最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

4/24/2015

バンドン会議と安倍晋三

(写真はインドネシア、ジャカルタ)

今年のアジア・アフリカ会議は60周年であっただけでなく、開催国のインドネシアにとっては、ついに誕生した本格的な民主政権のジョコ・ウィドド大統領がホストとなった点でも意義深いものだった。

だが日本のメディアの関心は、首脳たちの記念撮影でそのジョコヴィの左右を固めた習近平中国主席と安倍晋三日本首相にしか向いていない。

それにしても安倍晋三首相自身が、ジョコ大統領にも他の首脳達にも目もくれず、ひたすら習近平の握手を求めようと懸命に待ち構えている映像がNHKのニュースで流れたのには、「ああ、なんてこった」と呆れてしまう。

この会議では日本政府の関心が日中首脳会談にしか向いていないのだから、メディアがそうなるのも仕方がないのだろう(こうした外遊では外務省と官邸の差配で報道内容がだいたい決まるものだし)。

しかも安倍氏がわざわざこの会議の参加直前に、戦後70年記念談話について「村山談話、小泉談話を引き継ぐと言っているのだから、その中身を繰り返すことはない」とさっぱり意味の分からないことを言っているだけに、全体会議での安倍の演説でも、関心は日本がこの会議の参加国の多くをかつて侵略・占領した歴史にどう触れるのかに集まった。

戦後10周年にインドネシアのバンドンで第一回が開催されたアジア・アフリカ会議の50周年は日本の戦後60年、60周年記念は日本の戦後70年に一致するわけだが、念のため繰り返しておこう。今年で言えばその70年前とは、あくまで「日本がこの会議の参加国の【多くを】かつて侵略・占領した歴史」である。


たとえば開催国のインドネシアでも、日本が占領するまでのオランダ植民地時代について「オランダ人はそれでも、まだ結婚して子どもを残した。日本は強姦しただけだ」という言い方がなされるし、実際ジャカルタにでも行けばオランダ風の植民地様式の建築物は今でも多く残っているが(=写真参照)、確かに日本時代は目につく遺産をなにも残していない。残したのは圧制の記憶であり、日本軍に徴用・強制労働をさせられた「労務者」が「ロームシャ」、それに従軍慰安婦も「イアンフ」としてそのまま教科書に載っているし、ジャワ島などには元慰安婦の女性たちがひっそり余生を送っているコミュニティもある。

日本のメディアがひたすら注目している中国や、韓国の反応だけではなく、この会議の多くの参加国が、自分達もその被害国であるところの日本の戦争を、日本の首相がどう総括・反省し、謝罪するのかに、当然注目していることを忘れてはならない。

だが演説で安倍晋三首相の口から発せられたのは、予想通りといえば予想通りだが、かなり呆れる他はない空虚で論理的一貫性のない言葉の羅列だった。

「先の大戦の深い反省」とは言っているが、実際の侵略の問題についてはバンドン会議第一回で議決された侵略の否定の原則を「日本も誓った」という、なんともあやふやな言い方で、なにが言いたいのか分からず途方にくれてしまう。

安倍首相演説全文 http://www.sankei.com/politics/news/150422/plt1504220025-n1.html

正確には「先の大戦の深い反省とともに、いかなる時でも守り抜く国であろう、と誓いました」という文言なのだから、その「反省」に過去の侵略が含まれていると読めなくもないし、責められたら安倍はそう言い張るつもりなのだろうが、この様な玉虫色の二枚舌ではかえって不信を買うことには、昨今安倍政権に不利なことをほとんど書けない日本の大手メディアでも、さすがに日本経済新聞が社説と朝刊コラム「春秋」の双方で厳しく噛み付いた。

日本経済新聞 4月23日社説 http://www.nikkei.com/article/DGXKZO86031120T20C15A4EA1000/

「玉虫色の表現は国内では通用しても、外国人にもわかってもらえるだろうか。いまのままでは、戦後70年を平穏に終えるのは容易ではあるまい」という社説の結論は、この会議の参加国の多くと今後もビジネスを続けて行くつもりの日本の経済産業界の危機感を、如実に反映したものでもある。

「春秋」の方はさらに手厳しい。

「春秋」4月23日 http://www.nikkei.com/article/DGXKZO86034440T20C15A4MM8000/

「強い者が弱い者を力で振り回すことは断じてあってはならない」という安倍演説に対し、「その精神をぜひこの国でも発揮してほしいのだが、現実はどうだろう。自民党がテレビ局幹部を呼びつける姿。あるいは国会で安保法制を「戦争法案」と呼んだ野党議員に修正を求める姿。ここ数日も、法の支配をはみだして「強い者が弱い者を力で振り回す」という、あってはならないことが繰り返されていなかったか」と、その二枚舌の欺瞞を皮肉たっぷりに指摘している。

だいたい「強い者が弱い者を力で振り回すことは断じてあってはならない。法の支配が、大小に関係なく国家の尊厳を」などと安倍が言ったのは中国を念頭においた牽制のつもりなのだろうが、日本が文字通り「強い者」として無法に「弱い者を力で振り回した」過去に言及しそれを反省した上でなければ言えないはずのことが、まるで他人事なのだ。

こうした地域の日本の占領下では、当時の国際法で定められていた一般市民や捕虜の権利がまったく無視されたことも言うまでもないのに、日本が「法の支配」の代弁者気取り。では「先の大戦の深い反省とともに」とは、いったいなにを反省したつもりなのか?


先日、天皇皇后が戦死者…ではなく「この戦争で亡くなったすべての人」の慰霊の一貫で訪れたパラオ共和国でも、日本風の名を持つ元大統領のクニオ・ナカムラ氏が「忘れてはいけない。我々は忘れてはいないが、許している」と言っている。

両陛下訪問時にほとんどメディアでは触れられなかったが、パラオは戦前戦中の人気マンガ『冒険ダン吉』のモデルとも言われており、最初は国際連盟の委任統治としてこの島々を支配することになった日本が、現地人口の倍近い日本国民を移住させ、現地人を「三等国民」として野蛮人扱いの最下層に置いた過去もある。

ちなみにその際に「二等」だったのは、朝鮮人と沖縄出身者だったという。

「委任統治」とは名ばかりの差別的な同化強要支配を、日本は国際連盟脱退後も続け、その最終局面で、パラオは日本軍とアメリカ軍の最大の激戦地のひとつとなった。

「いや現地人はちゃんと避難させた」と言い張る者もいるようだが、その避難先もまた日本側の軍事施設とみなされ米軍の攻撃を受けて犠牲者も出ているのだし、それ以前にそもそも、自国の戦争のためにパラオ人に避難を強要している。 
その人たちの土地を自国の戦争に巻き込んだ、まさに「強い者が弱い者を力で振り回す」をやった事実も、決して消せるものではない。

「許しているが、忘れてはいない」、それが1955年の第一回からバンドン会議に招かれて来た日本に対する、多くの加盟国の偽らざる立場であり心情でもある。

1980年代以降、次第に中国と韓国が日本政府や日本国内の歴史修正主義的な流れに直接抗議出来るようになったのは、この2国が経済的に発展して力を徐々に着けて来たからに過ぎない。


他の国々は今でも、自国の重大な国益を左右する経済大国であり援助大国でもある日本とその国民に、直接はっきり言うことはやはりはばかられる立場になってしまいがちだし、だいたいこれは中国と韓国でも同じことだが、その国を訪れた日本人に直接戦争の過去を言及することは、客人であったり取引先、出資者、上司や雇用主にもなる相手にはめったにやらない。

大切な人間関係を壊したくないと思うのは当たり前だし、構造的にはどうしても、あちらが遠慮して日本人が一方的に配慮を甘受する関係になりがちだ。 
つまりはコロニアリズム、植民地主義の構造は今でもそれらの国々と我が国の関係に影を落としているし、あちら側はそのことに常に自覚的に行動せざるを得ないが、日本人は配慮される側なので、よほど注意しないと無視・無自覚な傲慢に陥りがちだ。


だからこそバンドン会議での安倍首相の演説には、戦争の謝罪と侵略についての反省がなかったこと以上に大きな問題があるのだが、日本のメディアがそこに気づかないとしたら、かなり危険なことだ。

実際には経済格差がそうとうに激しいアジア・アフリカ会議参加国どうしとはいえ、外交プロトコル上の立場では、だからこそあくまで平等でなければならない。

そもそもバンドン会議は、民族自決権を謳って中国首相の周恩来、インド首相ネルー、インドネシア大統領スカルノ、エジプト大統領のナセルらが開催を提唱し、かつては第三世界諸国会議とも称されたものだ。そんな過去を考えもしなかったのか、安倍はバンドン会議第一回で採択された原則の下に、アジア・アフリカ諸国の「先頭に立ちたい、と決意したのです」と平然と言い放ったのだから、呆れた無自覚の植民地主義、コロニアリズム丸出しである。

反植民地主義こそが、バンドン会議の開催理念だと言うのに。

だがこの演説は、その後がさらに酷い。

なんと安倍はあろうことか、戦後日本がアジア・アフリカ諸国にやって来た援助の類いを恩着せがましく羅列したのだ。


まるで『冒険ダン吉』気取り(南洋の島に流れ着いた日本人少年が  “土人”  を教化してその王様になる話)の最後にとってつけたように「アジア・アフリカはもはや、日本にとって「援助」の対象ではありません。「成長のパートナー」であります」などと言ったところで、「もはや」という時系列の文脈では、そうなれたのは日本の援助のおかげだろう、と恩着せがましく言っているに等しい。


安倍の演説は題名でこそ「多様性」と「共生」を謳っているが、「多様性」と「共生」にあってはならないはずの「先頭」に立つと決意してお前らのために頑張って来たのだ、「お手伝いして来た」のが日本だと恩着せがましく言い張り、しかも将来に渡っての「多様性」と「共生」の必要性の理由として挙げたのは「リスクの共有」、具体的にもっとも強調したのが、今の世界で欧米が熱中しているところの「テロ対策」である。

場をなにも弁えないままにエゴの発散で威張る、「手伝ってやったんだ、守ってやるぞ」と恩を売って「先頭」気取りで自分の父権制的な価値観を一方的に押し付ける、言葉は悪いが、バンドン会議における安倍の演説は「空気の読めないモラハラ親父の自己陶酔と幼稚で自己中な自己正当化(精神的なDV)」と形容するのが、ぴったりに思えて来る。

しかもインドネシア人の歴史認識の喩えを交えていえば、そのモラハラ親父は、かつてのレイプ犯が無反省なまま威張っている構図だ。


それにしても、安倍たちの頭のなかにあるのはいったいどういう共生、どういう多様性なのか?

先頃、参議院で自民党のタレント女性議員と麻生副総理のあいだで「八紘一宇」を称え合う珍妙な会話が交わされたが、安倍の演説のいう「多様性」と「共生」でも「日本が先頭」で、テロを始めとする「リスク」があるから団結しようという論理は、まさに「八紘一宇」の発想そのものでしかないことに、演説原稿を書いた外務省も官邸も、報道している日本のメディアも気づいてすらいないようだ。

「強い者が弱い者を力で振り回すことは断じてあってはならない」と中国を牽制したつもりであるらしい安倍だが、日本が「先頭に立ちたいと決意した」、強い者が弱い者たちの「先頭」に立って守ってやる、「お手伝い」と称して導いてやっている気分でいることと、力で振り回すことのあいだに明確な線引きなぞあろうはずもないこと、それこそが「大東亜共栄圏」の大義名分を掲げた20世紀前半の日本の誤りの根本にあったことに、気づかないのだろうか?

とはいえこのモラハラ親父の勘違いした似非マッチョめいた、無自覚なコロニアリズム、植民地主義の色濃い差蔑的偽善は、我が国では安倍に限った問題でもない。 
安倍の二回目の首相就任からしばらくして問題になった「反韓デモ」の「ヘイトスピーチ」に対抗するという日本人のカウンターと称する運動も、その大勢は「弱い者」と位置づけた在日コリアンを「守ってやる強い者」の立場で、そうした抗議に参加する在日コリアンには決して「自分達に向けられた差蔑と戦う主体性」を許そうとしないコロニアリズム的な同化主義の傾向も色濃い。
そうした「在日の人たちを矢面に立たせるなんて」「かわいそう」「傷つくからいけない」的な「弱い者」扱いのコロニアリズムであれば、安倍政権や自民右派でもある程度は許容できるわけで、今や自民党が「ヘイトスピーチ規制法」を検討し「弱い者を傷つけない、守ってやる正義」に耽溺している。

同じ論理構造が安倍のバンドン演説にも垣間見える。

呆れ果てた植民地主義者の傲慢と言われても仕方がない上に、その同じ傲慢さで過去に大きな過ちを犯したことにはほとんど触れもせず抽象的な語句で曖昧に誤摩化しただけでは、この演説は他の参加国に失礼を通り越して、呆れられるほどのレベルの低さだ

これは「カウンター」の言動を多くの在日コリアンがむしろ侮辱と受け取ったことにも通じるし、その気持ちを押さえ込んで日本人マジョリティに配慮することが、結局は当の在日コリアンに要求されてしまっている。
今まで以上の差別、味方を気取っている側からも差別される恐怖があれば、従わざるを得ないことはほとんど習い症になる。
なにしろ自称「差別に反対」と言っている日本人に、日本がやって来た過去の差別の歴史を指摘することが、「在日を血に染める」というのだから、これでは差別構造の抑圧に差別をして来た側が胡座をかきつつ、自分たちの差別の隠蔽を差別的な立場の強要で隠蔽しているだけだ。

それでも経済大国である日本との関係を守らなければいけない多くの参加国は、なかなか文句が言える立場にはない。

現代の世界の経済・権力構造的に、日本が上位にあることを前提として考えなければ、現実問題として自分達が損や被害をこうむることになりかねないのだから仕方がない。だからこそ、その「上位」にある側こそが配慮しなければならないはずが、安倍は平然と「日本が先頭」と言い張ってしまったのだ。

