんぼ』のような騒動は、このような現実の問題を隠蔽し議論を先延ばしにする効果しか持っていない。そのことこそが現実社会における最大の問題だ。

4年後、5年後に福島県で(ほぼ確実に)見つかるであろう、2011年3月4月前後に始まったとみなされる甲状腺がんの数が、一般の平均値とほぼ同じかより少なければ、統計的・疫学的には「原発事故由来のがんの存在は認められない」という結論が出されるだろうし、それ自体は間違っていないし、福島県民にとっては一安心できる材料になるだろう。

だが一方で、実際にそのがんが見つかった患者さんやその親御さんは、それで納得出来るかと言えばそんなはずはないし、納得しないことを「非科学的」と断ずる根拠もない。統計データだけでは個別例で「原発由来ではない」と証明されたことにはならないのだから、個々の発症例はやはり原発事故による放射性ヨウ素が原因かも知れないのだ。

その時こそ、東電の健康被害に対する賠償責任はどうなるのかについて、大変な議論が巻き起こるはずだし、今から議論の下地づくりくらいはしておくべきなのだ。

賠償額を少しでも減らしたい東電は、発生率が低ければその統計データを盾に詭弁を交えて「原発事故由来であると確定は出来ない」を「原発事故由来ではない」にスリ替えるだろうし、現状の自民党政権が(安倍であっても次の内閣でも)継続するのが確実なので、政府もその東電と同じ主張を繰り返すだろう。

それでいいのだろうか?

少なくともそこで甲状腺がんが見つかった患者さんやその親御さんは納得すまいし出来ないだろう。納得しないまま泣き寝入りを強要されることも目に見えているが、それは恐ろしく非人道的な話であるし、実は決して科学的な態度でもない。

目に見えて甲状腺がんの発見率が来年の今頃あたりに増加していれば東電の賠償責任は明確になるはずだが、それでも個別のケースについて逆に東電側が争うことは決して不可能ではない。個別発症について「原発由来だとは断言できない」ことは、裏を返せば「他の原因であるとは断言出来ない」も意味するし、これをひっくり返した詭弁で裁判を争うことは充分に可能なのだ。

「なるほど、全体的に原発事故によって甲状腺がんが発生したことは確かかも知れないが、あなたの場合がそうだとは断言できない以上、当方の賠償責任は証明出来ないでしょう」という話にだって、なりかねないのだ。

これがあと1年以内には、福島県で現実になる。だからそれまでに、東電の賠償責任や政府の責任についての社会的なコンセンサスを作っておかなければならないはずだ。

たとえば僕自身の考えでは、原因の特定・確定が出来ない以上、4年後5年後に福島県など放射線値が2011年3月4月の段階で高かった地域(つまり半減期8日の放射性ヨウ素がその線源とみなされる場所)での甲状腺がんの発生は、一律東電が健康被害の賠償責任を負うべきだとするのが、人道的・倫理的にもっとも正しいと思う。

この僕の考えが正しいかどうかは議論を要するとしても、こうしたことをきちんとルール化しておかなければ、いざ甲状腺がんが(どれだけの数にせよ)見つかり始める時に、混乱は避けられず、ただでさえがんが見つかってショックを受けた人たちを、さらに苦しめることにしかならないではないか。

「鼻血が」などと(そもそも関係性の薄いことで)騒いでいる場合ではないと心底思う。

なお「実際に鼻血が出たと言っている人がいるじゃないか」という何を今さらな話については、病気についてプライバシーは尊重されるべきにせよ、まず医学者がしかるべき発生データをまとめて、鼻血を訴えている人が主にどのような社会的な立場にある人なのかをきちんと示して欲しい。 
それだけで充分に社会学の興味深いデータになる。同調圧力がこと日本人の社会においてどのように個々人に作用するのかの研究対象としては、もって来いの話ではないか。 
言うまでもなく、実際に鼻血が出た人だっているだろう。 
なお個人的にはなぜ「歯茎からの出血」を訴える人が皆無なのかが謎ではある。歯槽膿漏の潜在罹患率は日本ではかなりの数になるのだし出血は多いはず…と言ってよく考えてみれば「被曝=鼻血」という誤ったステレオタイプを信じ込むわりには、鼻だけでなく歯茎からの出血があったことを、雁屋哲氏であるとか知りもしないのだ。
別に原発事故の有無に関わらず、鼻血なんて日常茶飯事で出ることであり、こと子どもの場合は心因性だとほぼ分かっていても、わざわざ原因の特定なんてしないのが当たり前だ(たとえば興奮状態で鼻血が出るなんて、こと子どもではよくある)。 
ただそれを「放射線が原因」とみなす理由なんてなにもないし(原爆症の症状が「鼻血」という思い込み自体が間違いなのだし)、実際に増えてもいないのならそれで話は終わる(で、ごく一部・特定の立場の、それもほとんどが匿名の人たちを除けば、「増えた」という信頼できる証言すらまずない)。 
いやさらに突っ込んだ研究をしたら、もっと興味深い結果だって出る可能性がある。ただしそれは放射線医学等とはほとんどなんの関係もない、心理学と精神医学の研究対象としては、である。 
もっとも、かなり教科書的な結論にはなる気はする。つまり「自己暗示」の効果のテストケースの検証に適した話、いわゆるプラセボ(偽薬)効果のバリエーションとして研究する価値はあるかも知れない、ということだ。

3/24/2014

橋下徹さんと大阪市政と大阪都構想、そして「差別する町」の伝統


大阪市長やり直し選挙は一応、橋下さんの一人勝ちだったが、大阪都構想は極めて難航している。


このこと自体はとても残念だ。大阪府全体にとって都構想がメリットが大きいだけでなく、大阪市にとっていささか乱暴にも見える現状改変の都構想であっても、最終的にはよい転換点になったはずだからだ。

だが都構想の本質がなんなのか自体すら、橋下さん自身がほとんど語っていないのは橋下さんにも責任の一端があるとしても、今までちゃんと言って来なかったことを言ってしまえば、橋下さんが市長を続けることすら不可能になるのかも知れない。

実のところ前回の選挙では圧倒的な支持で市長に当選させておきながら、大阪市民の大半は恐らく都構想を支持していないか、まず内容をよく分かっていないか、理解する気もないし、実は理解している人は既にこっそりと反対しているのではないだろうか?

いや本当は分かっているのに分かっていないふりをしているのか、本当にまるで分かっていないのか、実は分かっているのに分かっていること自体までも無意識の底に追いやって分かっていないフリをしていること自体についてすら無自覚であるのか、その区別も判然としないことこそが、まさに「ザッツ大阪」なのである。

いわば橋下さん独り舞台であったやり直し選挙が、わずか20%代の低投票率であったことも、無意識か無自覚にせよ、市民が実は都構想を毛嫌いしていることの反映なのかも知れない。

都構想の究極の目的、というより都構想もまたその手段に過ぎない橋下さんの本当の野心は恐らく、大阪と関西圏をここ何十年かの停滞から抜け出させ、日本の現状である東京一人勝ち・中央集権の経済構造を打破し、大阪をかつてそうであったように東京と並ぶ日本の二大経済中心として復権させるために、大阪の経済活動を活性化させ、経済を担えるだけの基礎体力や気力を回復させることなのだ。

明治から大正時代や昭和初期、大阪は人口が東京を上回っていた。絹が日本の主要輸出品だった時代に、日本の経済の中枢にあったのは船場の大問屋たちだった。江戸時代でも、江戸ではなく大阪こそが日本の経済の中心、日本の中心にあったのは言うまでもない。 
だから東京一人勝ちはおかしい、というのは歴史的にも正しい認識だし、極度の中央集権よりも日本全体にとってもメリットがあるはずだ。 
だが現状の大阪は違う。

東日本大震災では東京一極集中の脆弱さに気づく人も多く、企業のなかには大阪にも経営基盤を持とうとする、一時的には経営の中枢を大阪に移すことを考えた人も少なくない。だが起こっておかしくなかった(東京でそれを危惧する人も少なくなかった)この大移動は、結果としてまったく起こらなかった。理由は東京が実際にはそれほど被害を受けていなかったことでも、回復が思いのほか早かったからでもない。端的に言ってしまえば、大阪にその受け皿になる体力も体制もなかったからだ。

ぶっちゃけ、大阪に行ってみたら仕事がまるで進まなくなった、ということだったりもするわけで…。


いやまあ大阪万博が頂点であるよりは没落の始まりだった大阪の現状はそんなものであり、今の大阪はおよそ「商売人の町」でもないし、実利を重んじチャッカリしているわけでもいなく、むしろこれほど実利や商売の損得を考えられない人たちが経済を担っている都市も珍しいほどだとすら思う。