一方、安倍が勝手にライバル意識でも燃やしているつもりの中国の習近平がAIIB(アジア・インフラ投資銀行)について演説で触れた際には、実際には自国の発案で、その本部が置かれる自国が大きな役割を果たすはずでも、あくまで他の参加国と「共に」と平等性をちゃんと踏まえている。 
どちらが信頼感を持たれるかは、言うまでもない。


そもそも安倍の演説は、他の参加国の立場や国民感情なぞほとんど考えていない。

なにしろ後段で呼びかけたのが、アメリカ主導で進められ、中国が加わる予定のない、TPPへの参加なのだ。

繰り返しになるがバンドン会議はかつては第三世界諸国会議とも呼ばれ、米ソ二大超大国に合せてヨーロッパ諸国が分断した冷戦体制のなか、そうした既存の世界的権力からの自主独立を掲げて始った集まりである。

その第一回で決まった原則を持ち出して侵略行為を否定したつもりでいながら、安倍はその原則が歴史的にどんな意味を持っているのかを考えもせず、参加国に(現状では実際にはそうならざるを得ない面もあるからこそ、建前では決して認められない)アメリカに寄り添った、アメリカへの従属が前提の発展を呼びかけてしまっている。

さんざん「未来志向の外交」と口では言いながら、今回も安倍の演説にはなんの未来の展望もない、現状是認の旧態依然どころか、下手すれば20年以上前に終わった冷戦構造そのままの時代錯誤の発想だ。

しかもこの連帯の会議の場に、わざわざ米中の分断を持ち込んで、その冷戦構造を再現しようとしている様にも見えてしまう。



いや安倍が他の参加国のことをまるで無視するか愚弄しているようにしか見えない演説をやってしまったのも、ある意味当然ではある。

まさにバンドン会議の理念に対する裏切りと言ってしまえばそれまでだが、安倍がこの会議に今回出席したのは、その後に控える訪米でなんとか成果を挙げたいがための準備でしかない。

だからその訪米で「手みやげ」にするつもりのTPPをこうも熱心にセールスし、前段にもテロなどのリスクを挙げながらやはり訪米「手みやげ」予定の集団的自衛権を露骨に示唆した発言が含まれている。

「先の大戦の深い反省とともに」ですら、安倍政権を中心とする歴史修正主義的な言動に露骨な警戒感を示し続けるオバマ政権への妥協と、安倍の支持層というか “オトモダチ” である極右層への配慮を両立させたつもりの玉虫色なのだろう。

この訪米の下準備としてのバンドン会議への参加で、安倍にとっての最大のミッションが習近平との日中首脳会談だったことは、全体の記念写真でホストのジョコ・ウィドドさえ差し置いて必死に習との握手をしようとしていた安倍の姿を見ても、あまりにもあからさまだ。

野田政権の尖閣諸島国有化以降、ひたすら日中関係を悪化させ続けて来た日本政府に対するオバマ政権の目は厳しく、野田前首相が民主党が絶対に勝てない解散総選挙に踏み切ったのは、オバマへの再選お祝いの電話を、オバマに受けてもらえなかった直後だった。つまり野田は、オバマ政権から相手にされないことを事実上の退任勧告と受け取って自滅解散に踏み切ったのだ。

安倍にしても今のままでは、前回のオバマ来日が国賓だったことへの返礼としての公賓扱いで、議会演説まで出来ることになってはいても、肝心のオバマ大統領がろくにその公賓(元首ではない首相にとってもっとも格が高い受け入れ)である安倍を相手にしない、という、前代未聞の恥さらしな結果になりかねない。

日本のメディアは相変わらず、日中首脳会談を受け入れた習近平側の事情をああだこうだと憶測して報じているが、これは日本側がさんざんラブコールを発信し、中国側が日本に貸しを作った形式的な会談でしかない。

このただ安倍がアメリカに「ちゃんと中国に会った」と言えるためだけの会談の席で、習は昨年の首脳会談(というより首脳「面談」に近い内容)以降、日中関係が一応は修復の流れであることを、あえて「両国の努力」とは言わず「両国民の努力」と指摘し、安倍に痛烈な皮肉を飛ばし、中央電視台はさっそく、報道陣を外したあとの会談で習が余裕たっぷりに安倍に歴史認識の問題で釘を刺したことも報じた。


安倍晋三内閣というのはまことに奇妙な内閣で、全体主義的なオトモダチ集団のはずなのに、利害や方針の一致が見られない支離滅裂な動きが変に多い。

首相が外遊先でなんとか自分の立場を誤摩化しの二枚舌で保身に務め、「村山・小泉両談話を全体的に引き継ぐ」と、悔し紛れの「全体的に」という曖昧化の逃げをなんとか混ぜ込みつつも全面降伏と言える発言すらせざるを得なかったというのに、翌日には閣僚が靖国神社の例大祭に参列してしまうのだから、外から見ればあまりに矛盾していて、ますます二枚舌の不誠実を印象づけてしまう。

安倍が悔し涙を飲んで我慢したのか、ひたすら思考停止で習近平と握手することだけに必死になっていたのかまでは分からないが、これではそのせっかくの苦労も元の木阿弥になりかねないのに、参拝した閣僚たちは、前回の会談に引き続き今回も習近平に圧勝された親分のリベンジでもしたつもりなのかも知れぬ。

しかしこんな国内・内輪の論理に引きこもった真似は、本人たちは単に思慮が足らないだけでただの行き当たりばったりの結果だとしても、日経の社説が指摘しているように、ただ国際社会の安倍とその政府に対する不信感を増大させるだけでしかないのだ。


今の日本政府(安倍政権というより、仕事ができない内閣の実務を掌握している霞ヶ関)は恐らく、二重の意味で大きな勘違いをしているし、それは安倍の歴史修正主義に一応は批判的に見える一部の日本のメディアでも同様だ。

過去の戦争の反省と謝罪をきちんと維持し続けることの表明は、中国や韓国ほどの立場では日本にそれを要求することは出来なくとも、バンドン会議に参加したかつての日本の戦争被害国にとっても、やはり重要であるだけではない。

オバマ政権が安倍の歴史修正主義を警戒するのは、日中関係が損なわれることがアメリカの国益にも反するからだけではないし、オバマはただ日中関係の改善と米中関係の盤石化のために安倍の歴史修正主義を牽制しているのでもない。

日本が過去の軍国主義を自己正当化しようとすることを最も許せない国が、他でもないアメリカ合衆国なのである。

オバマ政権にはまだ、広島と長崎への原爆投下を謝罪する用意があるが、安倍が頼みの綱と思い込んでいる共和党の保守系勢力にとってこそ、原爆投下を正しかったと主張し米国の大量核保有を正当化し続けるためにも、日本の軍国主義は絶対悪であり続けなければならないのだ。 
これはほとんど米国という国家の存在理由、国是そのものに関わる問題であって、TPPと集団的自衛権という手みやげ程度で、大目に見てもらえるものではない。

だが今回の安倍のバンドン会議出席の問題の本質は、もっと根深い。

なによりもの問題は、米ソ超大国からの第三世界の自立を掲げて開催されたという伝統を持つこの会議で、安倍がアメリカしか見ていなかった、そのアメリカへの配慮のために中国と話をすることしか考えていなかったという、呆れ果てた不見識にある。

そもそも第一回のバンドン会議の時から、インドのネルー首相は1950年代前半に既に明確に米国中心の西側体制の一員になっていた日本の参加に反対していたし、インドネシアのスカルノ大統領も日本がインドネシアをはじめ東南アジア諸国に及ぼした暴虐の清算を一切していないことから、難色を示していた。 
そうした反対を粘り強く説き伏せて、日本が参加するようにしたのが、中国の周恩来首相である。

アメリカと中国、大国しか見えておらずその対立を煽ればいいと思っていることそれ自体が、日本にとってやはり大切な隣人であり、過去の戦争はあっても戦後はそこに拘ることなく信頼関係をつくって来れたはずの他の参加国への侮辱になるし、結果として現代の日本が陥っている独りよがりな差蔑性まで透けて見えてしまった。

再び日経の社説を引用するならば、「玉虫色の表現は国内では通用しても、外国人にもわかってもらえるだろうか」。

その「外の世界」を見ようともしないのが今の日本だ。政府だけでなく国民も、そこを認識出来なくなったまま、その関心は国内・内輪にしか結局は向いておらず、だから自分たちが非礼だとも気づかずに傲慢で身勝手に振る舞ってしまう。

こうして無自覚に差蔑性満載であることに、日本という国と民族と社会の劣化を見ずには居られまい。



安倍を支持する層が日本の70年前に終わった戦争を正当化する時に持ち出すのは、日本の戦争がアジアを白人支配から解放するためだった、という「大東亜共栄圏」「八紘一宇」の表面上の論理の盲信なのだが、これも壮大な勘違いの歴史誤認でしかない。

日本の国際社会での台頭がアジアの民族主義を勇気づけたことに「大東亜共栄圏」はほとんど関係がない。

欧米植民地主義が支配していた世界のなかで、アジアの国としていち早く日本がその列強に伍する近代的な大国になったことの刺激と影響は、東アジアではもっと以前に起こっていたことで、1920年代には日本は世界に冠たる主導的な大国のひとつだったし、近代中国の建国の父・孫文や、現代の中国国家の立役者・周恩来、中国近代文学の父・魯迅、あるいは朝鮮民族の民族運動初期の英雄安重根など、日本の強い影響は20世紀初頭には既に始まっている。

だがその一方で、安重根が日本の朝鮮総督伊藤博文を暗殺した構図でも明白なように、民族主義の理念と理想の対象としての日本と、そこに矛盾する民族独立を阻む抑圧的な支配者としての現実の日本があって、「大東亜共栄圏」はむしろその後者の方でしかない。


アジアに民族自決の夢を与えたのが日本だというのなら(その面があることは確かに、歴史的な事実だ)、「強い者」が「弱い者」の「先頭」に立つという傲慢が「強い者が弱い者を力で振り回すこと」につながってしまうことに無自覚な彼らには馬耳東風かも知れないが、なればこそ、アジア・アフリカ会議で日本に期待されるリーダーシップとは、その欧米に対抗する(現代の世界の現実ではすでに凌駕しつつある)新たな経済圏を主導することにある。

無論実際には、TPPは安い労働力を武器に出来る一部の東南アジア諸国には有利な面もあるが、その反面、それらの国では急激な経済格差も広がりつつあり、安定した成長を続けながらより公平で民主的な社会への脱皮が可能かどうかが、この会議の参加国にとって重要な政治課題でもある。

その平和的な発展のお手本としてそれらの国々が見ているのが、戦後、武力に頼ることなく奇跡の復興を遂げた日本であり、だからこそなるべく過去の侵略の歴史はなるべく口にしないのだ。

安倍たちはそうした国々を「親日国」だという、その認識自体は間違っていない(日本は確かに憧れと親愛の対象だ。ただしそれは中国でも韓国でも同じ)が、彼らが見て親しみを感じている「日本」とは、大衆文化でいえば『おしん』と『ドラえもん』、あるいは『一休さん』の日本であって、『冒険ダン吉』の王様を日本に期待などしていないし、まして日本の対アメリカのご機嫌伺いのために自分達の会議を利用されるわけにはいかない。

より現実的に言えば、これからのバンドン会議の多くの参加国の課題は、米国、中国、日本という既存の巨大経済のあいだでいかにバランスをとりつつ、自国の独立性を保ちながらその経済力を自国の成長に取り込んで行くかだ。

中国の急成長に嫉妬しながらアメリカと結びつきその属国であろうとする安倍の日本が、その「先頭」に立とうとしたところで、お門ちがいも甚だしいし、アジアの歴史に果たして来た日本の大きな役割をまったく尊重していないのは、あまりに無様な自信喪失であり、自虐的だし卑屈だ。

植民地主義、コロニアリズムは、既に現代の世界では邪魔にしかならない19世紀の遺産だ。ヨーロッパやアメリカは20世紀以降なんとかその思想的な誤りからの脱皮と過去の清算に務めようとして来たが、ことヨーロッパはそれをなし遂げられないで来たまま没落を始めている。急激な右傾化もそのうまくいかないフラストレーションの反動であり、その動きはヨーロッパの混乱と頽廃をより加速させることだろう。

そこにとって代わる新たな価値の創造の中心として、日本が果たせる役割は本来なら大きいはずだし、それを期待もされているはずが、安倍政権の外交はあらゆる意味で時代錯誤でしかない。

2/07/2015

イスラム国による人質事件の真相


ヨルダンが日本に巻き込まれる展開になったイスラム国人質事件は、巻き込んだ側の日本がイスラム国の巧妙な心理戦で完全に蚊帳の外に置かれたまま後藤健二氏が殺害されるに至ったが、今度はヨルダンのアブドラ国王が訪米中(日本の圧力とはいえ、「テロリストとの取引」に応じかけたのを気にしたのだろうか?)に、昨年12月24日以来イスラム国の捕虜となっていたヨルダン空軍のカサースベ中尉が、アメリカの言いなりで同じアラブ人のムスリムを空爆した(つまり焼き殺した)罰を受け、自らも焼き殺された、という筋立てのビデオが公開されるに至った。

後藤氏殺害映像の後は、今度はイスラム国は中尉が米軍の空襲で殺されたと発表するのでは、と言うのが僕の予想だったのが、さすがに想定外の結末は、はるかに凄惨だった。しかもこのビデオは、どうも予め入念に準備されていたらしいことが、その凝った演出を見ても明らかで、およそヨルダンとイスラム国の人質交換交渉が決裂した1月29日からの数日間だけで準備出来るものには見えない。

そしてヨルダン政府は、中尉はすでに1月3日に殺害されていたと発表した(根拠は今のところ明らかにしていない)。

このヨルダン政府の発表が事実であれば、イスラム国の要求に日本がヨルダンを巻き込んでしまってからの展開は、中尉が最初から亡くなっていた前提で、一から検討し直す必要があるだろう。

現時点では、日本をはじめ海外メディアの取材でも、ヨルダン国営放送でも、ヨルダンの人たちは「焼き殺すなんてイスラムに反する」と言った程度のコメントしかしていない(出来ない)が、イスラム国の出したビデオの実際のロジックには、教義的にほぼ完全な整合性がある。

ビデオはアラブの同胞であるスンニ派ムスリムをアメリカに命じられた空爆で焼き殺した中尉が、その罰として同じ目に遭う、かつ呪われた罪人が神に焼き殺されるべきであるから、正統カリーフを名乗るイスラム国が代わりに焼き殺した、神罰だ、という構成になっている。

実際に、ヨルダン空軍も参加している有志連合の空爆は、イスラム国支配地域で生活している普通のアラブ人も焼き殺している現実がある(国際メディアは一致して無視しているが)。中尉はその罪をまず告白し、自分たちがやった空爆で破壊された場所を見て、そして自分が落とした爆弾の犠牲者と同じように(目には目を、の同罰賠償原則に従って)殺される。

ヨルダン人を始め、アラブ人のなかには、このビデオのメッセージ性をただ「残虐」とだけ受け取っているわけではない人も、決して少なくないだろう。なるほど、イスラム教では遺体を焼くことですら基本はタブーだが(とはいえ火葬をする国や地域だってある)、それは「焼き殺す」ことが、「神」が「罪人を」に限られるからだ。

中尉が焼き殺されたのはただ「残虐」なだけではなく、また「死者に対して侮辱的」とのみみなされるわけでもない。一方では「神罰」の意味も持っているのだ。

神学的に唯一問題なのは、神でなく人である彼らが神に反した「罪人」を焼き殺したことが、人が神の領域を犯した冒涜になるかどうかだけというのが、あくまで理屈ではそうなる。

あくまで理屈では…というのは言い換えれば、理論的にはそうなっても、敬虔な宗教者の感覚で至れるロジックでもあるまい。このビデオの製作者はイスラムの教義を旧約聖書からコーランまで、知識と教養として熟知してはいるが、心から信仰しているわけではないように思われる。

イスラム国はその名称から宗教原理主義の運動と受け取られがちだし、その前身がイラクの聖戦アルカイーダだったとなれば、ますます「狂信的なテロリスト」の印象を一般には持たれるのだろうが、今はアルカイーダとも訣別しているイスラム国において、宗教支配は実際にはひとつの「いいわけ」でしかないのではないか?

むしろイスラム国を宗教原理主義に基づく過激派だとみなすのは、恐らくあまり正確な認識ではない。理屈では宗教的に整合性はあるが、感覚的には敬虔な人ほど受け入れ難いこのビデオを構成している論理にも、それは現れているように思える。

この「建国運動」を実際に動かしている中枢の権力構造は、 旧フセイン政権つまりイラク・バース党の残党であり、アメリカのイラク戦争とその庇護で成立したマリク政権に追われた元官僚、元政治家、元軍人たちが掌握している。バース党運動は元々、非宗教・世俗主義のアラブ民族主義運動だ。その主張は汎アラブ主義であると同時に反ヨーロッパ、反植民地主義、湾岸戦争後には明確に反米も加わり、たとえば具体的には第一次大戦中に英仏が交わしたサイクス=ピコ密約(英国が支援したはずのアラブ独立運動を裏切った二枚舌外交である)に基づく現状の打破という主張は、そのままイスラム国に引き継がれている。

この点で、イスラム国を「テロリストだ」「過激派だ」というレッテルで見くびるのは根本的に間違っているし、危険な傲慢さでさえある。イラクは英国の決めた国境線の不合理で、民族や宗派宗教が複雑に入り組んだ人口構成ゆえにほとんど統治不能とも言わる国だし、現に今や完全に破綻国家になってしまっているが、その国を数十年に渡り、民族や宗派間の勢力バランスを巧妙に利用して統治してきた「独裁」が、サダム・フセイン政権だった。

イスラム国にはその政権を支えた戦略や方法論、奸智までがそのまま引き継がれていると考えた方がいい。

なにしろイスラム国の支配地域には報道が入ることがかなり難しく、全体像は分かりにくいとはいえ、倫理警察や宗教裁判、さらには公開処刑も駆使した恐怖政治の一方で、配給など民生部門を充実させる統治手法は、警察国家であったと同時に社会の平等性に配慮して福祉などは重視し、湾岸戦争後の経済封鎖の下では配給を充実させ、民衆の人気も集めていたイラク・バース党の手法を、そのまま踏襲しているようだ。

相手を「野蛮なテロリスト」だと見くびっていた日本政府が、この人質事件を通じて一貫してただ翻弄されただけたったのも無理はない。相手は独裁体制の統治に極度に習熟し、人心操作には経験豊富であるだけでなく、外交や謀略、心理戦や情報戦にかけても、そして戦争についても、プロ中のプロの、狡猾で有能な官僚や軍人の集団なのだ。

ヨルダン政府の発表を信用するなら、その彼らは1月3日までにはこのカサースベ中尉殺害の映像を撮影し、凝った編集や特殊効果を加えつつ、最適の発表のタイミングを待っていたことになる。いやこの明瞭なメッセージ性を持ったシナリオの準備から考えれば、中尉を捕縛した時点ですでにこのビデオの製作は動き始めていたのかも知れない。

ちなみに一般にメディアでは中尉が捕縛された時点の姿として報道されて来た写真は、実際には空爆の被災地を見るよう強要されている写真だそうだ。

カサースベ中尉殺害が明らかになったのを受けて、ヨルダン政府が即座にその死を1月3日だったと公表したのは、ひとつには後藤氏の殺害後に中尉も殺されたとなると、いかに多額の援助を受けて来たとはいえ、いやだからこそその札ビラで恩を着せた傲岸不遜な日本政府の言いなりになって奔走し、最後の最後で国のプライドを前面に押し出し中尉の安否確認を優先させて死刑囚を釈放しなかった結果、逆に中尉まで死なせたアブドラ国王の、かなりだらしなく、行き当たりばったりにしか見えなかったやり方が、国民の不信を買いかねないからでもあろう。

ヨルダンは、民主主義の国だとはおよそ言い難い。

歴史的に交通の要衝で、イスラエル独立後は多くのパレスティナ人も受け入れて来たこの国は、様々な部族が入り交じり、およそ強固な団結や政権基盤があるとは言い難い。権力の基盤が弱いからこそ言論の自由を担保できず、大っぴらには政府を批判する言説が口にされることが珍しい一方で、国民はアメリカの言いなりになる政府や国王を本音では「しょうがない」とは思いつつも、ほとんど信頼していない。

そんなヨルダンで既に、まだ散発的とはいえ政府批判のデモや暴動が起きている現実は、日本や欧米のメディアが「ヨルダン国民がイスラム国に怒っている」と一生懸命に自分たちに都合良く報じていることよりも、はるかに意味が重い。たとえばカサースベ中尉の出身地ですでに警察署が怒った民衆に焼き討ちされたりしているのだ。

いや一見、政府と国王を支持しイスラム国に復讐を誓うように見えるデモでさえ、国民のあいだにたまった不満が噴出しているそのハケ口に、今は形だけ政府支持の看板を掲げているだけだとみなすぐらいの慎重さも、今はむしろ賢明に思える。

やがてはこの「殺害ビデオ」が実際には「天罰ビデオ」であることも、じわじわヨルダン世論に効いて来るかも知れない。

少なくとも、ここまであからさまなメッセージ性に目をつぶって、ただイスラム国は残虐だ、残虐だと舞い上がりながら、ヨルダンで日本が引き起こしてしまったことの結果に、自分たちに都合のいい楽天的な解釈だけを当てはめることは、およそ賢いことではない。

この際、日本ではしっかり冷静に反省すべきことがある。

果たして日本を含む世界のメディアや、日本政府は、イスラム国の狙いや意図を正確に把握した上で論評したり、対策を練ったりすることが出来ていたのだろうか?

結果から見れば、事実はまったくの真逆だ。

まず最初の脅迫ビデオから、中身をよく見れば身代金要求声明だと断ずるのは難しい内容だった。あくまで安倍がカイロで「イスラム国と戦う国に2億ドル」と演説したことを、ムスリムの家を焼きムスリムを殺すための2億ドルと断じ、その2億ドルは自国民二人(湯川氏、後藤氏)に使え、と迫っているだけで、自分たちに払えとなどは一言も言っていない。

なのに政府もメディアも身代金要求だと思い込んで、そう断言した前提でしか予測や推論が出来ていなかった。

身代金の支払いに関しては、日本政府の立場からすれば絶対に公言は出来ないことであり、メディアが配慮して報道を控えたのも当然とはいえ、後藤さんの同僚や仲間でもあったフリージャーナリストを中心に、本当に日本政府には身代金を払う気がないのだと思い込み、身代金交渉の仲介をおおっぴらに申し出た人も出て来たり、猛然と批判やデモまで始めた者までいたのも、まったくの勘違いであり世間知らず・国際常識無視の間違いだった(よくこれでジャーナリストが務まるもんだ)。そもそもそれ以前にイスラム国には身代金など最初から興味はまったくなかった点で事実誤認でしかなく、一方で日本政府の方こそ、ここで人質を殺されては政府の支持率が下がるのを恐れ、なんとしてでも身代金を払って解決しようとしていた。

イスラム国が要求は身代金でないと確認(要求を変えたのではなく、誤解をといただけ)し、改めてリシャウィ死刑囚の釈放を要求すると、今度はこの死刑囚がイスラム国にとって重要な同志であるテロリストだから救いたいのだ、とテレビに出る「識者」たちや新聞報道は言い続けた。

結果からすれば、これも完全な間違いだった。

むしろイスラム国は、ヨルダンが報復として彼女を即座に処刑せざるを得ないほどの強烈なメッセージ・ビデオを最初から準備していた(つまり彼女の生死は最初からどうでも良かったのだ)。

つまりイスラム国の目的は最初から身代金でもなかったし、「同志」である爆弾テロ実行犯生残りを釈放させて救出することでもなかった。

日本への脅迫はひたすら日本政府をキリキリ舞いさせ、愚弄し、もてあそび、要するに安倍首相を徹底的にバカにすること、ヨルダンが巻き込まれて以降はひたすらヨルダンの国民感情を刺激してヨルダン政府を追いつめることが目的だったのだ。

こんなのは最初から、冷静に考えればすぐに気づいたはずのことだ。こういうと自慢めいて聴こえてしまうだろうが、現に僕は事件の顕在化当初から、一貫してそう指摘し続けている。

なのになぜメディアに登場する識者の皆さんまで、まったく見当違いのことを言い続けたのだろう?

少なくとも自分たちがなぜまったく間違った分析(というか露骨な偏向報道)に固執してしまったのか、政府の対応だけでなくメディアの在り方、世論の動きも、この際冷静に再検証しなければなるまい。

それも出来ないようでは、安倍首相が言い張っているような「テロと断固と戦う」「屈しない」「許せない」「償わせる」、そんな全てが日本国内の内輪で響き合うだけの空虚なかけ声にしかならず、かえってイスラム国の仕掛ける巧妙な心理戦の術中にどんどん嵌って行くだけだ。

ところでヨルダン政府がカサースベ中尉の死を1月3日だと言っていることに関連して、日本側の動きについてどうしても考えなければならないことがある。

外務省からの最近のリークによれば、政府と首相官邸が対策本部をアンマンに置くことに合意したのは、カサースベ中尉とリシャウィ死刑囚の交換交渉があったのを知っていて、ヨルダン政府の持っているパイプを利用できるのではと考えたから、と言うのだ。

にわかには信じ難い話である。

ヨルダン自体が中近東のいわば「ふきだまり」、スエズ運河が出来る以前は地中海から紅海に抜けるほぼ唯一のルートであった海のシルクロードの重要な港アカバもあり、アンマンはエルサレムにもダマスカスにもバグダッドにも古代から街道で繋がっている交通と交易の要衝だった。現在のヨルダンはイスラエルとすら国交のある全方位外交の国でもあり、その首都アンマンでは中近東の各国政府の諜報機関だけでなく非合法組織を含む様々な組織・運動体の人間が入り混じり、イスラエルのモサドさえ出入りするいわば「スパイ天国」になっている。だからこのような事件の現地対策本部を置くならアンマンというのが常識だ。

ところが内閣と官邸では、どうもトルコと結んでアンカラの駐トルコ大使館に対策本部を置くべきだ(トルコは「親日国家」だから、とか?)という意見が強かったらしい。トルコ諜報部はイスラム国とのパイプを持つと噂され、以前には自国の領事館員49名を解放させた実績もあるとはいえ、アンカラにいれば入って来る情報はトルコ政府が日本に供与しようとしたものに偏って限定されてしまい、完全におんぶに抱っこになってしまう。だいたいトルコ政府が日本に協力しないと判断すれば、なんの情報も入って来ずまったくのお手上げだ。

官邸が本当にそんなアンカラ案を主張したのだとしたら、「特定秘密保護法」まで決めたはずのこの人たちは、スパイについても国家の機密情報についてもあまりにもド素人でなにも分かっていない。 
彼らの無知なのに呆れるほどの暢気な傲慢さは、国家を危機に晒しかねない。

外務省の中東担当部署からすれば、常識的にアンマンが対策本部を置く最適地と判断するはずが、国会での安倍首相の答弁を聞いて耳を疑った。首相はトルコの大使館(つまりアンカラ)の選択肢にも言及した上で、「ヨルダン軍の高い情報収集力」を信頼してアンマンと判断した、というのだ。

そうなると、日本が最初からヨルダン政府とイスラム国のあいだに一応あった、捕虜となったカサースベ中尉と自爆テロ事件生残りの死刑囚リシャウィの交換交渉を、いわば乗っ取るか横取りする狙いでアンマンに対策本部を置いたのだ、という普通なら冗談にしか思えない、およそ現実性に欠如した与太話に見えたことも、がぜん信憑性を帯びて来る。

安倍首相が外交や国際政治、安全保障の常識から乖離した “不思議ちゃん” の面目躍如で「ヨルダン軍の高い情報収集能力」と言ったのは、このヨルダンが抱えていた人質交渉を差した発言以外には考えられない(「ヨルダン軍の高い情報収集力」ってなんだよそれ?タチの悪い冗談か?)