以前に橋下さんがぶち上げた、関空と梅田をリニアで結ぶ構想にしても、大阪と関西の経済圏の全体を考えれば、伊丹空港が廃止となることも受け入れられたはずだが、そうはならなかった。関空、伊丹、神戸と三つも空港があることがただ「無駄」だから整理すべきだった、というだけではない。伊丹に配慮して関空がその機能を発揮できないことが大阪がこのグローバル経済の時代に巨大経済都市として生き残る上で障害になり、大阪の東京への従属を固定化するからこそ、断行すべきだったのだ。

ちなみに新幹線が大阪駅に止まらないようになったことからして、大阪を実は経済都市としては没落させようという狙いだったような気もする。 
結果、大阪は東海道山陽新幹線の東京や品川と並ぶターミナルという当然の地位を確保出来ぬまま、新大阪がただの停車駅になっている。

空の便に関しては、東京も決して便利な都市ではない。羽田空港の再国際化が今やどんどん進行しているのも、成田空港というかなり遠く不便で、その割に空港としての使い勝手も悪いところが玄関口であることが、香港や、インチョン国際空港を擁するソウルが国際ハブ空港としての機能を発展させていることに較べて、日本経済の凋落を危惧する要素にすらなっていたからだ。

その点、関空は最初からハブ空港化を視野に入れて設計されている(成田は当初計画の半分くらいしか実現出来ていないので滑走路が足りないし、ハブ運用は夜間離発着が出来ないので無理)。関空を当初の構想通りに完全に運用すること(伊丹と関空の一本化はその重要な一部)は、国際経済都市としての大阪を維持するには不可欠のことだったし、日本経済の基礎体力強化にも貢献したはずだ。

バブル以降の停滞20年超とはいえ、中国はともかく韓国に経済的に「抜かれる」ことを日本が危惧したりライバル視する理由はない。だいたい、国の大きさつまり市場規模がぜんぜん違うし、韓国経済は日本経済に大なり小なり依存しなければ維持出来ない。 
そうは言っても国の安定した経済成長を政策的に支える選択について、韓国政府の方がここ10数年以上の日本よりも遥かに合理的で正しい選択をたいがいはやっていることは無視しない方がいい。
というよりも日本には「景気が悪い、景気が悪い」という強迫観念への行き当たりばったりの対処(たとえばアベノミクス)以外に、経済政策や、現状に見合った安定成長路線の政策判断がないのが問題なのだ。 
それでもなんとか持っているのは、日本がそれだけ豊かな国で過去の遺産があり、日本政府も相当に資産を抱え、そんな危機的な財政難では実はないから、である。
その意味で、大阪市政と大阪経済の現状は、日本の縮図か極端化されたカリカチュアとも言える。

だからこそ橋下さんは伊丹の廃止も視野に入れて関空=梅田リニア構想をぶちあげた。

今ならバスで1時間かかるしそのバスが1時間に1本か2本しかない梅田=関空をリニアで結べば、今はいかに儲かっていようが伊丹=羽田便は意味がなくなる代わりに、海外からのビジネスマンの日本出張の相当な部分を大阪が担える体制になる。

まったく、羽田=伊丹便が繁盛しているのに伊丹を廃止する理由がない、と言い張る人たちはなんと「先のこと」も考えられず、現状認識すら木を見て森を見ずの保身の自己中心主義なのだろう?東京から大阪に来る乗客が伊丹に着くか関空に着くかだけの違いで、伊丹が羽田便で儲かるとはすなわち、大阪が東京に従属する都市であることに甘んじる現状の追認以外のなにものでもない。伊丹空港から行くままでは、国際ビジネスマンにとって大阪は、東京のついでに時間があったら程度のスタンスでしかなく、だから大阪が発祥の、本店や本社が大阪にある企業でも、実際の業務の中心は東京に置くしかなくなり、それでは大阪の経済産業はどんどん空洞化する。

「関空は不便」と言って伊丹廃止に反対したって、それは大阪市内と関空が直結されていないからだ。

逆に伊丹が便利なのは、ただ阪急電車が走っているからに過ぎない。リニア構想は実用化されていない技術なのだし大風呂敷広げ過ぎの打ち上げ花火スタントだったにしたって、なぜ梅田や天王寺か難波と関空が鉄道で直結していないのか、理解に苦しむ…ようなことでもない。それをやってしまったら伊丹空港の価値がなくなるから、わざと関空を不便にしているのだ。

あるいは伊丹を維持するなら維持するで、今度は比較的近いアジア圏、少なくとも韓国やとくに中国、それに台北やバンコクやマニラくらいは直行便を飛ばさないと意味がない。それもビジネスで常用できる程度の運行規模でないと、今度は国際ハブ空港化したインチョンや香港や上海、北京に、関空や成田、羽田が大阪の旅客を奪われるだけになる。

大阪が実利を重んじ損得勘定にぬかりのない商売人の町だなんていうのは、現代ではまったくの嘘っぱちだ。むしろ官僚的な既得権益に、それがジリ貧に向かうことを見て見ぬふりしてしがみつき、顧客のニーズへの対応も苦手な引きこもり体質、というのが実態に近い。

都構想はそんな現状の停滞を打破するひとつの手段であり、橋下徹さんが目指しているのは過去の繁栄を食いつぶしその栄光のプライドにすがりながら、現状をなにも変えられず、このままでは衰退するしかない大阪の力を取り戻すことだ。

都構想とはそのための荒療治であり、また府知事として橋下さんが実感したあまりにもの不自由を打破することでもあった。ぶっちゃけ、大阪府というのは財政難も含めてほとんどなにもできないのに規模だけは大きい自治体である。

なぜ大阪府には力がないのか?

これまでの府政にも責任がないわけではないが、最大の理由は構造的なものだ。大阪府内では、大阪市だけが一人勝ちにリッチな自治体であり、実質権力の大部分を府ではなく市が独占しているからだ。

これは大阪府内でも大きな不均衡を引き起こしている。

大阪市だけがお金が潤沢では、他の自治体の住民は貧乏クジを引かされた格好になる。もっとも、その他の市町村も大阪市のベッドタウン化しているわけで、それなりにリッチな大阪市の恩恵に多少は預かってもいるわけだが。

なにしろ腐っても鯛のかつては巨大経済中心で、日本の大企業は経営機能のほとんどが(国際競争に勝ち抜くために)東京中心で動いていても、大阪には名前だけ本店、名目上本社がまだたくさんある。実は大阪の産業経済とは現状ほとんど関係がなくとも、それは大阪市の税収には結びつく。

その上大阪市の不動産資産が、実はもの凄いらしい。正確なところは忘れたが(橋下氏の対抗候補たちはなぜそれを調べ上げて争点にしないのだろう?)下手すれば市全体の25%だか3割以上の経済産業立地が、実は大阪市の所有だったりする。

だからこそ大阪市はリッチで、無駄なハコモノでもどんどん建てられるだけではない。補助金で地元経済を廻している面ももの凄くあり、そして市役所がその巨大利権を握っているのである。そのすべては、大阪市民の目先の利益ともなり、その生活を維持するのにも貢献してはいるわけで、だから橋下さんも都構想の真の目的をおおっぴらに口には出来ないのだろう。


つまり都構想の本丸は、大阪市役所の持っている巨大利権と巨大権限を剥奪し、大阪市だけがリッチな現状を変えて大阪府全体で効率的におカネを使うことと、過去の遺産と補助金漬けの大阪の経済の実態を打破して、自立した経済的な体力を回復することにある。


市営地下鉄や市バスの経営体制を変える、といった橋下さんが打ち出している一見些細に見える改革案も、実はこの「大阪市がとにかくリッチな自治体で、その財源が大阪の経済のかなりの部分をなんとか廻している」という文脈で、本来は考えなければいけないし、逆にそう考えればこそ明瞭に意味が分かることなのだ。 
少なくともそれらの市営交通の経理を明瞭にする効果はある、市が実は膨大な資産や財源を隠し持っていることの一端は見えて来るはずなのだ。

言い換えれば都構想の本音とは、「大阪市民は甘やかされて腑抜けにされているからこのままじゃダメだ」ということであり、「税金の無駄遣いでもなんでもいいからそれで経済が廻っているという現状はおかしいだろ」、だから「大阪市民がもう今までのように甘やかされず、大阪府全体で有効にお金を使うことが、大阪の経済活性化につながる」である。

だがこれを言ってしまえば、東京コンプレックスに苛まれる大阪市民のプライドはもの凄く傷つくし、実はかなり補助金で廻っている経済の、その補助金を直に貰っている層であるとかからは、確実に支持されない。