いやそうは言っても、日本の政府がいくらなんでも、ヨルダン軍将校よりも日本人の人命優先だと言わんばかりにヨルダンに協力を迫るほど傲慢であこぎだったとは考えたくないのだが、このリーク内容が事実だとすれば、イスラム国がリシャウィ死刑囚との交換をいきなり出して来たという、どこから出て来た発想か分からずあまりに突拍子もなかった展開も、確かに辻褄は合うのだ。

日本政府が最初から身代金支払いの仲介を探してアンマンで奔走していたのは確かだ。日本政府はもちろん認めない(これは当たり前のことなので政府を責めるには値しない)し、日本のメディアもほとんど報道しなかったが、最初の72時間の期限内に安倍は英国との電話首脳会談でキャメロン首相に直接「身代金を払うべきでない」と牽制されたことはその英国政府がメディアに明かしているし、米国のケネディ駐日大使は公式に日本政府にそう申し入れをし、安倍はオバマとの電話首脳会談でも釘を刺されている。日本に身代金を払う気配がなければ、かくもおおっぴらに日本政府に圧力をかけ牽制を諮るなんて非礼な真似は、英国だって米国だって曲がりなりにも主権国家相手にやりはしない。

そして後藤氏殺害後、ヨルダン下院の外交委員長が日本のメディアの取材に応じ、安倍政権が見殺しにしたのではないかという憶測の批判に対する日本政府擁護の親切心から、日本側がほんとうに一生懸命で、身代金ももちろん準備していたことを明かしてくれている。

だいたいイスラム国側が日本をあざ笑うかのように出した第二の声明で、身代金が目当てなどではないと明言した上で、ヨルダンの死刑囚の釈放という、普通の外交常識では無理難題に過ぎる条件をぶつけて愚弄して来たのも、日本が身代金を払うつもりだったことが前提でないとなかなか出て来ない発想だ。

いやもう、こうなると安倍首相はひたすら、イスラム国にしてみれば、お手軽な玩具扱いだったのだろう。

このあまりに突拍子もない条件には、日本側が驚きパニックになったのもある程度はやむを得まい(逆に言えば「バカにされていた」だけだと気づく人もいた)。

それだけ意表を突き、しかも無理かつ無茶苦茶な話ではあるが、だからこそ、この人質を用いた脅迫の心理戦におけるイスラム国の動機であり目的が、とにかくカイロで妙に自慢げにイスラム国敵視を演説した安倍を徹底的にバカにすることであった以上、その狙いには完璧だったと納得はできる。

しかしそれでも、この途方もなく意表を突いた発想はどこから出て来たのか、さすがによく分からなかった。

だが日本政府がかなり初期(当初の交渉期限72時間以内に)から、ヨルダン政府にカサースベ中尉よりも日本人二人をリシャウィ死刑囚と交換しろ、と水面下で迫っていたとしたら、イスラム国がそのリシャウィ死刑囚と後藤さんの交換をいきなり言い出し、その時点で湯川さんを殺していた理由も、すべて辻褄が合う。

つまりイスラム国にその情報は当然ながら筒抜けになっていて(アンマンだと言うのにいったい何をやっていたんだか)、ヨルダンの軍人より日本人を優先しろと迫っていた日本政府の非人道っぷりを懲らしめるために、わざと他国の死刑囚を釈放しろ、つまりは他国の主権を侵害しろと無理難題を押しつけ、しかも「そんなに人質交換が望みなら、一対一の交換だったら応じてやろう」と言わんばかりに、菅官房長官などとも関係があった(民間軍事会社を夢見て自民右派との支援もあった)湯川氏の方をあえて殺し、後藤氏一人だけを残したのだ。

どうせ国際的にはすでにバカ右翼と皆が承知済みの安倍晋三首相を、この際徹底して愚弄するための、極めて効果的な心理戦の攻撃のひとつだったのだ。

すでに別の場所で詳細に論じたことだがこの時点以降、少なくともおおやけになる場では、日本政府は「いかに日本人の命が懸かっているとはいえ、テロリストの要求に応じてヨルダンの主権を侵害することは出来ない」と引き下がるべきだった。間違っても「全力を尽くしている」アピールなんてするべきではなかった。

それが外交、国際政治の常識であり、最低限のルールだった。
安倍氏は国民の失望と支持率低下を覚悟してでも、すべてはヨルダン政府に任せるしかない、自分にはもうなにも出来ない、と宣言するべきだったのだ。

日本政府がそうやって下手に出ていれば、水面下ではいかに強圧的な交渉をやっていうようが秘密さえ厳守していれば、アブドラ国王の面目は保たれ、国王の(「イスラム教徒としての慈悲」でも「日本との友情」でも、どんな名目でもいいが、要は国王とヨルダン政府の主体的な意思としての)人道的な配慮に基づき、リシャウィ死刑囚を釈放して後藤健二氏を救出する、と言うこともまだ出来なくもなかったし、ヨルダン国民からもそこまで不満は出なかっただろう。

他国の圧力、それも経済大国の金をちらつかせた圧力に屈するのなら、それはヨルダン国民にとっては恥辱でしかない。 
だが王自らが慈悲や人道を考慮してあえて、というのならそれはヨルダンの名誉になったのだ。

カサースベ中尉がイスラム国支配地域に不時着して捕虜になったのは昨年のクリスマス、その中尉とリシャウィ死刑囚の交換という話はすぐに出て来ていたはずだが、そのまま止まっていたのは、ヨルダン政府がどうもあまり乗り気でない、国民の感心が低かったからだと言われていたのだが、ヨルダン政府がすでに中尉が亡くなっているとみなしていたのなら、積極的でなかったのも無理はない(なのにその話に飛びついたつもりでアンマンに対策本部を置くと決めたのが安倍晋三だった、ということになる)。

それがいきなりカサースベ中尉が「ヨルダン国民の息子」「英雄」となったのは、日本の政府の露骨な圧力に、日本のメディアまでが同調してヨルダンへのこれまでの経済援助額を報道したりしたその上に、中尉と後藤健二氏に対してリシャウィ死刑囚という二対一の人質交換案まで、日本政府がメディアにリークしてしまったからだ。

もちろんこちらの側から勝手に「二対一」とか言って相手側が乗る保証なぞまったくないし、ならば「日本人のジャーナリストなら我々のパイロットが先だ」とヨルダン国民の関心がにわかに高まったのは、経済援助をカタに恩着せがましく迫った日本側への反発も含めて、当然のことだ。

安倍政権はよせばいいのにいたずらにアブドラ国王(もともと決して人気のある王様ではない)を追いつめ、まだ少しは残っていた後藤健二氏の救出の可能性を自らぶっ潰してしまったことになるのだが、しかも日本人人質事件が発生した時点でカサースベ中尉が既に亡くなっていて、ヨルダン政府がこの時点ですでに知っていながら公表できないままだったとすると、ますます持って日本政府のやってしまったことは、とんでもない見当違いだった。

言うまでもなく、よほどの信頼関係がない限り、そんな情報をヨルダンは日本に提供できなかったはずだし、日本政府はまったく知らなかったからこそ、無神経にもヨルダンに「要請している」と大っぴらに繰り返したのだろう。

リシャウィ死刑囚との交換という交渉の最終段階でヨルダン政府が態度を頑にし、まず中尉の生存確認がない限り死刑囚は動かさない、と言い張ったのも、中尉が実は死んでいるという情報をヨルダン政府が把握していたのならば、一層のこと筋は通る。

すでに亡くなっているのなら強硬姿勢に反発してイスラム国が中尉を殺すというリスクはもはやないのだし、中尉が亡くなっていると公表するタイミングを逸していた以上、そのことをイスラム国側に発表させた上で、涙を呑んで後藤氏のために死刑囚を、とやるのでもない限り、後藤さんを救うにもヨルダン政府にはそれが出来る立場がなく、国民から猛烈な反発を買い、暴動や政府転覆にさえつながりかねない。

まさにそれこそが、なんと安倍政権が本気で、それもオープンなチャンネルで、メディアに向かってペラペラと、ヨルダン政府に圧力をかけていることを、それも繰り返し公言し始めてしまった時点で、明らかにイスラム国側がこの人質事件の狙いと定めたことでもあった。

ヨルダン世論に揺さぶりをかけ、ヨルダン政府の立場を危うくし、有志連合から脱落を余儀なくさせること、ヨルダン国内に自分たちへの支持勢力とまでは言わずとも、現政府への批判層を増やすことだ。

繰り返すがイスラム国は「イスラム教統治の国家」樹立を目指す宗教の運動ではない。汎アラブ主義、民族主義の政治運動であり、明確に反米、反欧州、反植民地主義の武装独立闘争だ。賛同者を増やすのはアッラーと預言者ムハンマド(とその後継カリフを称するバクダディ)への忠誠では実はなく、それこそサイクス=ピコ密約以来ずっと西洋がアラブ人をいいように弄んで来たことへのアラブ人全般からの不満と反発であり、その欧米列強に対する以上に、半ばその欧米のいわば植民地代理政府として国民をむしろ抑圧して来たアラブ諸国の政府への批判と攻撃であり、民主的な手段によってアラブ民衆の主体性を取り戻そうとした「アラブの春」を欧米が結局は潰しにかかって、結果として元から不安定だったイラク戦争以降の中近東の、さらに極端な不安定化を招いてしまった現状があるとき、暴力や威嚇を手段に用いることをただ「暴力反対」や「人命の尊重」でそれを否定することに、あまり説得力はない。

イスラム教スンニ派の教義解釈で高い権威があると言われるアズハルがイスラム国を弾劾したからと言って、エジプトにあるこの機関の見解をそう素直に受ける人は、日本人が思い込まされているほど多くはないだろう。

なにしろそのエジプトはアラブの春の人間の尊厳の革命を潰した軍政の下にあり、この日本人人質事件が起こる直前にはムバラク元大統領を無罪放免にし、カサースベ中尉殺害映像の公表の前日には183人ものムスリム同胞団メンバーに一度に死刑判決を出している。アズハルは最高指導者がそのエジプト軍事独裁体制の大臣である組織だ。

日本人人質事件の最中にもイスラム国系の武装集団エルサレムのアンサール団がシナイ半島でエジプトの軍・警察施設を襲撃し、30人以上を殺害している。

このすべてが彼らにとっては独立・建国・領土拡張(国土回復)の戦争であることを見落としては、対策もなにも建てようがない。みすみすその挑発と心理戦に弄ばれるだけだ。

だから「日本の悪夢が始る」と宣言されたからと言って、日本がテロ対策に狂奔する必要は、まだほとんどないとも言える。アルカイーダと違ってイスラム国の目的は国家建設であり、こんなに離れイスラムの国でもない日本本土を攻撃するメリットはまずない。 
逆に「テロを水際で防ぐ」と称してアラブ系の人への入国審査を厳格にしたり、警察が重点的に職務質問を始めたりすることが、これまで先進国のなかでは日本をある意味いちばん信頼して来た人たちに、日本への不満や反発を持たせ、欧州諸国がほとんどパラノイアにさえ陥っているホームグロウン・テロリストが日本でも産まれてしまうことにさえ繋がるかも知れない。

アラブ世界の政治的な混沌と破綻の諸悪の元凶サイクス=ピコ密約を妥協して受け入れたメッカのファイサル皇太子、後の初代シリア国王にして初代イラク国王にもなり、絶望と後悔に苛まれ死んだと言われるファイサル一世と同じハシーム家の王朝で、自らも不安定な国境線と脆弱な政権基盤からアメリカやイギリスの言いなりになって来た感が強いのが、他ならぬヨルダン王家である。

つまりはイスラム国の政治的理念からして、もっとも狙われ易い政府のひとつでもある。

結果からすれば‪安倍晋三‬の日本政府は、その無責任体質と分不相応な妙な目立とう精神(人質事件の関係閣僚会議に冒頭で記者とテレビカメラを入れるなんて非常識にも程がある)、そして外交常識すら知らず現実的な計算もなにも出来ない無能っぷりから来る稚拙な失策の連続の結果、イスラム国がカサースベ中尉の殺害映像を公表するのにもっとも効果的なタイミングまで、単に首相が支持率の低下と自分の誤りを認めたくない意地っぱりだけが動機の、度を越した非常識とわがままで提供してしまったことになる。

日本政府が中尉とリシャウイ死刑囚の交換交渉に割り込まなければ、中尉が捕虜になっていたこと自体ヨルダンでそんなに注目もされていなかった。だからこそイスラム国は、カサースベ中尉の死をもっとも効果的に使えるタイミングを今まで探っていたし、あわよくば自ら演出する気で準備していた。そのタイミングを、日本政府の人質事件に対する「対応(になってない)」が作り出してしまったのだ。

ヨルダン国王訪米を狙った、それも国王は当初オバマに会ってもらえる予定ではなかったというのだから、恐るべき奸智に満ちたタイミング設定だった。オバマはこんなことが起これば当然国王と急遽会談するが、その結果アブドラ国王の「米国の飼い犬」っぷりはますます印象づけられる。

追いつめられたヨルダン政府は、今はカサースベ中尉の死への復讐・報復を謳い、反イスラム国でなんとか国内をまとめようとしている。

だがイスラム国そのものは決して支持しないヨルダン国民でも、アメリカ相手にせよ、今度は日本相手にせよ、先進国に対してあまりに弱腰で卑屈な態度しかとれない国王と政府が、いかにイスラム国との対決という大義名分があろうが、実際には同じスンニ派ムスリム…いやなによりも同じアラブ人の一般市民も焼き殺している現実は、決して心から支持できるものではない。その当然ではある批判や不満を「テロリストを支持」として押さえ込もうとするのは、場合によっては火に油を注ぐことになりかねない。