でも橋下さんが選挙キャッチフレーズで打ち出している「次世代のために」で考えれば、このままその温存の最優先で行けば、大阪は実は経済的に凋落するだけなんだから、目先は損するとしてもやった方がいい決断のはずではある、少なくとも本気で議論はすべきだ。




だが橋下さん自身が、そうした本当の争点を今度の選挙ですら打ち出せてはいない。これには維新という政党の問題もある––橋下さんと慎太郎以外は、恐らく本当の政策だとかなにも分かっていない人たちばかりに見える。

「維新」というウヨッキーな復古調の党名も含め、橋下さんや慎太郎が右翼を演じているのは、それがポピュリズムとして現代の日本政治でかなり有効だからに他ならない。その意味で橋下さんや慎太郎の国家主義や復古主義はかなりの部分、スタンドプレーであり演技だ。だが維新の他の議員や党員にとっては、安倍晋三ばりのペラペラな国家主義の装いが本気の本気で、子供じみた精神論以外の中身がなにもないのだから始末に負えない。

これは橋下さんや慎太郎本人の性格的な問題もあるのではあろうが、結果として側近やブレーン、補佐役として彼らを支える人材がいない、というか周囲にロクに能力がない人たちしかいない。

橋下さんが格闘しつつぜんぜん成果が上がらない大阪市政の場合は、市議会与党や野党より、もっと大きな問題や障害が他にある。まず市役所が、それこそ霞ヶ関も真っ青な「伏魔殿」だし、その巨大利権と巨大権限をそう簡単に手放すわけがない。

いや橋下さんにとってもっと困ったことは、本当の改革のポイントを選挙の争点にしても票にならないという大阪市とその市民全体の問題だろう。

この点でも大阪は日本の縮図か、凝縮されたカリカチュアになっている。国政ならば霞ヶ関、大阪市政なら中之島の市役所を中心とする建物群が本当の「敵」なのだ。
だが国民も市民も、肝心な時には選挙の結果よりもその官僚機構の方になびくよう、適度に飼いならされ、お役所には結局は絶対に逆らわない、逆らえないと思い込まされている。


実は大阪市はリッチである。だが表向きは日本でもっとも多数の生活保護支給を抱える自治体でもあり、だから「不正受給」の背後に在日コリアン団体やいわゆる同和団体の影響をあてこすりながら、「生活保護が市の財政を圧迫している!」とか言った方が、選挙には勝ててしまうのがこれまた「ザッツ大阪」だったりする。

なにしろ共産党まで支持者を維持し票を集めるスローガンが、「同和利権」なるフィクションを持ち出し部落解放同盟をネチネチとヘイトスピーチで攻撃することだったりするのが、大阪市政では当たり前の風景なのである。

いやそれは日本共産党だからこそ、という説もあることも念のため言っておきます。 
その方が結構図星だと僕自身だって思っているし、そんなヘイトスピーチのデマ偏見流布での支持集めを延々とやって来た代々木のエラいさんが「反差別デモ」とかで先頭に立ったりするのはほとんど失笑ものの悪質な冗談である。

これは決して安易に言っていいことではないし、裏でこっそり口にする人の多くが極めて安直な偏見で、結果として完全に間違っている場合がほとんどだが、かと言って無視するのもまた差別的な偽善になりかねないこととして、橋下徹さんという政治家と、橋下さんがいわゆる同和、被差別部落民の出身であることは、やはり切っても切り離せない

橋下さん個人の性格がどうこう、などの薄っぺらで偏見に満ちた決め付けをやりたいのではない。

むろん橋下さんが自分の実力で出世できる弁護士という資格商売を選んだこと、派手なスタンドプレーと大風呂敷に固執しがちな目立ちたがり屋である一方で、世間のうわべだけの偽善のタテマエを時にまるで無視して自爆しがちなことと、自力で上り詰めたエリートだからこその強烈な自信と負けず嫌い、人によっては傲慢と毛嫌いするプライドの激しさ、いずれもいわばその “最下層” 出身だからでもあるのだろう。

だが、それが橋下さんの「強さ」と強烈な上昇志向のベースにあるとしても、そうした強烈さや我の強さを持てない小市民的な付和雷同な人間が「あいつは同和だから」とか陰口を、というのは、さすがにちょっとウンザリ…

…と言っても、ぶっちゃけた話、こと大阪府知事、大阪市長としての橋下さんの毀誉褒貶の激しさに関しては、支持しているようで裏では陰口を叩く人も多い大阪方面の論理は、まさにこうした差別意識と成功者への嫉妬のない混ぜ以外のなにものでもない。

実を言えば橋下さんの出自のこと自体、僕は彼がまだ府知事であった頃に大阪で映画を撮り始めるまで、考えもしなかったのだが、「橋下」という名字自体が関西出身であればすぐ “ピンと来る” ものである。 
いや言われてみればそうなのだけど、いくらなんでも法的にいわゆる「部落民」が平等扱いになってからもう140年、さすがに今さら、そんな差別をするのはごく一部の人だろうと、当初は無邪気にも思っていたのだ。 
だが「あいつの出身は」云々を最初に聴かされたのは、彼が右派だから反対なのだろうと普通なら考えるようないわば左派リベラルの市民派というか、小川紳介や土本典昭、原一男の映画作りを大阪で積極応援して来たはずの人からだった(かと言って代々木系ではないので念のため。つまり大阪では左翼が差別の先棒を担ぐのは共産党に限ったことではない)。

だから橋下さんとその出自、つまり彼がいわゆる被差別部落出身でありながら、あの大阪で府知事になり市長をやっていることにおいて、結局はその出自の問題を切り離しては考えられないのは、橋下さん個人の人柄や性格に関する問題ではない。橋下さんが結局はそういう出自の人としか見られない、そうなってしまう危険性を橋下さん自身も無視出来ないことが、いちばん大きいのだ。

言い換えれば、それは橋下さんの育ちとか性格の問題よりも、橋下さんを見る市民・府民の側の(あくまで先述のような、「ザッツ大阪」的な意味での「無自覚」な)差別意識の問題だ。

そう思えば、橋下さんが極右ポーズをとることを選択したポピュリストであることには決して賛成も共感も出来ないものの、その選択をした動機も含め(同和出身で左派だったら、それこそ相手にされないのがバブル後の日本のポピュリズムだ)、橋下徹さんの「勇気」は認めざるを得ないし、その「勇気」とは大阪市民の特権的優位意識をあえてぶっ壊す都構想をぶちあげたことも含めてであることは、言うまでもない。

前市長の平松氏も本人は決して悪い人ではないのだろうが、平松市政が話題作りの人気とりでやったことの多くが、大阪の人には分かる(ただし先述の「ザッツ大阪」で、実は分かっていること自体分からないのか、分からないフリをしているのかよく分からないのが大阪である)「暗号化された同和いじめ」だった。

ちなみに平松さんと橋下さんの一騎打ちになった前回の市長選で、橋下さんの出自をあげつらったネガキャンが週刊誌で行われたのは、平松陣営が関わっているとしたら大阪が分かっていない部類の勇み足だろう。 
実は差別が根深いからこそ、「橋下が市長になれないのは同和だからだ」と言わせることは絶対にやらないのも「ザッツ大阪」、その辺りは徹底して二枚舌というか、「差別している」と言われることは徹底して避ける。

釜ヶ崎の「浄化」計画を進めようとしたこと(ホームレスの人たちを新築した福祉住宅に入れる、と表向きは「よさそう」に見えること)、道頓堀のタコ焼き屋が市の土地で営業していたのを撤去させたこと、河川事務所が川や堀・運河に沈んでいた現金などをいわばネコババしていたことの告発、すべて「分かる人には分かる」こととして、いわば「暗黙の同和利権」と市民が実は理解して来たことをターゲットにしている。

橋下さんの代になって大っぴらに維新が問題にした大阪人権博物館(リバティおおさか)の展示内容にしたって、とっくに平松市政の代から、同和差別の告発の要素が徹底的に去勢された、極めて偽善的な内容になっていた。

旧渡邊村、その昔のえた・ひにん制度導入の前の秀吉の時代には「太鼓庄屋」の称号を与えられた日本一の太鼓の産地、江戸時代には骨粉肥料の開発でもけっこう儲けていたその場所にある「差別の歴史を教える」博物館が、アイヌの展示とか女性差別に関する話から始まるんだから、人をバカにしているじゃありませんか。


残念なことに、橋下さんも市長になったとたん、自らがその出自なのに…いや、これは部外者の勝手な言い草だろう。橋下さん自らがその出自だからこそ、分かり易い「暗号化された同和いじめ」をやらなければ市長の地位が危うくなったことは認めざるを得まい。