しかも反イスラム国を半ば国内引き締めのため、半ば欧米列強への配慮で主張せざるを得ない現段階のヨルダン政府は、イラク軍つまりスンニ派を弾圧し虐殺までして来たシーア派のマリキ政権との共同歩調まで言い出してしまっている。 
いわゆる国際メディア(つまり欧米)はほとんど報じなくとも、ヨルダンの人たちはイスラム国の一方で、マリキ政権下のイラクがどうなっているのかも知っているのだ。

これは英国の委任統治領からの独立を許されて以来のヨルダンという国が歩んで来た、多分に屈辱的でもあった歴史への不満にも、そこから発する王制そのものへの批判にも、いずれ結びつくのかも知れない。少なくともそれこそが、イスラム国が本当に狙っていることであることは、カサースベ中尉の殺害を伝えるビデオを見れば明瞭に現れている。

「残虐で野蛮なテロリスト」とイスラム国を侮るだけで済ます限りは、我々の側の国内や、せいぜいが有志連合の内輪に引きこもった自己満足でしかない現実が、この殺害ビデオで改めて突きつけられたことだけは確かだ。

1/25/2015

イスラム国と日本と「身代金」と


イスラム国による日本人二人人質事件は、‪期限の72時間が虚しく経過したところで、安倍‬首相がどうも本気で身代金を払いたがっていそうな展開らしい。

記者の質問に副総理の麻生太郎氏は苦虫を潰した顔で「聞いてくれるな」と言わんばかりだし、アメリカとイギリスは露骨に警戒し、アメリカは国務省も大使館も露骨に牽制発言を繰り返し、イギリスに至っては電話首脳会談の内容を(外交ルールに反してまで)リークして、安倍の日本政府に釘を刺そうとしている。

その「テロと断固戦う」側のすったもんだをあざ笑うかのように、イスラム国は湯川氏が殺害されたらしいと思わせる、湯川氏の遺体と見える写真を後藤氏に持たせた動画を公開した。どんなに安倍が口先だけは「許し難い暴挙」と言ったところで、これで後藤氏まで殺害、となればその安倍がなにをやり始めるのか、想像もつかない。

日本政府はいわば、自分で自分を追いつめてしまっていて、イスラム国側はそれを利用している。こと安倍氏自身の困った性格は、そんなイスラム国側の情報心理戦にみごとつけ込まれている。

そもそも後藤・湯川両氏は数ヶ月以上イスラム国に拘束されてはいても、特段の迫った生命の危機にはなかった(イスラム国では宗教裁判とはいえちゃんと裁判をする手続きをやろうとしていた)状態だった。それが、突然殺害予告の脅迫ビデオが出る事態の急展開は、安倍首相が中東歴訪中にイスラム国敵視を公言してしまったからこそ起きた

だが日本のメディアはその安倍氏の稚拙な外交的失態から国民の目を逸らそうと、イスラム国が残虐な「テロ組織」で「過激派」だと強調する一方で、二人の被害者のうち一人、フリー・ジャーナリストの後藤健二氏を一生懸命美化して来てしまった。

紛争地の子どもたちの境遇に胸を痛め、それを日本に伝えて来たジャーナリストとして氏を賞賛すればするほど、政府が後藤健二氏を救出しない(出来なかった、という以上にそもそも最初はやる気がなかった)で見殺しにしてしまえば、もはや安倍政権の浮沈に関わりかねない。

日本が機密費でこっそりと身代金を拠出すること自体は、政府の内部で当然検討されていてしかるべき選択肢だし、あくまで極秘裏を貫く限りはそう非難されるべきことでもない。外交、安全保障とはそういうものだし、だからこそ国家機密を守らなければならないのだ。過去には小渕首相が身代金提供を決断して人質を解放させた(そして徹底して秘密は守った・最近鈴木宗男氏がやっと明かした)事例だってある。

ダッカ事件で日本政府が取引に応じたことも、間違いだと一方的に叩かれているのは日本国内だけだ。

「テロ組織と取引はしない」ことは、確かに国連安保理の決議にもなってはいる。

しかしそれもまたタテマエに過ぎず、国家にとってもっとも大切なのはやはり、目の前で命の危機に晒されている自国民であり、完全に秘密を守るか、その政府が公には「身代金なんて絶対に払っていない」と言い続ける限りは無視するのが、国際社会の紳士協定のようなものなのだ。

それでも今、アメリカやイギリスがあからさまに牽制までするほどに本気で危惧しているのは(そしてそういう常識が一応は分かっている麻生太郎氏もえらく心配していそうなのは)、なにしろ安倍晋三のことだから自分の手柄にしたい、とにかく威張りたい、内外から浴びている批判に対抗したいだけで、「私の決断で後藤さんの命を」とか、おおっぴらに言い出しかねないことだろう。

外交が実際には国益や国際社会の信義、ないし利害よりも、国内世論への対応で左右されるのも、これまたどこでもある話ではある。とはいっても安倍政権の場合はそれが極端過ぎる、すべてが国内向け人気取りにしかなっていないどころか、首相の子どもじみた自慢や、首相とその周囲のごく一部の人たちのご機嫌取りだかのために、外交が左右されてしまうことがあまりに多いのは、由々しき問題だ。

実際、この人質事件にしても、安倍政権のやっていることは最初から、途方もなさ過ぎる平和ボケの、勘違いの連続なのだ。

それまでイスラム国にいわば「未決囚」として勾留されていた湯川・後藤両氏が突然「人質である敵国民」になってしまったこと自体、安倍が得意気に「テロと戦う自分」をアピールしたくてイスラム国敵視を明言した上で周辺国を敵対国とみなして資金供与を言ってしまったからだ。

時系列を見れば明らかなことを誤摩化そうとして「人道支援だ」「誤解だ」と、国内からの批判に一生懸命に反論したつもりになっていること自体、この政権の外交があまりに幼稚過ぎることの好例になっている。そもそも「反論」として成立していない後付けの言い訳に過ぎず国民を馬鹿にし過ぎだし、だがもっと重大なこととして、こんな子どもじみた「反論」もどきでエゴを発散したところで、イスラム国に対しても、イスラム国を決して快くは思っていないムスリム諸国相手にも、今さらなんの説得力もない。

国内的にはその首相の失態を誤摩化すために、被害者のうち後藤健二氏をしきりと立派な、純粋な人だと持ち上げることを報道にさんざんやらせた結果、いまさら後藤氏を見殺しにもできず、本気で身代金支払いを考えざるを得なくもなって来ている。だから政府は一生懸命、イスラム国と交渉するためのルートを探して情報収集に励んでいると公言しているが、売名行為や、詐欺まがいの手法で「240億円」という巨額な身代金のおこぼれにあずかろうとして交渉仲介を名乗り出る者たちに翻弄されるだけだろう。

そもそも本気で身代金が欲しくてイスラム国が2億ドルと言っていると思うのだろうか?「2億ドル」という要求が本気に見えるのだろうか?

2億ドルというのは安倍がカイロでイスラム国周辺諸国をその敵対国とみなして資金供与を言ってしまった総額とぴったり同じ金額で、つまりイスラム国側のメッセージははっきりしているし、2億ドルもの金をどう受け渡しする(イスラム国側から見れば「受け取る」)と言うのだろうか?

ほんとうに、度を越した平和ボケもたいがいにして欲しい。

日本政府とたとえ間接的にでも交渉に応じるということは、イスラム国側からすればその支配中枢の居場所を敵国(とくに米国)に察知されるリスクを伴う。日本側との交渉に間接的にでも応じて人質の安否や所在を伝えるだけでも、その情報はすぐに米国に伝わるだろう。「普通の国」ならそこも含めて、とくに米国が同盟国だからこそ絶対に情報を漏らさないように細心の配慮を徹底させるが、これまでの外交・国際政治上の経験則からして、こと日本にそれを期待するお人好しはいない

イスラム国にとってのその危険は、米軍などの空襲が続く中、かつてどうもフランスが実はこっそり身代金を払って自国民の記者を解放させたらしい時とは、比べものにならないほど大きい。今までアメリカの「テロとの戦争」に一定の距離を置いて来たそのフランスが今はその戦争をやりたくてしょうがない、というだけでも、今回の人質事案は、これまでのケースと根本的に状況が違うのだ。

イスラム国の高官と人脈があるというジャーナリスト等が仲介を言っているのを政府が無視している、という非難も一部では高まっているが、そっちもそっちで本気で言っているとしたらよほどズレている。記者会見などで公言してしまったのだから、イスラム国側が彼らと今後接触はしない。ただでさえ人質・身代金事案は極秘裏で進めるのが常識であるだけでなく、現状のイスラム国は圧倒的な力を持つ複数の「敵国」相手に戦争状態にあり、この人質事件がその結果起こっていることが理解できていないのだろうか? 紛争地帯の報道で名を馳せたジャーナリストのはずが、そんなことすら踏まえられないのか?

イスラム国は今、日々米軍などの空襲に晒されているのだ。

取引場所に現れた途端、どころかなんらかの形で返答を伝える、当然CIAなどにマークされているジャーナリスト相手にそれこそメールを使うだけでも、居場所を探知されて米軍のドローン(遠隔操作の無人対地攻撃機)にピンポイント攻撃されるかも知れない。

イスラム国側にそもそも日本と交渉する気がないという可能性がもの凄く大きいことは当然考慮に入れなければならない。どう見ても今回の人質事件・脅迫・殺人予告の最大の目的は、身代金ではない。これは彼らからすれば、日本との「戦争」であり、しかも「戦争」を仕掛けたのは(カイロで安倍があんな演説をやってしまった)日本側なのだ。

だがそのこと自体を安倍政権はなんとか誤摩化したい、安倍がカイロで自慢げにやってしまった演説がとんでもない失言だったと認められないせいで、日本の対応も日本の世論も、これが外交の問題であるはずなのに、どんどん国内限定の堂々回りに陥るばかりだ。

それにしても「あくまで人道支援だ」と強調するのなら、「日本はイスラム国を敵視したつもりはない」と声明を出さなければ筋が通らないのだが、この人たちは本当になにを考えているのだろう?

1/23/2015

【緊急提言】 イスラム国人質事件を本当に解決したいのならば


イスラム国に拘束された日本人2名の人命こそ最優先だと安倍晋三首相が言うのなら、しかし「テロは許せない」から「身代金は払えない」のであれば、出来ることはある。日本政府はイスラム国側が提示した72時間という期限を本日午後2時50分と見ているそうだが、ならば本日2時でもいい、日本人2人の命を救うために(安倍さん自身大好きな)首相直々の記者会見をやればいいのだ。

そこで安倍がカイロで演説した、イスラム国と敵対する周辺国への2億ドルという資金供与をいったん凍結し、「あくまで人道支援」と言い張っているのだからより有効な、安倍自身の唱える「積極的平和主義」の理念にも合致した、たとえば医療団の派遣や、日本が直接難民キャンプを設置し運営するなど、文字通り積極的な人道支援策の平和主義を検討する、と表明すればいいのである。

これで湯川・後藤両氏はほぼ確実に解放されるか、少なくとも即座に殺害されることはないだろう。

政府は懸命に「情報収集に当っている」と言うが、外務副大臣をわざわざヨルダンに置きながら、不思議なことにこの事件を理由に安倍氏は(現地により近いはずの)中東の歴訪を切り上げて帰国している。政府専用機には首相官邸に集まった情報はすぐに伝わるシステムになっているし、首相自らがことの解決に当るのなら、中東に留まった方が出来ることは多かったのではないか?

それこそヨルダン国王やアッバス・パレスティナ自治政府評議会議長にでも直に協力を要請してもよかったし、緊急にトルコに飛んで大統領と会談をしてもよかったはずだ。ところが帰国した安倍氏が懸命に連携を確認しているのは、なぜかオーストラリアだったり、イスラム国と敵対関係にある米国やイギリスだ。これでどうやってイスラム国との交渉の糸口が掴めると言うのか?

人質になっている湯川氏は昨年8月以前に、後藤氏も10月にはイスラム国に拘束されていたとされ、その情報を外務省も政府も把握していた。その数ヶ月に渡り、殺害予告の類いは出されていない。

僅かに信憑性がかなり疑われる身代金要求のメールが後藤氏の家族に届いていただけだが、そんなもの後藤氏がイスラム国に入って消息が途絶えた時点で誰でも出せるし、アルカイーダでもイスラム国でも、実は携わってないテロ行為でも声明を出したり、逆にアルカイーダを名乗っても実態は不明というのは、もはやおなじみだ。 
こうしてインターネットの特性を徹底的に利用した情報操作と撹乱の心理戦こそ、アルカイーダがもっとも得意として来たことであり、それはそこから派生したイスラム国にも引き継がれている。

要するにこれまで殺す気がまったくなかったように見えるこの日本人二人が、このタイミングになぜ突然殺害予告となったのか、時系列を単純に追うだけであまりに自明なことを、なぜか日本のメディアははっきり言わない。

言うまでもなく、誰が見ても、これは安倍首相の中東歴訪を狙ったものだし、それも事前から計画されていたこととは考えにくいのは、要求されていると報道される身代金(なお実際の犯行声明ビデオのニュアンスは異なる)の額を見れば当然だろう。要求額は2億ドル、安倍氏がこの犯行声明ビデオが出る前々日だったか、よりにもよってエジプトのカイロで、イスラム国と敵対する周辺諸国に供与すると演説した資金の総額とまったく同額だ。

なぜ湯川・後藤両氏は拘束から何ヶ月も殺害予告もなく、出所の怪しいメールが後藤氏の留守家族に届いただけだったのか?

湯川氏の場合はその理由すらはっきりしている。

昨年、イスラム国から日本人の裁判があるのでイスラム教徒でイスラム法に詳しい日本人を招聘したい、との申し入れがあり、それに応じて入国したのが同志社大学客員教授の中田孝氏(ムスリムとしての名はハッサン)だった。中田氏はこうした事件になるまでは、日本人の裁判のためイスラム国に招聘されたことは語っていたが、その日本人が誰だったのかは今まで公表はしていなかった。それでもだいたい類推はつくことだし(他に裁判になる日本人が見当たらない)、現に殺害予告を受けた1月22日の記者会見で、それが湯川氏の裁判だったこと、イスラム国に入国したものの米軍の空爆が激しく、裁判を開くどころではなく帰国せざるを得なかったことを明かしている。

日本の報道では「テロ組織」「過激派」という枕詞で紹介される偏見で気づかない人も多いのかも知れないが、イスラム国はどの他国の承認も受けていないとはいえ、一定の支配領域を持ちそこを統治している意味ですでにひとつの「国家」の体裁になっているのが現実だ。

統治理念が時代錯誤過ぎるイスラム法の厳密な適用なのは我々いわゆる先進国の現代人には当然の違和感があるし、基本的人権などの理念が世界標準の現代にはおよそ受け入れ難いとしても、それでも国として現実のある地域を統治すること自体は、やっているのだ。もともとルーズな組織構成と思われ、末端までは行き届かないとしても、あれだけの広さの土地でそれなりに人口もある時に、ただ「テロの暴力」だけで支配し続けられるわけもあるまい。

我々にはどうしても違和感は禁じ得ず、コーランを実際に読めば首を傾げたくなる解釈も多々あるとはいえ、それでも彼らなりに統治を行う論理はあって当然であり、そして現にイスラム法に基づく裁判は行われているわけで、決して手当たり次第かつ(欧米メディアが示唆するように)恣意的に人殺しを楽しんでいるのではないし、だいたいそんなことをやっていてはあれだけの地域、あれだけの人口を支配できるわけもない。

既に明らかになっている事実から合理的に考えれば、湯川・後藤両氏はそのイスラム国で裁判を待つ身として身柄を拘束されていたと考えるのがもっとも自然で、だからこそ現に殺されてもいなかったし、殺害予告の類いもなかったのだろう。それが安倍首相の中東歴訪を受けて突然殺害予告、要求金額が安倍氏がカイロで言ったのと同じ額であれば、これで関連性がないと言い張る方に無理がある。

その無理を、首相官邸は必死で言い張り、メディアにそう報道させている。

イスラム国側から見れば、とまでは言うまい。

単純に客観的に言って、これまでイスラム国が処刑して映像等を公開している外国人は、すでにイスラム国と敵対関係にあるたとえばアメリカやイギリス等に限られる。フランスは拘束されたジャーナリストの身代金を払ったと噂されているが(公式には否定)、先日のシャルリー・エブド襲撃事件を見ても分かるように、フランスはイスラミズム武装集団にとっていつイスラムの敵になってもおかしくない国と言う認識だし(過去には北アフリカを植民地支配しアルジェリアの独立運動を暴虐な戦争で弾圧。最近ではシリア内戦にも、リビアのカダフィ体制崩壊にも派兵しているし、レバノンなど旧植民地への影響力も大きい)、それでも直接の空爆などに参加していない時点では、殺害はしていない。

まして日本人をいきなり殺害する理由が、時代錯誤で現代的な感覚では「暴虐」に見えるとしても、それでも曲がりなりにも「国」を運営している彼らには、犯罪でも立証されない限り、なかったはずだ。だからこそちゃんと裁判もやろうとしていたまま、アメリカ等の空襲でそれが出来ない状態だったのだろう。

だが安倍のカイロでの演説で事態は一変した。しかも演説をやった場所が悪過ぎる。

エジプトはアラブの春のあと普通選挙でムスリム同胞団が政権についたものの、イスラム教の宗教保守政党と呼ぶのが妥当なこの政治組織を原理主義のテロ組織ではと疑うアメリカの意向もあって、軍が強権的に政権を奪取し、現状は軍事独裁だ。ムバラク元大統領は釈放され、ムスリム同胞団も、アラブの春の原動力となった民主派も、激しい弾圧を受けている。そんな政権の大統領と昵懇になり(しかも昨年9月の会談で、イスラム国空襲を積極的に支持したのはむしろ安倍だった)、そこでイスラム国の周辺諸国を「敵対国」とみなす演説を行った、つまり言い換えればその諸国がこれからイスラム国と敵対することを前提に資金提供を言ったのだ。いまさら「人道援助だ」と言い逃れはできない。

ましてエジプトの次の訪問国はイスラエルで、昨年のネタニヤフ大統領来日で武器輸出入の協定まで取り交わしている間柄だし、この大統領はイスラエル国内の政治文脈でも極右の反アラブ政権だ。そのネタニヤフとアッバス議長のパレスティナ自治政府の仲介を、というのが安倍の今回の中東歴訪の売りどころのひとつだったが、ヨルダン川西岸をイスラエルの占領に甘んじつつ統治する世俗主義の自治政府は、ガザを支配するイスラミズム組織のハマスと敵対関係にある。イスラム国から見ればこれも、日本がいわば「イスラムの敵」になったとみなす大きな理由になりかねない。

安倍のカイロでの演説を機に、日本はイスラム国を敵とみなすことを表明したことにしかならないし、それをイスラエル訪問でダメ押しした格好になる。ならばイスラム国から見て湯川・後藤両氏は「敵国の人間」になってしまったことになるし、実際の犯行声明ビデオもそうなっている。呼びかけ先は日本政府ではなく日本国民で、2億ドルを拠出という判断を政府に撤回させる猶予が72時間、が実際の内容なのだ。

むろん現在の国際法では、敵国民だからといって殺していい、とはならない。だがそれでイスラム国を非難しようものの、ではその欧米主導で決まっている国際法が中近東のアラブ諸国に公正に適用されたことが、どれだけあっただろう?

イスラエルがヨルダン川西岸を占領し続けているのは国際法にも国際合意にも反するはずだし、アメリカのイラク戦争も国際法に違犯している。昨年のイスラエルのガザ攻撃は「自衛目的」という国際法の抜け道を使いつつ、「コラテラル・ダメージ」つまりやむを得ぬ巻き添えのフリをして一般市民の殺傷も目的としていたと疑われて仕方がないし、イラク戦争でアメリカ軍に殺傷されたイラクの一般市民についても国際法的には「誤爆」ないし「コラテラル・ダメージ」扱いで責任を問われていない。これでイスラム国に「国際法違犯だ許せない」を言うのには、かなり無理がある。

国内向けには「人命を最優先」と言い、情報収集に務めているとだけ繰り返す安倍政権のやっていることは、そもそもイスラム国支配地域内のどのような情報を収集する能力が今の日本政府にあるのか怪しいだけでなく、相手に対してはおろかか、イスラム国自体には反感が多い他のイスラム諸国にとってさえ、なんの説得力もない。

周辺諸国も人質2名の人命が懸かっているのと、日本の経済援助などがあるから、二枚舌のリップサービスをしているだけなのに、それをいかにもヨルダン国王であるとかが日本を支援しているかのように報じさせているのも欺瞞としか言いようがない。その欺瞞はすべて「そりゃ日本がああ言った以上は敵国扱いになるのはやむを得ない」という当然の理屈を誤摩化す、つまりは安倍がよせばいいのに「2億ドル出して日本もテロとの戦争に」と自慢してしまった軽率さを、日本の世論相手に誤摩化すためでしかないのでは、と疑われても、反論はまず出来ないだろう。

テロが現代の世界平和を脅かしている、だから妥協はできない、断固戦うという主張にも、一定の正当性は無論ある。だが「戦う」「テロとの戦争」を言うのなら、それなりの覚悟が必要なはずだ。たとえば「戦争」であるのなら、「断固戦う」のであれば、自国民の命を危険に晒すことは覚悟しなければならないし、国民にもそうはっきり言うべきだ。

そう言わない安倍政権は不正直だ、と言い切るのにもいささか躊躇するのは、それ以前に「実はよく分かっていないんじゃないか?」という疑いが拭い切れないからだ。

なにしろ安倍氏にはとんだ “前科” がある。二度目の首相就任からまもなく、アルジェリアで日揮の参画するプラントが武装集団に占拠され、日揮およびその関連会社の社員が人質になった事件があった時も、安倍氏は東南アジア外遊を急遽切り上げ、自ら指揮に当るかのように振る舞った。だがさっそくのアルジェリア大統領との電話会談で「テロと妥協せず断固戦う」で合意したはずの安倍氏は、その舌の根も乾かぬうちに「日本人の人命を第一に」と要請してしまったのだ。

この矛盾した言い草にアルジェリア側はさぞ困惑しただろうが、後者の要請は無視して強行突入で鎮圧、多くの日本人の死者が出たことはご記憶の読者も多いだろう。

しかも安倍氏は性懲りもなくその後にはこうしたテロ事件に対処するために自衛隊の派遣を検討すべきだと言い出している。明らかな国際法違犯で、他国の施政権下で自国民保護の名目で軍事力を動かすことは基本、侵略とみなされるという当たり前の常識すら、安倍氏は分かっていなかったのだ。 
なおこれは結果、防衛省が省益にうまく利用し、在外公館の駐在武官制度が拡充されることになった。

自分が自慢げにやった演説が敵対宣言、実質上の宣戦布告になってしまっていたことにすら無自覚で、指摘されたとたん慌てて後付けで通用しそうにもない言い訳を繰り返しているほどに無邪気で子どもっぽくては、戦争なぞ戦えない。本気で戦うなら、その敵こそまず理解し、その動機や目的を見抜き、行動パターンを読み解かなければ、負け戦になるのは当然である。

敵であるアルカイーダやイスラム国は我々のいわば「文明国」の側を恐ろしく熟知して、インターネットを駆使した情報戦や心理戦を仕掛けて来る。それに対して「テロとの戦い」を言う側は、ただ「テロ」とレッテル貼りして悪魔視するだけで、敵を理解する気もない。

いったい「戦争」とはどう言うことなのか、戦争が大好きなわりにはさっぱり理解していないのが安倍首相ではないのか、と言わざるを得ない。はっきり言えば「重度な平和ボケ」なのである。

だがこの「重度な平和ボケ」は、安倍氏に限ったことでもあるまい。

今回の被害者である人質二名のうち湯川氏は、民間軍事会社の経営を夢見て、その調査でイスラム国に入ったらしい。つまりイスラム国からみれば、「これからあなた達と戦うことを商売にしますから、そのためにお宅の国の事情を調べに来ました」という驚くべき無邪気さだ。しかも氏はMTFのトランスジェンダー、性同一性障害で身体的には男だが人格は女性という概念は先進国でこそ理解されるだろうが、これを言ってしまえば「差別だ」と怒られることを覚悟で言えば、イスラム国とその支配地域から見れば「女装した変な男」にしか見えず、コーランの解釈にもよるがイスラム国のような解釈では同性愛は禁止されている。そんなイスラム国支配地域に湯川氏がのこのことやって来て、どう考えても動機はスパイなのだから捕まえてみたところで、そのあまりの無邪気さというか、支離滅裂というか、その浮世離れっぷりに、イスラム国の側が困惑したのではないか?

強引過ぎるイスラム法支配とはいえ国ではあるのだから、では宗教法とはいえきちんと裁判をやろうと言うことになって先述の中田孝氏が招聘された理由がまた凄い。なにを言っているのか分からない、言葉が通じない、そこで日本語でコミュニケーションが出来てイスラム法に詳しい人間が必要だったから、というのだ。アラビア語が出来なかったのか、とまでは言わないが、イスラム国のメンバーには英語が出来る者が多いはずなのに、である。

フリージャーナストの後藤氏は、紛争地帯の子どもたちを取材して来た良心的なジャーナリストだと報道されている。なるほど純真で善良な人なのは分かるが、十数年以上中近東などを取材しているはずが、湯川氏が友人だとはいえその安否が心配というだけでイスラム国に潜入する、というのも理解しがたい。テレビではしきりに直前の、携帯電話で撮られた覚悟の動画が流されるが、どう編集で演出しようが「ことの重大さが分かっているのだろうか?」とは率直に思わざるを得ない。

氏の入国当時に日本はまだイスラム国に敵視されていないとはいえ、アメリカ等の空爆が続き混乱を極め、住民も末端組織も決して冷静ではいられない状況だ。

イスラム教に改宗しているわけでもない後藤氏がシリア人のガイドが止めるのも聴かずに、とはあまりに無謀で決死だったのかと思わざるを得ないわりには、湯川氏を探すついでにイスラム国の子どもたちを取材したいと言っていたとか、まったくどこに行くのか具体的な宛もなさそうなのに滞在日程が一週間にも満たないなど、どうにも不自然だ。

いや紛争地帯の取材を続けながらここまで純真でナイーヴでいられるのは本当に素晴らしい人なのかも知れないが、逆に言えばナイーヴ過ぎる、自分が取材している対象や状況の抱える政治的複雑さも理解できていなかったのではないか、あるいは感覚が麻痺していたのだろうか?