そうしなければ、すぐに「あいつはやっぱりしょせんはヨツ」と陰口が行き交うに決まっている。リバティ大阪だって橋下さんの立場では、平松時代に既にやっていたそれ以上をやらなければ「やっぱりヨツ」でリンチ吊るし上げの対象になりかねない。

それこそ都構想の真意が分かったとたん、市長を続けられないどころか「部落のクセに生意気だ」が決して表向きでは口にされない合い言葉となって、それこそリンチで殺されかねない、その恐怖はあれだけ勇ましい橋下さんだって無視は出来まい。


東京では、橋下さんが文楽協会に噛み付いたことで「文化が分からない無教養な右翼」と批判することが主流だったが、実はこれは大阪ではまったく違った意味を持つのだ。

文楽人形浄瑠璃、その語り部である太夫も人形遣いも、太棹三味線も、たとえば「太夫」の称号が示す通り、伝統的にいわゆる「えた・ひにん」階級の特殊技能だった。人形浄瑠璃はいわゆる「かわらもの」の芸能であり、その大きな劇場は地域的に言えばいわゆる「被差別部落地域」にあるものだった。

…っていうか大阪の今ある繁華街の多くが、大阪駅のある梅田ですら元は巨大墓地があった場所であり、たいがいは歴史的にはいわゆる「部落地域」かそこに隣接している場所だ。そしてその多くは、江戸時代から賑やかだった。

なお江戸だって、日暮里や浅草から北西、吉原にかけてと、隅田川の川向こうの両国は “そういう地域” で、だから歓楽街や娯楽文化の中心として栄えた歴史がある。 
別に役者芸人や遊女が「虐げられたもの」だったから、というだけの単純な話ではないので念のため。 
浄瑠璃も歌舞伎も、そして能楽も、そのドラマの基本構造からして宗教的・霊的に、その人たちでなければ担えない表現だったからである。 
こと浄瑠璃ではその構造は極めて明確だ。浄瑠璃の物語は決してオリジナル・ストーリーではなく、すべて元は歴史物語として誰もが知っている共通教養の源平合戦や太平記などを翻案した歴史物か、同時代的に大いに話題を集めた恋愛スキャンダルを扱った世話物だ。 

『義経千本桜』より 
前者では主人公達は歴史上の非業の英雄たち、後者ではたいがい心中事件の主人公、つまり死者であり、それまで世間で知られていたのとは異なる「事件の当事者から見た真相」がそのドラマの中身だ。つまり死者を代弁することで、武家社会の忠義の論理や商人の世界の義理や決まり事の矛盾が引き起こした悲劇を告発するのが文楽人形浄瑠璃であり、その真実を語り社会を批判出来るのは、特殊な霊的な力を持ち然界の神々や死者たちとつながった “権力外” の人たちだけだったのだ。 
被差別部落、「えた・ひにん」とは本来、そういうものである。江戸時代の身分法でも、士農工商のさらに下に「えた・ひにん」があるという構造ではない。そのヒエラルキーの「外」にあった制度上最下級身分、いわば「身分がない」「身分の外」であり、では実態も最下級だったのかと言えば必ずしもそうとは言えなかった。 
というかもっとはっきり言えば、現代でもたとえば「太子町」と言った地名がその地域には多いし、京都に行ってしまえばミもフタもなく分かり易いこととして、「えた・ひにん」階級は明らかに、天皇と密接な関わりを持っている。 
なお彼らが江戸時代までなら皮革加工やにかわの製造、明治以降では屠畜や精肉に関わるのが「穢れ」とみなされて、というのもむしろ明治以降の誤解である。本来は「それら穢れた職業しか彼らに許されなかった」のではなく、彼らにしか許されない仕事だったのである。 
命を奪うことは「穢れ」ではなかった。命を奪えば普通は「祟る」、その祟りを本気で恐れたのが過去の日本人であり、自然神や死者の霊を鎮める力を持つ彼らだけが「祟り」を恐れずに済んだのだ。

橋下さんが自分も被差別の出自なのに右翼のポーズをとり「弱者」に冷たい、という批判は教条左翼から多々出て来そうなわけだが、それはそれであまりに差別的な言い草だと指摘しておく。むしろそんな厳しい境遇だからこそ実力でのし上がった橋下さんからすれば、そんな「弱者」扱いこそが自分達を被差別の立場に追い込み閉じ込める話にしか見えない。

頭の良さと人一倍の勉強を武器に弁護士資格をとり差別をはねのけて来たのが橋下さんであり、弱者扱いされること、弱者に甘んじることなんてまっぴらご免だろうし、そうしたことを一切考えて来なかったし教えもして来ていないことが、日本の差別に関する教育(「人権教育」)や、反差別を自称する「支援」の運動の多くに見られる巨大な誤謬だ。

橋下さんの右翼国家主義のポーズはむろん「その方が人気が出る」という冷徹な判断が第一にあるのだろうが、こうした戦後左翼がこと差別の問題についてほとんどなにも成し遂げて来ず、しょせんは恵まれた中産階級の自己満足に堕して終わっているのが大半である現状と、こと大阪では他ならぬ共産党が自分達に対するヘイトスピーチで票や支持を集めていることへの、彼自身の強烈な反発の結果でもあるのだと思う。

この辺りは、戦後の左翼運動や今の左派やリベラルを称する人たちが大いに反省すべきことだ。

また橋下さんの世代になれば、一方で部落解放同盟などの運動体ももはや賞味期限を失ってしまっていることが大きい、とも思う。

これは解放同盟自体が悪いわけではない。

橋下さんは賛成しないだろうとも思うが、少なくとも僕から見て、解放同盟は大筋に置いて、戦後の運動方針はどれも間違ってはいない。普通なら差別の解消に役立って当然の、理論的に正しいものがほとんどだったと思う。

だが戦後まもなく、貧困と差別が密接に結びついていた時代に、いわゆる部落民の経済的な生活状況の向上を要求して戦ったことは、結果として「同和利権」なる都市伝説を産み、増幅させ、あたかもいわゆる部落民が一般市民に較べて優遇されているかのような偏見を産んだ。

就職差別が激しかったからこそ、自治体などに積極雇用を要求したことも差別解消の最初の段階として当然とられるべき処置だったが、これも「利権」と言うことにされてしまった。

行政の側はさらに手の込んだことに、雇用なら歴史的に旧えた・ひにん階級が関わって来た葬儀祭礼や河川の管理、ゴミ処理などの職種をメインにし、これ見よがしに「危険手当」などを匂わせることで一般プチブル市民の悪意と嫉妬に満ちた噂を誘発して来た。

公共住宅の建設ではわざと建設費が割り増しになるような独特な様式の建物にして、巨額の建設費でこれまた一般プチブル市民の嫉妬を誘発させて「同和利権」神話を補完すると同時に、そうした建物それ自体が見た目の特異性からして被差別のスティグマとして機能するように仕向ける念の入り様である。


また一方で、こういう施策の過程で部落解放同盟それ自体の一部幹部を始めとしたいわゆる被差別の側に、いやな言い方をすれば「鼻薬」をかがせることも、ちゃんとぬかりなくやって来ている。そうすることで当然の権利の要求の運動を去勢し、利権に縛り付けて身動きをとれなくすることも計算済みだったのか、これもまた無自覚・無意識にそう仕向けたのか…

そんなやり口がもはや「伝統」と化した大阪市政にあえて乗り込んだ橋下さんを、僕は無碍に非難する気にはなれない。慰安婦問題に関する暴言それ自体は問題だが、「慰安婦=売春婦」論的なことを橋下さんが口にするのは、なにも知らない二世三世の「愚かな坊ちゃん」だらけの自民右派や、そこにはへつらう傲慢な権威主義者のNHK会長がオランダの「飾り窓」を持ち出すのとは意味が違う。

橋下さん自身が飛田料理組合の顧問弁護士をやっていたこともある。オランダの「飾り窓」云々どころではなく日本にも、こと大阪には(売春禁止法があろうがなかろうが)、それこそ「飾り窓」とは比べものにならないほど厳格な伝統様式すら持った遊郭、売春業が飛田九条の松島に存続しているし、歴史的な経緯では遊女もまた「えた・ひにん」階級であったことから、それは橋下さんが育った環境の身近にあったものだ。

橋下さんにしてみれば、そういう現実が厳としてある現状を知りもしないで「慰安婦がかわいそう」的な感傷主義の“正義”の装いに終始する議論には、そう簡単に納得はできまい