いずれにせよイスラム国支配地域にイスラム教徒でもない外国人ジャーナリストがこっそり潜入すれば当然警戒されるし、末端組織は「スパイらしい外国人を捕まえた」だけでも手柄になる。だが捕まえてみたらそもそも潜入取材の必要がない、むしろ最初に「子どもたちに会いたい」と申し入れていればまだ敵対国になっているわけでもなく、中近東アラブ諸国では人気がある日本人で、どうもスパイをやるには純粋で無邪気過ぎる、イスラム国を貶める目的にも見えないのであれば、これまた拘束した側のイスラム国がなにがなんだか分からないまま、困惑してしまったことも十分にあり得る。

だが湯川氏のことが(氏がMTFの性同一性障害であることも含め)報道しにくい、安倍政権の失態に触れられないタブーと、視聴者の感情に訴える演出の都合もあって、徹底的に「いい人」として報じられる後藤氏の、いわば美化の「やり過ぎ」の結果、テレビはとんだボロまで見せてくれている。

「危険な紛争地帯で子どもたちを思って取材した後藤さんの映像」として流されるものの多くは、以前にそのテレビ局が後藤氏の名前も出さずにニュースで使って来たものだ。そして今、後藤氏の危機を報道する同じテレビ局の、こちらは正社員の記者は、トルコとシリアの国境までしか行かない。

この奇妙な構図の裏事情に気づく視聴者も少なくないだろう。正社員に命の危険が及ぶ取材をさせたくないテレビ局が、紛争地帯の報道に重宝して来たのが後藤氏のようなフリーランスであり、危険も省みなさそうな(あるいは気づかなそうな)善良な後藤さんをいわばいいようにこき使って、報道する素材を得て来たのだ。確かにとびきり善良な人だったのだろう、その後藤氏が文句も言わずに熱心に撮って来るものが子どもたちであり、紛争の複雑な政治的な事情や解決の困難な入り組んだ対立図式のことなどよりもセンチメンタリズムを求めるテレビの商業主義にも合っていた、というミもフタもなく冷酷な搾取の構図が、そこには浮かび上がる。

そうやって後藤氏の取材した子どもたちの姿をただ視聴者を涙させるだけで消費しては忘れて来た末に、平然とその後藤氏自身の危機をセンチメンタリズムに堕した商業主義と政権の過失の隠蔽に利用してしまえる報道があり、そこに喜んで涙しつつ「後藤さんの安全を」と言うだけで自己満足している視聴者・大衆がいるのだとすれば、そこにこそ「重度な平和ボケ」の核心がある。

なるほど、紛争地帯の子どもたちが可哀想であることに異論の余地はない。今、命の危険に晒されている後藤氏が気の毒なのもまったくその通りだ。だが「可哀想」「気の毒」で紛争が解決するのなら、イスラム国のようなものはそもそも産まれていない。

今、日本中が湯川氏、後藤氏が無事生き延びることを願っていることに、面とむかってとやかく言う人は中近東にも世界中にもほとんどいないだろう。

二人は「気の毒」だし「無事であって欲しい」のは当然で、人の命は尊いということが、どれだけ紛争の絶えない場所でさえ、だからこそほとんどの人間が信じている、あるいは信じたいと思っている絶対普遍の価値なのだ。

だが後藤氏たちの安否を気遣ってくれる、たとえばシリアやトルコの人たちにとって尊いのは、ただ日本人二人の命だけではない。

あらゆる人間の命が尊くなければならないはずなのに、今この二人の命を「最優先」と言い合っている日本政府や日本国中の人々は、ではその背後には何年も内戦の混乱が続くシリアやイラクの無数の人たちの生と死があることを、少しでも考えたことがあるのだろうか?

後藤氏が取材した子どもたちの映像に「可哀想」と涙するのはいいが、なぜそのような悲劇があるのかに、思いが至らないのだろうか?

疑問は持たないのだろうか?

イスラム国は確かに、世界を震撼とさせたアルカイーダから派生したテロ組織ないしイスラミズム過激派の作った「国」であり、その支配の中身はおよそ評価できるものではない。女性の地位、ヤジディ教徒やクルド人など少数民族の虐殺や虐待、湯川氏もそうであるような性的マイノリティの扱いなど、批判されるべきことはいくらでもあるし、強硬なイスラム法の厳格なのに妙に恣意的な解釈もおよそ評価できるものではなく、他者の信仰は尊重すべきだとしても、イスラムに関してど素人の筆者個人が見てもコーランをちゃんと読んだらこんな解釈にはなるまい、と思うところが多々ある。

だがそれでも、実態は「国」なのである。

その「国」の統治下には大勢の、普通の人たちがいる。「イスラム国を空爆」と言う時には、ただ「悪のテロ組織」だか「危険な過激派」だけを攻撃目標にするわけにはいかないのが現実であり、いかに「テロとの戦争」の正義を謳おうが、その空爆は確実に、イスラム国支配下にたまたま住んでいる、ずっと住んで来た土地が今はその支配下になった人たちの上にも、降り注いでいるのだ。

「テロは世界の平和への脅威」だから「イスラム国を空爆すべき」という、ではその「世界」に、その人たちは含まれないのだろうか? 「やむを得ない犠牲」だとしても、そこで犠牲になるのは湯川氏や後藤氏と等しく尊い、人間の生命ではないのか?

なぜイスラム国のようなものが産まれてしまったのか?

その背景にはイラクやシリアを始め、むろんガザやパレスティナ自治区もそうだし、アラブ圏、イスラム圏の人たちの生命が、決して日本人やフランス人(シャルリー・エブド襲撃事件は「許されない」かも知れない。だが、それでも犠牲者12人、立て篭り事件を含めて20人前後の死者だ)や、アメリカ人(9.11の死者は3000人強、一方でイラク戦争だけで死者は10万以上)と「等しく尊い、なぜなら人間はみな平等だからだ」とは決して扱われて来なかった20世紀の現実と、その延長としての21世紀がある。

あるいはヨーロッパのユダヤ人の第二次大戦前の推計約1000万のうち600万を殺したホロコーストを見ても、人間の命も、人間の権利も、西欧やアメリカが理念と掲げるはずの民主主義や平等主義が、その西洋と、西洋が支配的な地位を保って来ている世界で、決して守られて来たとは言えなず、人間は決して平等に扱われて来ていない。
ホロコーストはただナチの犯罪だけで済むものでもなく、ヨーロッパに蔓延して来た反ユダヤ主義と度重なるポグロム(ユダヤ人迫害・虐殺)の歴史の「最終的解決策」であったことは、多くの歴史家が指摘することだ。

イスラム国がなぜ産まれたのか?

「テロリストだ」「世界平和の脅威だ」とだけ言っていれば楽だが、それで済むと思ってしまっていることにこそ、恐るべき「重度の平和ボケ」がある。なにもこれは理想主義の平和願望で言っていることではない。我々の世界はそれだけの不満と怒りを産み出してしまい、それが今我々の安全を脅かしていることは忘れてしまっては、早晩我々自身もまた命の危機に晒されることを覚悟せねばなるまい。

だからこそ、安倍晋三首相は今日正午、記者会見をすべきだと、筆者は本気で言いたい。

問題は日本人二人の生命だけではない。「人道支援だ」と言うのなら、今もっとも支援が実は必要なのはイスラム国支配地域の普通の人たちではないのか? 2億ドルという金で片付けるのではなく、日本からイスラム国支配地域内に医療団を派遣するから受け入れて欲しい、とでも言えば、その「積極的平和主義」は、世界を変えられるかも知れない。

1/13/2015

「テロ事件」後のフランスで起こっている危険なこと


1月7日にパリで襲撃された「シャルリー・エブド(週刊シャルリー)」は週刊の風刺マンガ紙で、日本の報道で「新聞社」と言われて思うのとはかなりイメージが違います。この襲撃事件についての日本の大手メディアの報道は、犠牲者を哀悼するという市民が「私はシャルリー」というプラカードを持って集まるのを賞賛し「テロと戦う」を喧伝する現地報道のほぼ受け売りですが、これにはさすがに、違和感を覚える人が多いのか、識者などを中心に疑問を呈する発言が少しずつ出ているようです。

実のところそんな違和感では済まないほど、現地はもっと加熱しているようで、イラク戦争開戦時にアメリカ相手に戦争反対で外交的大立ち回りを演じたドミニク・ド・ヴィルパン元外務大臣が「戦争の誘惑に負けてはならない」と警告する文章を、フランスでもっとも権威ある新聞「ル・モンド」に寄稿したほどです。

実際、人質4名が犠牲になった容疑者たちの立て篭りは、警察が容疑者たち全員を殺害することで終わり、パリでは軍が自動小銃を持って警戒に当るなど、今の政府や警察の対応は完全に「戦争モード」と言えるでしょうし、フランス社会の全体もそれに同調しているように見えます。

こうなると違和感どころか、危機感を持った方がいいかも知れません。

事態は2011年に米国で、同時多発テロを受けてイスラム教徒への偏見と敵意がうずまき、アフガニスタンとイラクを侵略する「テロとの戦争」へと突入し、アメリカの名誉すら失墜する大失敗になった状況とどんどん似通って来ています。皮肉なことにその当時、先進国のなかでそのアメリカにもっとも厳しい批判を向けていた国が、フランスなのですが。

お隣の英国の「ガーディアン」紙も、フランスが受けた被害には同情しつつも、「これはあくまで犯罪であって戦争ではない」と指摘し、すでに中近東からの移民が大勢住んでいるヨーロッパで安易な敵意が大きな社会不安を引き起こしかねないとの危惧を述べています。ドイツでは「週刊シャルリー」がムハンマドを風刺したマンガを転載したハンブルグの新聞が放火されましたが、現地の警察当局は慎重で、容疑者の身許の公表は避けています。しかし一方でフランスでは、「ガーディアン」紙が危惧するように、「国民追悼の日」に定められた11日の日曜日には、ヨーロッパ各国首脳がパリを訪れ、「テロとの戦争」での連携を確認し、市民を動員した追悼行進の先頭に立ちました。

この「哀悼」の行進には、フランス全土で370万人がこの行進に参加したという、これは同国の歴史でもフランス革命時よりも、第二次大戦でのドイツ占領からの解放された時よりも多く史上最大だそうです。犯人グループは一人が自首した以外は射殺、関連性があると言われる別の銃撃・警官射殺・立て篭り事件の方でも犯人は射殺されているのに、いったいなんのため、なんに抗議して、なにと戦うつもりでデモ行進をしているのか、よく考えてみれば奇妙なことです。

にも関わらずフランスは事件を犯人の死では終わらせず、すでに「イスラム国」「イスラムのテロ」と戦う気まんまんのようで、2001年9月11日の米同時多発テロ事件から「テロとの戦争」になった歴史を繰り返しかねない動きが起こっている…いや事態は、今度は舞台が、すでに中近東からの多くの移民が住んでいるヨーロッパ(たとえばフランスでは人口の8%がムスリムと言われています)だけに、より深刻になるのかも知れません。

しかし違和感を表明はする日本の一部識者でも、もはや戦争になりかねない危険な流れがあることまでは遠慮があるのか触れない一方で、そもそもの攻撃対象になった「シャルリー・エブド(週刊シャルリー)」が掲載した、いわゆるイスラム教風刺マンガについて「他宗教への配慮が足りない」程度の、浅くていささか見当違いな議論しか提示できず、これでは建前では「言論の自由」を守る戦いだと言っている、その言葉で簡単に反論されてしまって相手にされないでしょう。

おそらくはフランスの事情をよく知らないので、なぜその風刺マンガにパリで大量殺人に至るほどの反発があったのか分からない…という以前に、事件の構図そのものをあまり把握出来ていないのかも知れません。

それも無理はないでしょう。フランス政府はこれがあたかも「イスラム国」に代表されるような中近東起原のいわゆる「イスラム原理主義組織」がフランスの「言論の自由」を攻撃した事件のように報道させていて、犯人グループもまたフランス人だったこと、アルジェリア系移民の子どもでフランス国籍を持ち、フランスで育っていることを考えないようにしている、メディアもそれを追認しているのですから。

しかも日本の識者の皆さんの知識としてある「フランス」や、日本人が観光で行く範囲のフランスでは、アラブ系のフランス人も少なくない(人口の8%)ことすら、めったに目にもふれないことでしょう。

留学や仕事でパリなどに住むことになれば、さすがに郊外の集合住宅が移民スラムになっている、パリ市内にもイスラム教徒、アラブ系やトルコ系などの人が多い地区があることは気づくでしょうが、それ以上の関心はめったに持たないで終わる場合がほとんどです。

繰り返しになりますが、今回の事件の犯人グループは海外から来た「テロリスト」ではありません。フランスで生まれフランスで育ったアルジェリア系移民の二世三世です。

しかし第二次大戦後のフランス近現代史の最大の汚点だったのがアルジェリア戦争、独立運動にフランス政府が植民地在住の自国民保護の名目で大量の軍隊を動員し、独立運動を徹底弾圧し、ナチスばりの拷問までやったことであるのは、今でもフランス人は多くを語りませんし、その植民地支配の結果として多くのアルジェリア系のフランス人が今もフランス国内にいる経緯をちゃんと理解している日本人は、「フランス通」に見える人でもほとんどいません。

とはいえフランスに留学でもすれば、同じ留学生仲間でアラブ圏からの出身者に出会うことも少なくないはずではないか、とは思います。

たとえばプルーストの大作『失われた時を求めて』全訳の偉業で知られる鈴木道彦先生は、ちょうどアルジェリア戦争の真っ最中にフランスに留学されていて、パリに亡命していたアルジェリアの独立運動家の学生たちと出会い、支配する側の民族としての責任に気づき、日本に帰国してからは金嬉老事件の弁護団を支援する運動など、在日朝鮮韓国人への日本人の民族責任を自覚する活動をされて来てもいます。

現状、フランス社会のなかでは、最近は一部にエリート層に進出しつつある移民系の人たちが注目を浴びることも増えては来ていても、移民スラムで育った人間のことがその立場から語られることはほとんどなありません。

フランスの教育制度にうまく順応できた一部を除けば、差別され社会の最下層にある移民の若者たちの存在がフランス社会全体にインパクトを持ち得たことと言えば、もう10年以上前の映画であるマチュー・カソヴィッツ監督の『憎しみ』くらいしか、未だにほとんど見当たらないほどです。

マチュー・カソヴィッツ監督『憎しみ』

逆に言えば、この事件の犯人を産んだような階層の人たちがそれだけ差別され、無視されて来て、自分たちの努力だけではどうにもならない状況、自分たちのアイデンティティそのものが生きていく上で圧倒的に不利になってしまう現実に、もう何十年にも渡って不満と怒りを溜め込んで来ているのです。

はっきり言えば、この事件を「イスラム過激派の国際テロがフランスを攻撃した事件」と見ることには、相当に無理があります。

警察に殺害された犯人たちが「イスラム」や「預言者」を語ったとしても、それは彼らにとってはカッコつけに過ぎず、一方でフランス人にとっては異教徒の狂信者のせいにできるご都合主義でそうなっていることが、たまたま運悪く一致しただけでしょう。

要はフランス社会のなかで居場所を与えられて来なかった若者がいて、「平等」を旧支配者としてのフランスの権威を認める同化主義の強制にスリ替えてしまい、結局は根深い人種差別と植民地主義をまったく解消できていない現代フランスへの彼らの不満の暴発こそが、この事件が起きた真相ではないでしょうか? 僕自身たまたまフランスで東洋人として育ち、たまたまいい学校だったので自分では直接にはそれほど差別の暴力に遭うことが幸運にしてなかっただけに、率直にそう思います。