むろん理論的・理念的に考え抜いた結果ではなかった安直な発言の責任は問われるべきだが、橋下さんがいわゆる部落民であり、飛田料理組合の顧問弁護士だったことの意味を深く考えもせずに「女を食い物にする組織売春に加担した」的にあげつらった批判には、「それは違う、なにも分かってない」と言わねばなるまい。

部落解放同盟の戦後の運動・闘争のなかで、現代の我々にも馴染みが深いのはいわゆる「言葉狩り」だが、これは実は差別の解消には理論的にはなんら寄与しない闘争だった…というのは同盟も最初から実は分かってやっている。

「えた・ひにん」とか「ヨツ」と言ってはいけないとしたところで言い換え語で「部落」、それも禁じたところで今度は「同和」と、いくらでも言い換えは出来る(「売春」と言わず「風俗」も似たような話だし、軍専用売春婦では体裁がつかないから「慰安婦」と呼んだ日本軍なんてのもある)わけで、言葉を禁じたところで差別は温存される。

差別は決して「差別語」ではなくあくまで差別意識の問題であり、「チョン」が差別語だから使わないとしたところで、差別的な意識や文脈で「在日」と言えば差別性は維持される。

ただそれでも、「差別語」という概念を持ち出すことで、「チョン」だの「ヨツ」だのの言葉を無頓着かつ無神経に使っていた人間に気づかせることにはつなばるはずだし、放送局などの大手メディア・言論権力を掌握する側にそれを突きつけること自体が、差別問題をうやむやにさせず差別される側がきちんと自分達の存在と、自分達が担う正義を突きつける意味があった。

ところがこれも、まるで理論的にはそうなるはずの結果にならなかったのだから、現代の日本という差別することが国民共同体の暗黙のレゾン・デートルになっている泥沼は恐ろしい。

なんと日本のマジョリティの側はこれを、「部落の連中が生意気にも俺たちの言論を封じようとしているが、差別と言われるのは困るからしょうがない」というように読み替えてしまったのだ。こうして差別に苦しめられている側が不当な抑圧者にスリ替えられるフィクションが共同幻想として成立し、自分達こそが被害者なのだという歪んだ自己正当化の言い訳にみすみす利用され、挙げ句に解放同盟は「怖い」か「鬱陶しい」、不当な圧力団体扱いすらされてしまうのが現状だ。

戦後の部落解放運動の歴史は、やって来たことは基本正しかったはずだ。

戦略的にも理論からすれば有効で、普通ならそれで成功することをちゃんとやっていたはずなのだ。

なのに結果だけ見れば、敗北よりももっと始末が悪い。自分達の正当性を認めさせたはずが見事に足下を掬われ、差別する側の狡猾にして無自覚な悪意の連帯に闘争の手段を絡めとられ、逆利用され、差別は解消に向かうのでなく隠蔽されるだけで温存され、昨今ではそこに胡座をかいてふんぞり返ったまま「反差別の運動」の主体すら被差別者から奪う「マジョリティからの反差別」運動を称してその自分達の「善意」にマイノリティを服従させようとする輩まで出て来る始末だ。

それどころか今や、『はだしのゲン』に「かたわ」「乞食」「貧乏人」と言った言葉が出て来ることを理由(というか言い訳)に、このマンガを子供に読ませまいとする、そうすることで戦後に原爆の被爆者がどれだけひどい差別を生き延びて来たかすら隠そうとする勢力まで、出て来てしまった。

 「なぜゲンだけなのか」 回収協力の校長「悔やんでる」(朝日新聞) http://www.asahi.com/articles/ASG3M7G13G3MPTIL033.html


こうした「臭いものにフタ」こそが、いわゆる「差別語」禁止の最大のデメリット、むしろ差別が「なかったこと」とされてしまうことに利用されかねない。

差別を表象する言葉、差別が確かにあったし今もあることの明確な記号を禁忌とすることで、差別自体が隠され、伝える言葉もなく、それ自体がなかったことにされてしまう。

また「差別語を使っていないから差別ではない」と言い張る余地まで、差別をし続けたい側に与えてしまう。

「差別する側」でありながら反省と自己改善を拒絶する者達にとって、もっとも好都合で身勝手な結果になりかねないことだ。

そんな現状のなかで橋下徹さんを無碍に責めることは、少なくとも僕にとってはちょっと良心が許さない。その個々の発言内容や態度には、納得出来ない、批判すべきだと思うことも多々あるが、それですら狡猾かつ無神経な無自覚さで「自分達が安心して差別出来る立場を温存したい」をずっと貫いて来た僕たちの社会が彼をそこに追い込んでしまった結果であるようにしか、僕には見えない。

ただだからこそ、橋下徹さんにはあえて言いたいし、気づいてもらいたいとも思ってしまうのである。

あなたが差別をはねのけて懸命に頑張って来たそのことすら、あなたの真の敵である匿名の、集団制の、摩訶不思議で正体の判然としない、無自覚で無神経で無責任なこの国の「差別する側」に結果として負けてしまっている、いいように利用されてしまっているのではないか?

だからこそ、大阪都構想の本当の意味も、そろそろブチまけてもいいのではないか?

「あなた達はこれまで不当に甘やかされて来て、それがあなた達の活力も奪っているのだ。大阪市民であることの特権的な利益なんてこの際、大阪のため、日本のためにこそ自ら棄てる覚悟を、あなた達は持つべきではないのか?」と言ってもいいのではないか。

そうでなければ橋下徹さんに大阪市民から期待されていることは、ただの徹底した「同和いじめ」(それを同和出身の市長がやれば「差別ではない、区別だ」と正当化されるらしい。そんなバカな)でしかなくなってしまう。

実はかなりの部分が補助金で廻ってしまっている経済をなんとかするのでなく「同和利権」という都市神話になんとなく符合しそうな補助金や生活保護だけを切ることだけだ、ということになってしまうし、このどうしようもなくドス黒く陰惨で無自覚さと無神経さに満ちた、不特定多数の「差別する側」のいっそう堕落した集合的不道徳の泥沼だけが、橋下市政が次の世代に遺す負の遺産になってしまいかねない。

これは単に差別される側の、いわゆる部落民や在日コリアンなどの人に「やさしい」社会を、とかいう話ではない。こんな自堕落な非倫理と、人間としての最低限の矜持の欠如を共有する集団性のなかに引きこもり、商人の町のガッツなんてとっくに失いかけている大阪が、再び名実ともに日本第二の経済圏の中心、独自の文化とエネルギーを持った都市を取り戻せるかどうかの、瀬戸際ではないのか。

つまり大阪が自分をちゃんと取り戻す、ということでもある。

3/18/2014

拉致問題を玩具にして来た罪、し続ける罪


拉致被害者・横田めぐみさんのご両親が、めぐみさんの娘のキム・ウンギョンさん一家とモンゴルのウランバートルで面会していたことが明らかになった。帰国後、記者会見に臨んだご夫妻の、特にお母さんの早紀江さんのあまりに嬉しそうな笑顔が印象に残る。

横田夫妻の記者会見(産經新聞)
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/140317/crm14031717080008-n1.htm

このお孫さんの存在が明らかになってから、考えてみればもう10年以上、北朝鮮政府が彼女からおばあさんに宛てたビデオレターを公表した時も、それをテレビの生中継番組で見るときの横田早紀江さんは、もう「目に入れても痛くない」と言わんばかりの顔をされていた。中学生だった頃の娘さんの写真にそっくりのお孫さん、その当時10代の少女だったウンギョンさんも、もう26歳で結婚もし、10ヶ月のひ孫も面会に連れて来たという。

横田さんご夫妻がお孫さん一家に会われたということは、ご夫妻がある残酷な現実を受け入れたことも意味する。

あれほど探し求めためぐみさん、あれだけ助けたかった、もう一度会いたかった娘さんは、残念ながらもうこの世の人ではない。

その忘れ形見であるかわいいお孫さんのウンギョンさんがそう言うのだから、おじいさん、おばあさんである滋さん、早紀江さんは、間違いのない事実だと受け止めているはずだ。

家族であるウンギョンさんやその父でめぐみさんの夫、横田さん夫妻から見ればお婿さんに、そんな噓をつく必然がないし、また噓をつけるようなことでもない。こと最初に公表されたビデオレターでもすぐに分かることだが、ウンギョンさんはそんな噓がとてもつけそうもない、やさしくてまっすぐな、気だてのよい娘さんに成長していたし、早紀江さんは祖母としてそのことを心から喜んでいた。

だが実は、いかに「めぐみさんは生存している」と日本の政府やメディアが騒いでも、この事実をご夫妻はとっくに覚悟されていたのではないかとも思う。

そもそも「めぐみさんは生きている」と日本側が言い張ることには、最初からなんの根拠もなかったのだし、無責任な部外者ならともかく、親がそんな安直な話をただ本気で信じて安穏として来られたはずもない。どう現実を受け入れるか、深く苦悩され、生きていて欲しいという願いと絶望のなかで、逡巡を繰り返してこられたに違いない。

それに北朝鮮が、日本のメディアが喧伝するようなとんでもなく残虐な国ならば、仮に生きていても日本であれだけ騒ぎになれば「面倒くさいから殺してしまえ」となることくらい、本来なら誰でも想像がつくことだし、その点でも日本の拉致報道はあまりにも無責任だった。

確かに北朝鮮側が出して来た、亡くなった拉致被害者に関する情報は、世界有数の先進国で世界一戸籍制度がしっかりしている日本の標準からすれば、ずいぶんいい加減に見えた。別の被害者について提供した遺骨がDNA鑑定の結果別人だと分かったことすらあった。

だがそれだけを持って「だから生きている」と言い張るのには、あまりに無理がある。

日本のように遺体や遺骨をきちんと管理していることだって、日本の歴史においてすらここ40年とか50年くらいのことに過ぎず、遺体や遺骨が実はないお墓も日本全国には今でも多々ある。 
火葬が普及する前、土葬だった時代のお墓を移転する時も、移すのは墓石だけだった。だいたい酸性土壌の日本では、土葬された遺体は骨ですら分解されてしまう方が当たり前だし、火葬が全国で徹底され遺骨が骨壺に入って守られているのは、実はかなり最近に限ったことである。

横田めぐみさんに至っては、北朝鮮側が「亡くなった」というから「いや噓だ、生きているんだ」と言うためだけに、ご両親にしてみれば深く傷つくであろう無責任な風説まで、さんざん報道されて来た。

優秀だっためぐみさんが、北の諜報活動の日本語関連の職務に深く関わっていたから、というのならまだ分からないでもない話だが、なまじ美人だったというだけで、前国家指導者の金正日の愛人だったから返せないのだ、などという報道が平気でまかり通っていたのだ。

そんな悪意と下衆な好奇心たっぷりな風説の根拠は、なんだったのだ?お嬢さんが誘拐されただけでなく、権力者の性の慰みものにされていたなぞという、親御さんからすれば耐え難い、胸が張り裂けるような話を、なぜ平気で吹聴出来たのだろう?

あんな下品なことを言ってしまえば、ご両親をどれだけ深く傷つけるか、考えていたのだろうか?

それでもうわべは「支援する」人たちや、他の拉致被害者家族への気がねから、横田さんご夫妻はなにも言えなかったし、そうした被害者の家族のなかにはメディアに持ち上げられ自民党右派に「支援」され、有頂天になって参議院選に出馬する人までいた。

家族と言ったっていろいろあり、親子と兄弟とではまた違うわけだが、姉が拉致被害者であることよりも政治家やメディアに…というか舞い上がらせた側の罪は大き過ぎる。

そんななか、本当なら親としての当然の気持ちを横田さんご夫妻が露にして、怒っていたら、どうなっていただろう?

普通なら仮にそんな事実があっても、公表に最大限慎重になることだ。しかもあんな風説には、なんの根拠もなかった。実際のめぐみさんは拉致された辛い境遇のなかでもしっかり生きて、愛し合う家族もきちんと作っていたというのに。

帰国した拉致被害者・蓮池薫さんの兄・透さんは、自民党右派にべったりの拉致問題に関する運動と、その政府が実はなんの交渉もしていないことに「おかしいのではないか」と異を唱えたとたん、ひどいバッシングに遭った。


蓮池透さんが昨年7月に朝日新聞に寄せた談話

実は薫さん一家を守るために、矢面に立つ覚悟でもあったのだろう。そんな蓮池透さん自身が最初はそうした被害者家族のなかでも急先鋒の論客だった(蓮池家は高学歴のエリート一家なのだ)が、帰国された弟さんに本当のことを聞いて、考えをまったく改められたのだ。

凄いご家族だと思う。もうあっぱれという他ないほどにしっかりしている。その家族内の議論たるや壮絶なものだったのだろう。 
こんな強固な家族の絆を持った家が、今の日本にはどれだけあるのだろうか?

拉致問題は、そんなに単純なことではない。

被害者の立場は複雑である(元は誘拐されたとはいえ、何十年もそこで生活して来て、人間関係も作って来たのだから当然だ)。そして日本と北朝鮮の関係もまた、この国家が隠していた誘拐事件だけを持って一方的に「北朝鮮けしからん」と言えるほど、単純なものではない。

北朝鮮が日本人を拉致していた事実を公式に認めたとき、日本側の反応は実はある世代を境にくっきり分かれていた。あの戦争の時代を覚えているかどうか、が決定的な違いだった。

確かに数十人、もしかしたら数百人規模で、北朝鮮は日本市民を拉致していた。それが個々の被害者にとって許し難いことなのは当然だが、だがならば私たち日本人の国家は、朝鮮民族になにをしたのか

数で比較するようなことでもないとはいえ、「そんなに偉そうなことは言えない」というのが、子供であってもその時代を知っていた世代の普通の反応だった。目の前にあった社会の現実として、当時の日本人はそれを見ている。従軍慰安婦のことですら、1960年代70年代までは、日本人なら誰でも知っている常識だった。

そして横田滋・早紀江夫妻もまた、それを自分たちの体験としてご存知の世代である。

慰安婦問題だけでも、歴史学的にもっとも信頼性の高い推計では20万人におよぶ朝鮮民族をはじめとする多くの、ほとんどが外国人の女性たちが、大なり小なり強制的に(というかどうみたってほとんど場合半ば以上強引に)日本軍兵士に性の奉仕をさせられた。国家の軍の管理で、個々人の兵隊が娼婦を買うのではなく、彼女たちの給金も国から支払われることになっている制度で、「売春」では体裁がつかないから「慰安婦」という官僚的偽善名称まででっち上げて。

事実上の強制・徴用で(形式上だけ雇用の契約などを整えて)日本の政府や企業で労働させられた人はどれだけいたのか?名目上は「雇用」でも給料は未払いのまま戦後処理でうやむやにされ、移送中に船が撃沈されて死亡し、その補償・賠償もまったく行われていないケースすら多々ある(まあ同じように亡くなった日本人だって、民間人の立場なら国はなんの補償もしていない、徴用され撃沈されたその船だって補償は一切なかったのだが)。

いやなによりも、日本は朝鮮半島を侵略し、武力を背景にした脅しで併合を「合意」させて1911年から1945年まで植民地支配して来た。建前上は朝鮮人も「日本国籍」となったが、日本名を名乗るように実質強制(建前は「平等に扱うため」「朝鮮人の希望で」という体裁)はするわ、徴兵の対象にすらしながら、徹底して差別もしていた

政府国家がやって来たことだけではない。1923年の関東大震災では、多数の朝鮮人が日本の一般市民に虐殺すらされているし、そして戦後も日本人とその社会の総体が、やはり朝鮮民族を大なり小なり差別して来た

さらに、いかに日本の植民地支配それ自体に「近代化に貢献した」など正当化の理由をひねくり出し、当時の建前上の体裁だけをつまみ食いしてどんな言い訳をでっち上げようが、こればかりはまったく言い逃れが出来ない禍根が、今に至るまで続いている。朝鮮半島がなぜ分断国家になったのか?ソ連参戦とともに日本軍が逃げ出したから、宗主国として最低限の責任であるその領土と人民を守ることすら、責任放棄してしまったからだ。

植民地主義に一定の正当性を認めるとしても、これではあり得ないほど失敗した、情けない宗主国でしかない。なのに一体なにを空威張りしているのか? 
だが植民地支配や戦争が遠い過去の歴史になった、しかも学校ですらなぜかちゃんと教えない時代が延々と続いた結果、なぜ半島が韓国と北朝鮮に分かれているのかすら考えないかも知れない世代(というか、報道ですら最近は触れず、せいぜい朝鮮戦争までしか遡らない)は、とんでもない勘違いに洗脳されてしまっているようだ。

日朝の国交正常化交渉で、客観的にみればもっとも重要な、乗り越えなければならない課題は、歴史の問題、過去の清算だ。

拉致がそれぞれの被害者個々人にとってはどれだけ言語同断なことであっても、これは国家としての交渉上、やはり歴史問題のバーターに出来るような話ではそもそもない。拉致の被害者はあくまで個々の拉致された人たちとその家族であって、日本国家や日本人という民族の総体ではないからだ。