いわゆる「イスラム原理主義」は彼らの鬱屈と怒りをなんとなく正当化できるというか、不良少年が暴れているだけ、ストリート・ギャングよりは立派に見える程度の理屈を、提供しただけです。

事件後にアルカイダが声明を出していて、確かにそこからの資金の供与はあったのかも知れません。 
とはいえ「イエメンでの軍事訓練」についてはほとんど笑い話で、市街地でのこういうアクションなら、彼らは「イスラム原理主義」が国際メディアで騒がれるようになった以前はストリート・ギャングだったりした、もともと喧嘩であるとかはもちろん、銃の撃ち合いだって経験があってもおかしくない若者たちです。 
今さら砂漠のなかでの訓練なんて必要は、今回のような事件を起こすのならまずありません。

それにそのアルカイダの声明は、「ターゲットの選択は彼らに任せた」ともはっきり言っています。

つまり「フランスの言論の自由を攻撃」が「国際テロ組織」の目的というのはほぼフランス側の作り話で、フランスで育って差別にさんざん遭って来た若者が、フランスの多数派の側からすればイスラム教の権威主義を批判したつもりでも、彼らからすれば自分たちを馬鹿にすることを目的にしたようにしか見えない「風刺マンガ(と呼べるほどのものであるかも疑問です)」を何度も掲載した「週刊シャルリー」、つまり「俺たちをさんざんバカにして来た側の代表」を攻撃目標にした、と見た方がよほど現実に近いでしょう。

「異教徒への配慮」を主張するのは、彼らが真面目なイスラム教徒だったことを前提にした発想です。なかには「イスラム教は偶像崇拝禁止なのでムハンマドを絵にしたこと自体が問題」と言う人もいますが、これもうわべだけの知識だけででっち上げた作り話だと考えた方が妥当です。彼らがそこまでコーランの中身を知っているかどうかさえ疑わしい。

だいたいイスラム教というのは今でも、一日5回のお祈りであるとか食べ物に関するルールなどの生活宗教の意味合いが強いし、中近東に行けばモスクはご近所のお年寄りの集会場みたいなもの、生活習慣の一部に深く根ざしてはいても、ほとんどの場合はそう真剣に熱中する宗教ではありません。ムスリムが「アッラーは偉大なり(アッラー・アル・アクバル)」と言うのは日本語では「万歳」程度の意味合いだし、「神の御心のままに(インシャ・アッラー)」は挨拶の一方で「なるようにしかならない」、もっと言えば他人からの頼み事を断るときの常套句(「神様の意思ならば従うが、私自身はやる気がしない」の意味)に使われるような言葉です。

イスラム教徒の発想は、日本人が戦時中に「神風が吹く」と言い合っていたのとは基本むしろ逆です。


祈る=◎取るに足らないことが明々白々なたった一人の嘆願者のために、宇宙の全法則を廃棄してくれるように頼む。(アンブローズ・ビアス『悪魔の辞典』)


世界を創造した、世界が存在している論理そのものである絶対神というのは、そう簡単に個々の人間や一部のグループの思い通りにしてくれるはずがありません。そこもイスラムの教義にもちゃんと組み込まれていますが、それ以前に生きていく実感としてそう思う方が自然でしょう。

しかもヨーロッパに移民する人の多くは、そんなに信仰熱心でもなくイスラムの共同体意識にあまり拘泥しない人ほどヨーロッパに憧れて移民するわけで、しかしいざ移民してみるとそこで苦労することが多く仲間が必要なので、その集会場のような意味合いでモスクがあるというようなことが、むしろ実態に近い。まして今回の事件の犯人グループのような、こう言っては悪いですが元ないし現役の「不良少年」は、そんなモスクに熱心に通ってイマーム(導師)のお説教に従うような若者では、そもそもないでしょう。

ドイツのトルコ人移民、アモス・ギタイ監督
ドキュメンタリー映画『ヴッパールの谷で』より

しかし土日がお休みのキリスト教文化圏のフランスなので、アラブ系でもイスラムの休日の金曜日は働く人が多いことにすら気づかないのが、マジョリティ側のフランス人の大多数です。まして郊外の集合住宅にあるようなアラブ系などの移民の人たちの生活になんて、そもそも関心がない。そっちの側からフランス社会を見たらどれだけ差別的な国かだなんて、自分たちでは気づきたくもない、気づかされたくもないのでしょう。

そうやって自分たちを無視して来た側がいて、ここ数年フランスはひどい不況ですが、そこで真っ先に首を切られるのも自分たちであるのに、その差別して来ている側がムハンマドを揶揄する、というより単に馬鹿にした落書き同然のものを「風刺画」と称するのなら、しかもそんな低レベルな表現を無神経に出せばフランスの大衆を喜ばせ自分たちを傷つけられると思っている差別意識自体が、これは信仰心云々とほとんど無関係に、ただ「俺たちを馬鹿にするのもいい加減にしろ」と思うのが普通の感覚ではないでしょうか?

「笑い死にしなければ鞭打ち100回」と言う
ムハンマドの“風刺画”で、「週刊シャルリー」でなく

「週刊シャーリア(イスラム法)」これが本当に風刺?

これでは「異教徒への配慮が足りなかった」のではなく、フランス人のマジョリティの側が、無自覚だったかも知れないにせよ露骨に攻撃的に差別を剥き出しにして相手を馬鹿にしてしまったことになってしまいます。

逆に言えば移民している人たちの多くにとって「イスラム」とは元々はその程度のもの、今回の犯人グループのような生い立ちの青年なら、せいぜい家に帰れば母親や妻が「もっと真面目に生活して」という意味で持ち出すのが「アッラー」や「預言者ムハンマド」であるに過ぎません。 
海外の「原理主義組織」と接触があったらしい容疑者たちも含め、というか彼らほどそうでしょう。

本当の動機は、自分たちが無視され馬鹿にされ、まともな仕事もなく、なのに発言権すら奪われているし、国籍があるはずなのに存在すら認められないことの鬱屈であり欲求不満、それを怒りと暴力として吐き出すきっかけを与えたのが、2001年に始まるいわゆる「イスラム原理主義」の「テロ組織」の果たした役割に過ぎない、と昨今「ホーム・グロウン・テロ」と欧米のメディアが言って日本にも輸入されている用語を見ると、思わずにはいられません。

しかしそんな現実に元からフランスの、白人であるマジョリティ側は元々ほとんど関心がないし、今回の事件では警察が容疑者を殺害して口封じしてます。

だから今後はいくらでも「イスラム原理主義のテロだ」と言い張れる。

実は国中で、これがフランス社会の人種差別と不公平が産んだ暴力であることを忘れたい、自分たちが未だに差別する国の、差別をして来た側の一員であることから目を逸らすために、「テロとの戦争だ」と言っているに過ぎないのではないでしょうか?

問題になった風刺画が実は人種差別の表現に他ならない、しかしだからこそフランスで話題になり人気にもなったことを隠したいから「言論の自由が攻撃された」と言っているだけ、というのが現実に近い。

そんな現代のフランスを見て、そこで育って子どもの頃から差別があることは知っている、それでも学校はとてもいい学校だったので民主主義とか自由とかの理念を本当に教えてもらった人間としては、心底失望しています。

フランス人たちが「言論と表現の自由」を言うのなら、僕がフランスの小学校(この学校はほんとうにとてもいい学校でした、帰国して日本の学校がひどいのでショック)でちゃんと教わったその「自由」は、抑圧的な体制とその体制を支えるマジョリティに対して自分の意志をきちんと表現する権利のことだったはずです。

むろん殺人は犯罪ですし、暴力で他者の言論を封じることは許されないことですが、一方で僕はたまたま小学生のころから、直接の暴力ではなく陰湿な人種差別という真綿で首を絞めるような暴力で、その自由をまったく享受できないアルジェリア系であるとかジプシー(今では「ロマ」でしたっけ)の人たちも見ていました。自分だってそれなりに、学校外ではたまにはいやな目にも遭って来ましたが、その人たちに較べれば遥かに楽だ、とも子どもの頃から思って来てもいます。

なお一応言っておきますが、僕が行った学校は私立の、イエズス会の学校です。 
公立の学校は危ない、差別されるからやめた方がいい、というフランス人の家庭教師の先生の助言があったからです。

その先生と学校がよかったお陰で、僕はたとえば、訛りのないフランス語も幸い喋ることができますし、文化芸術が大きな興味の対象ですからフランスのそれも学んでいるおかげで、一見フランスに「同化」しているようにも見えるはずです(実際、フランス史でさえそんじょそこらのフランス人より詳しかったりします)。そうやってフランス社会を半分は内側から見られて来た一方で、「有色人種」の外国人として外からも見て来た、そして小学生ですでに世界人権宣言の中身などをちゃんと教わった身としては、フランス社会はこの高邁な思想をきちんと背負って存続していくことについに疲れてしまったようにも、この事件への良心と良識のタガが外れた反応を見ていて、率直に思えて来ます。

実際、2011年に映画『無人地帯』の編集でパリに長期滞在したとき既に気づかざるを得なかったのですが、この10年くらいでフランス社会はどんどん劣化しています。 
人々の態度は攻撃的になる一方で極端に俗物化し、映画産業などは極度にスノビズムなセレブ崇拝に支配される一方で、長文の映画批評などは掲載される場がどんどん減っているし、もはやほとんど読まれない。

先述の鈴木先生がパリに留学されていたころ、フランスが国をあげてやっているアルジェリア戦争に公然と反対して、その植民地主義と人種差別を批判したのは、ジャン=ポール・サルトルを筆頭に、当時のフランス最先端の知識人・思想家たちでした。フランス映画の新たな時代を切り開いたヌーヴェルヴァーグの面々も、この戦争を批判する映画を発表しています。それがフランスの「言論の自由」「表現の自由」であったはずです。

しかしそのような発言や表現に多くの人が耳を傾け納得するか従うような教養主義、文化主義は、この事件のずっと前からどんどん減退して来ています。政治的には、得票数でいえばもっともコンスタントに数字をあげている、確固たる支持層を持っているのは、極右で移民排斥を謳う国民戦線です。

今起こっている事態には、ある意味でものすごく皮肉な面があります。

「週刊シャルリー」は発行部数が平均3万前後、それが事件当日夜の追悼集会に集まっただけでも3万5000、11日の全国哀悼の日では総計370万、つまり「週刊シャルリー」の読者の単純計算で100倍もの人が、多くが「私はシャルリー」という標語を掲げて行進し、異論を述べたり警告を発しようとする人がいれば「死者への敬意」を言って黙らせる勢いで、服喪を理由に自粛を強要し、国家国民の連帯を叫んで、列国の首脳まで参加して「テロとの戦争」で盛り上がっている。

かつてのフランスだったらこの過剰で軽薄なセンチメンタリズムを煽動する不気味さの国家主義の勃興があれば、真っ先に痛烈な風刺で揶揄し批判し、怒り出す人がいるのも気に留めず完全にバカにしきった風刺マンガを発表するのが、他ならぬ「週刊シャルリー」だったはずです。

「週刊シャルリー」は言論の自由があるはずのフランスで発禁処分になったことすらあるわけですが、それはレジスタンスの英雄で戦後は大統領として権威も権力も振るったシャルル・ド・ゴールが亡くなり、国葬になったとき、それを徹底的にバカにしきったマンガを掲載したからでした。「異教徒の配慮が足りなかった」という日本人の識者の皆さんは、この事実をどう考えるのでしょうか。当時の同紙が「国民的英雄」のド・ゴールに配慮が足りなかったのがいけない、と言うのでしょうか?

しかし今や、そんなアナーキーな「週刊シャルリー」について「私はシャルリー」と名乗る匿名の群衆が、クソ真面目に(しかし自分たちの社会の問題には目をつむって)「戦争」に突っ走っている、これはもはや現実が風刺を越えるほどに不条理であるとしか言いようがありません。

これが「言論の自由」を守る「戦い」なのか、むしろ真逆にすら見えて来ます。

ですから日本人がこの状況に違和感を覚え、異を唱えるのは、むしろやるべきことです。

ただし自分の知らない文化圏やその権威を批判するのには、客観的な立場の冷静さの強みがある一方で、その批判する相手をよく知らなければ的外れにもなりかねません。

「週刊シャルリー」のイスラム批判に問題があったのもそこでしょう。的を射た批判、シャープでレベルの高い、怒るスレスレで笑うしかなくなるカリカチュアの醍醐味ではなく、ただ上っ面だけ、最初からバカにしている相手をバカにしただけのことをやっていれば、それは「言論」でも「表現」でもなくただの差別の悪口になってしまいます。

こんなときに「異教徒への配慮」だかを語って気づいたことを言うのを自粛するころを強要するのは、危険をみすみす看過することでしかない。相手が「傷つく」もなにも、放置していればその相手国はもっと自分たちで自分たち自身を傷つけることにもなりかねないのですから。

それに日本は、キリスト教の国でも、白人の国でもないし、植民地主義に染まって他国を侵略して失敗したことを、フランスがアルジェリアに対する過去を誤摩化しているのとは違って、敗戦でしっかり反省したはずです(そのはずです、どうも総理大臣をはじめそういうちゃんとした歴史の理解がない人も一部にはいます)。

しかも戦後、戦争をやらない平和国家であり続けながら奇跡の成長を遂げた日本は、アラブ諸国やイスラム圏からも尊敬され、また国際援助やインフラ整備や工場などの建設、輸出入などで深いつながりも持ち、白人でなくキリスト教国でもなく十字軍などにも縁がない、中近東で戦争をやったことがない、侵略者であったことがないぶんまだ信頼もされていますし、世界有数の経済大国、こと科学技術産業のレベルの高さでは、白人中心の欧米だって一目置かざるを得ない先進国でもあります。

今この危険な、第二の「テロとの戦争」に向かう流れを食い止めるのに最適任な国は、私たちの国なのです。