ちなみに慰安婦問題について、韓国政府は被害者があくまで慰安婦個々人であることの区分けを、体裁ではきちっと守っている。プロの外交官なら当たり前のことだし、そうしなければ慰安婦制度がいかに言語同断の人権侵害でも、いや人権侵害の問題だからこそ、国際的な支持を得られない。 
韓国のロビー活動がどうこうで反日プロパガンダ包囲網が、だなんて子どもじみた被害妄想をブツブツと国内で言っていないで、自分達がやって来ていることが客観的にどれだけ説得力があるのか、冷静に考えてみてはどうだろうか?「河野談話の再検証」も結局は撤回することになったにせよ、言い出しただけでもどれだけ恥さらしであったことか。

植民地支配はある国家がある別民族の総体に対して行った加害行為になるが、拉致問題はそうではない。被害者はあくまで個々人であり、日本国家はその人たちの生命安全に責任を持つから救うための最大限の努力はするが、それは国家と民族の総体が拉致事件の被害者であることは意味しない。

ところが北朝鮮が日本人を拉致していたことを公式に認めたとたん、日本側は(政府だけでなく、世論までが)「(個々の)日本人が被害者」であることを「日本が被害者」にスリ替えてしまった。

この致命的な勘違いに日本の世論が気づかない限り、拉致問題のその後は進展しようがないし、現にして来なかった。

外交的に言えば、途方もなく馬鹿げた話になってしまっている。だいたい、確かに日朝国交正常化に当って、日本は歴史問題というアキレス腱を抱えているにせよ、現実の、現代の国際政治バランスにおいて、国交の正常化を是が非でも求めて来たのは北朝鮮だ。なのにアプリオリに日本が優位にある交渉を、日本側は拉致問題の扱いを完全に間違えることで、それをただ国内世論の盛り上がりのネタにだけ利用したことで、逆に日本に不利になるように、膠着しかしないように、自ら演出してしまったのである。

金正日政権の時代、飢饉や経済的な危機を背景に、海外からなんとか援助を得るための綱渡り外交が、こう言っては悪いが北朝鮮にとっていわば国家産業、ほとんど唯一の外貨獲得手段になっていた面がある。北の核問題の真相にしたって、要するに金正日政権にとってもっとも効果のある援助引き出しカードが「核武装するぞ」という脅しだったわけだ(本当に核武装なんて出来る技術があるか自体、相当に怪しい)。

にも関わらず拉致問題に関しては、日朝平壌宣言を見ても、北朝鮮側は実質援助のバーターとしてこの国家犯罪の事実を認めたわけでもないし、「諜報部門のある部署が勝手にやったこと」と国家の責任を否定するトカゲの尻尾切り的ないいわけもあえて用いなかった。

国・政府の責任として他国民を拉致誘拐した事実を、そのまま認めた、つまり元から北側が下手に出ざるを得ない国交正常化交渉がかなりの部分さらに日本ペースで進むことを、あえて許容したのだ。

むろんそれはシビアな外交交渉として、北側には「歴史問題の清算」というカードがまだ後に控えているからでもあったのだが、とはいえ国家犯罪を認めたというのは、それだけ北朝鮮が国交正常化を求めている、そのためには妥協も辞さないことのサインであった。

なのに日本側は拉致問題が公になって以来、こうした外交の常道のネゴシエーションのプロセスを完全に忘れ、国益もなにも考えられず、まして被害者の人命や人権なんてまるで無視するような集団ヒステリーに走ってしまった。

亡くなったと報告された拉致被害者の件など、その最たるものだ。

冷静に考えれば、いったん国家犯罪であったことを認めてしまい、それも国交正常化を求めている以上、北側が実は生存している拉致被害者を隠す、返さない理由などまず考えられない。というか、国交正常化が進んでしまえば隠しようがないし、そんなことをやってしまえば早晩ボロが出て、交渉で日本側の有利を誘う結果になるのだから、まずやるわけがない。

死亡者に関する情報に不備が多かったのは「隠している」からではなく「ちゃんと把握していなかった」という可能性は最低限考慮すべき、最低でもその双方の可能性を勘案して交渉に臨むべきだったし、後者ならその杜撰さを、相手を責め、調査を徹底させる材料に利用出来たはずだ。

北にしてみれば国家犯罪であったことをはっきり認めた以上、反省を示しなるべく早く清算した方がメリットになるのだからこの件では完全に受け身になることも覚悟しているし、拉致被害者を救うことが本当に日本政府の目指したことだったのなら、具体的な不備をきちんと指摘しながら調査を要求し、あくまで人命尊重を最優先する姿勢を貫くことが出来たはずだし、第一次小泉訪朝以降ずっとそうして来るべきだった。

だが日本政府の対応は、今に至るまでまったくそうはなっていない。

拉致問題は国家による(他国民)個人への犯罪行為だ。無論、実際には日本が使える外交カードとして意味を持つとはいえ、だからこそ徹底して建前では「あくまで人命尊重」「個々人の人権の侵害が問題」という姿勢を貫くのが、その外交カードを活かす最も有利なやり方だ。

だが日本はこれに完全に失敗して来た。というか、最初からそうする気がなかった、思いつきすらしなかったとしかみえない。

生存していた拉致被害者をあくまで「一時帰国」扱いで合意したのは、それが守られないことくらいは北側も当然計算済みだったろう。日本側があくまで個々人の人権を盾に「帰りたくないと言っているから、その意志を尊重する」と言っていれば、約束を反古にしたことは大きな失点にはならないどころか、北側はそこで納得し妥協したポーズをとるつもりだった公算すら高い。

被害者たちの身柄を今さら確保する積極的な理由もないのだし、拉致という重大な人権侵害の犯罪行為を反省し、これからは人権を尊重する国であることをアピール出来るからだ。

ところが日本政府は、「本人たちが帰りたくない」では決してなく「日本国家が彼らを帰したくない」「絶対に彼らを帰さない」とやってしまったのである。これでは人権もなにもない、ただの国家のエゴ、独裁国家も真っ青な話だ。

しかもメディアと世論も無節操に、本人たちの希望は「洗脳されているんだ」と差別偏見丸出しの決め付けで聞こうとすらせず、これを支持してしまったのだから、まるで全体主義国家だ。

正直、この普通ならあり得ない稚拙で巨大な外交ミスに、北朝鮮側の交渉当事者はむしろ面食らったと思う。そして「いったい日本はなにをやりたいんだ?」とワケが分からなくなる、強いて解釈するなら日本側の悪意と敵意としか見えないのであれば、態度を硬化させるしかなくなる。

北としてはこれをきっかけに国交正常化を進めたかったし、過去の国家犯罪を反省する姿勢を示した方が外交上のメリットは大きいし、国交正常化を進めることに日本側になんのデメリットもないはずだ。むしろ「拉致被害者を救う」が日本の国益であるのなら、正常化を進めた方があらゆる意味で有効になる。

だがあくまで被害者は個々の日本市民であり、日本政府は国家としてその生命安全と人権の保証に責任を持つ、という態度を日本側がまったくとらず、「日本人が被害者」ですらなく「日本が被害者」で国内に引きこもって熱狂してしまった結果、拉致問題で国際的な支援さえも得られなくなってしまった。

六カ国協議で日本が拉致問題も議題に、と言う度に、同じく拉致被害を実は抱えている韓国や、米国ですら無視せざるを得なくなったのだからどうしようもない。同盟国である米国や韓国ですら「北朝鮮側」とは言わずとも「日本に賛成できない側」に追い込んでしまったのが、日本が「日本が被害者」だとばかり強硬に言い張ってしまった結果なのだ。

そんな論理のすり替えが国際的にはまったく通用しないのだと、むしろ姑息にも人権問題を悪用しているように見られるだけなのだと、なぜか日本政府も世論も理解して来なかった。

「人権と民主主義」は米国のこの種の外交交渉での最大の伝家の宝刀なのに、ブッシュ政権ですら横田夫妻をホワイトハウスに迎え、第一次安倍政権にうわべだけ配慮したリップサービスに終始しただけだ。仕方がない、日本が「我が国の市民の人権が侵害された」ではなく、ただひたすら「日本が被害者なんだから味方してくれ」では、アメリカは国是からして動きようがないのだ。

国連人権委員会がつい最近、やっと拉致問題を重大な人権侵害として認めたのも、10年以上経過してからだ。こんなの即座に決まっていておかしくない話なのに、なぜ認められなかったのか?日本政府のやり方が説得力もなく共感も呼ばなかった、「日本が被害者」と言いたがる態度が敬遠されたからに他ならない。

拉致被害者については、世界中の誰でもある程度は共感するはずなのに、それを戦争や植民地支配の失敗の責任の誤摩化しに利用しようとする日本側の姑息にしか見えないやり口が、軽蔑すらされて来てしまったのだ。 
いやむしろ、最近やっと国連人権委員会に認められたのは、慰安婦問題に絡んで日本が誠実に解決に取り組むことを促す、いわば「アメとムチ」的な文脈、「ほら、お前の言い分は認めてやったんだから、もう下らない言い逃れはやめろ」的な話でしかない。

三代目の金正恩の政権になって、北朝鮮は明らかに変わって来ている。

外交にしてもただ即座に支援を引き出すのが最優先の瀬戸際・綱渡り外交は、もはや過去のものだ。新しい、若い指導者は、むしろこれから国を作って行く、発展させて行くことを方針として内外に打ち出している。だから平壌がすっかり変わった、ほんの数年で近代都市に脱皮したことも、一生懸命に国際的にアピールしている。

保守政権で対北強硬派の今の韓国との交渉は難航を極めてはいるが、世界を見据えて「お互いに侮辱し合うのはもうやめよう」というアピールまで余念がない。

金正恩が父の代のナンバー2であった伯父を粛正したことは、国際メディアではたいがい強権的独裁国家イメージで報道されてしまったが、北朝鮮の内政で考えれば、この見方はおそらくかなり間違っている。はっきり言えば、金正日はまったく人気がない指導者だった(あれだけ悪い噂が国内から出て来るくらいなのだから、よほど嫌われていた)のだ。その父の代の腐敗した政権のなかでももっとも腐敗した実力者を、親族であってもあえて処刑すらしたのは、国民の支持を得たい若い政権担当者の、国民向けに「政府は変わったのだ」というアピールだと考える方が恐らく妥当だろう。

どうも昨今のメディアというのは、どんな国でも国民がいること、独裁政権こそその支持がなければ簡単にひっくり返る危険を常に抱えていることに、あまりに無神経なまま、極めて差別的な見方でしか、北朝鮮とかイランとかのような国の国民を見られないようだ。 
だがイラク戦争の時ですら、サダム・フセインはそれなりに人気があったから、あの国をなんとかまとめられて来ていたことが、アメリカがフセイン政権を倒した結果の大混乱で明らかになったではないか。 
独裁国家に住んでいるからといって、人間はそこまで愚かに洗脳された木偶の坊にはならない。いやむしろ、そういう社会にいればこそ、狡猾に自分を守らなければ生きていけないのだ。

日本に対しても金正恩政権がしきりに妥協も含め交渉再開に期待する姿勢で臨んで来ていることも、偶発的にではあるが、日本の大手メディアでさえ実は報道している。たとえば、戦没者の慰霊と遺族の墓参を、金正恩政権は日本に持ちかけて来ている。中国との国境地帯の、本来ならば国防上外国人は絶対に立ち入り禁止の地域への墓参の申し入れだ。

ところが日本政府は断るどころか、なんと無視してしまったのだからわけが分からない。いやほんと、拉致被害者を救う気なんてあるんだろうか?なぜ先方が下手に出て来ている、かつての常識ならあり得ないほど妥協して来た交渉チャンスすら、こっちから逃げてしまうのだ?

金正日政権だったらこの時点で諦めてしまうか、日本をなじる好材料に利用すらしただろう。だが新しい政権はそこで諦めず、日本政府を非難することもなく黙ったまま、赤十字を通して交渉を続け、戦没者遺族をきちんと招待したことが、これはNHKで(ちらっとではあるが)報道されていた。

どうみても金正恩政権は日本との関係を少しでも良好にしたいと思っている。

考えてみれば当たり前の話であって、新しい国作りをするのなら、東アジア圏でもっとも重要な経済産業上のプレイヤーのひとつが日本だ。中国に経済依存べったりか、あとは韓国との政治性の強い共同事業だけでは、独立国として経済をなんとか軌道に乗せることすら難しい。日本との国交正常化は、金正恩の新しい政権にとって重要な課題、新しい国づくりを国民にも示す試金石なのだ。

今回、横田さんご夫妻がお孫さんと面会されたこと、その仲介をしたのが(朝鮮総聯本部の落札で疑惑でもないことをさんざん疑惑と騒がれた)モンゴルの政府であったことは、正直いろいろな意味でほっとするニュースだ。

それにしても朝鮮総聯本部の落札 “疑惑” で出て来た名前が「朝青龍」なのだから、日本のメディアは本当に自己中に引きこもり体質で執念深いというか学習能力がないというかなんというか…。

横田さんご夫妻がやっとお孫さんに会えた、止まってしまっていた老夫婦の時間とご家族の歴史が、やっとまた動き出したことに安堵するのは、もちろんだ。もう十年以上前から「会いたい、会いたい」と思って来た家族がやっと再会出来ただけではなく、やっと日本政府の中でも、拉致問題の被害者は「日本国家」では決してなくあくまで個々の、拉致され人生を翻弄された人たちとそのご家族であり、その人たちの人生こそが最優先されなければならない、と思うまともな人たちの意見が通るようになったことも、こと安倍政権で日本外交があまりに不安な昨今、ちょっとは安堵できることだと思う。

とはいえ横田滋さんは81歳、横田早紀江さんも78歳。孫のウンギョンさんも最初にその存在が分かった時には10代だったのが、26歳になってやっとおじいさん、おばあさんに会えたのである。あまりに遅過ぎる。 
あまりに非人間的なことをやって来てしまったことには、やはり反省があってしかるべきだ。

ところが拉致被害者家族会や支援する会はこの期に及んで「戸惑う」といったコメントを出し、今まで横田さんご夫妻を「支援」(するフリだけを)して来た人たちは「北朝鮮に利用される」とか言って、実は横田さんたちをけなしたくてしょうがない雰囲気がプンプンしている。

いったいなにを「利用」されるのやら、わけが分からない被害妄想も凄いが、拉致被害者やその家族を救いたいというのが本当の動機ではまったくなかったことをもはや隠す気すらなくなるほど、最低限の人間性のタガが外れてしまったのだろうか?

さすがに横田さんご夫妻を面と向かっては非難攻撃はできないだろう。いや、せめてそれくらいの自制心だけは持って欲しい。 
「被害者の味方」だけが彼らの自己正当化の唯一の拠り所だからだ。こうやって「被害者」を利用した正義ごっこは本当に下衆だと思うのだが、昨今の日本では、震災にしても差別問題にしても、こういう無自覚な偽善の曝け出しばかりだ。

それにしても、「利用される」って?

むろん北側は日本との国交正常化交渉を再開したいからこの面会を実現させたのだ。そして日本の外務省のなかでも、このままただの没交渉、日本国内向けの強がりのポーズだけではどうしようもないと分かっている人たちの意見が、やっと通ったのだろう。だがそれを「利用される」って、では彼らは、北朝鮮との国交正常化自体を、拒否したいのだろうか?

国交正常化自体が「利用される」ことだって?国力からして日本が圧倒的に優位であることにすら、彼らは気づかないのだろうか?

いや、だが実は、国交正常化交渉それ自体を拒絶することそが、彼らの本当の動機なのかも知れない。

言うまでもなく、日本と北朝鮮の国交を回復するには、たとえ建前だけにせよ、やはり歴史問題は避けて通れない。

それに共和国政府にとっては建前だけでも自国の「公民」である在日朝鮮人の地位の向上、その人権を日本にちゃんと守ってもらうことも、国家のメンツとしては避けて通れない議題になる。

そのいずれにおいても、日本は歴史的に「加害者」である。その責任を直視することから逃げ続けたいのであれば、拉致問題を永遠に未解決にしたまま、ただ「日本は被害者なんだ」と言い続け、永遠に国交正常化を避けた方が楽なのだ––日本国内に引きこもっている限りにおいては。

だから亡くなっている拉致被害者でも、永遠に「生きているはずだ」ということにし続けなければならない。そう無言の同調圧力で強要することがご家族にとって、亡くなった家族を弔い、その死を受け入れることで人生を先に進めることすら許さない、どれだけ残酷なことなのかすら、考えもしないまま。

横田さんご夫妻は、この年齢になるまで耐えて、やっとその一歩を踏み出すことが許された。これ以上は、しょせんは他人でしかない人間がとやかく言うべきではない。今後は北朝鮮を訪れてお孫さん一家やめぐみさんの夫との親交を深めるのも自由にさせてあげるべきだし、お孫さん一家が日本にも遊びに来られるようにすることが、人としてもっともまっとうな話ではないだろうか?

安倍晋三首相を始め、さんざんこの人たちを利用して来た、「支援」を装って心すら踏みにじって来た政府やメディアの人間には、それくらいは尽力してあげるべき、罪滅ぼしの義務がある。