最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

1/01/2010

2010年:日本人は自らを自由にできるのか?

大晦日の日経新聞一面に、この一年を象徴するデータをグラフにして紹介するコーナーがあった。経済について「成長回復するが雇用は厳しく」という見出しがついている。素朴な疑問−−この見出しを書いたデスクは、自分があまりに奇妙な文を書いていることに「これってあまりにヘンじゃない?」と思わなかったのだろうか?

経済が成長しているのならなぜ雇用が厳しいって、「成長」の基準や指標に意味がないだけではないか。2008年の世界金融危機以来、世界経済は実はまったく回復していない。株価は上がっても欧米でも失業率はむしろ悪くなっている。それを「成長回復」と言っている経済って、いったいどういう経済なの? 人々と社会を豊かにすることなく、いったいなんのための経済システム、経済政策なの?

市場を流通するキャッシュフローの総額だけで経済を計ろうとしたところで、現在の経済システムではその金額自体が多分にヴァーチャルなものであることは、リーマン・ショック前に先物相場だけで原油価格や穀物価格が乱高下し高騰した事態だけでも十分に学習できたはずだ。ところがドバイ・ショックが引き金を引いた円高に、「今がFXのチャンス」と金融業界の宣伝がまことに賑やかである。

一昨年の米国の大統領選挙を左右する大きな要因はリーマン・ショックによる大不況、レーガノミクス以来の金融資本主義の破綻に米国民が嫌気が差して求めたCHANGEだとされるし、今年の日本の政権交代も小泉的市場原理主義、「負け組」とかのイヤな言葉や、深い哲学的な意味があることを薄っぺらの表層に勘違いした「自己責任」が横行し、政府は「イザナギ景気以来の長期の経済成長」と言い続けるのに一般生活者には実感がなかったどころではない、「派遣切り」のルサンチマンがひとつの動機とも推測されている秋葉原の無差別殺傷事件だってリーマン・ショックの前の話だった。

まあ「イザナギ景気以来の長期の経済成長」だって実態は自民党政権が日銀に(好景気で成長基調なはずなのになんで?)超低金利政策を押しつけ続けて市場に流通するマネーを水増ししてたこともあるんだろうし、現政権の予算編成が始まったら税収見積もりが9兆円も減った−−というか前政権下での見積もりが、麻生サンへの官僚からのリップサービス(というか選挙対策)で9兆水増しされてたわけでしょ、要するに。

そうしたフィクショナルでヴァーチャルなマネーが現実になって現実生活を破壊し、それをヴァーチャルでフィクショナルな政治的欺瞞で誤摩化し続けた末に、ついにアメリカで、続けて日本で起った政権交代とはなんだったのだろう?

アメリカでほぼ一年、日本でも百日が過ぎたこの年越しの時に、もう一度我々もまたその一部であった(まあこのブログを読んでる人はあえて共産党とか、連立するのは分かっていても社民党に入れた人も多いのかも知れないけど)変化の意味、そこで我々が意思表明したことはなんだったのかを考えてもいいように思う。

たとえば、果たして我々はガソリン税が半額になることのために「暫定税率撤廃」に賛成したのか? 「ガソリン値下げ隊」をやってた原油価格高騰時には値下げも切迫した問題だったにせよ、むしろ「暫定」と言いながら何十年もその税率が維持されていたり、高速道路にしてもいずれ無料になるという約束だったのにそれを履行できないことをおかしな理屈で誤摩化し続ける、その欺瞞的なやり方がイヤになったのであって、一方で地球の未来を考えれば高速道路が無料になって車の利用やガソリンの消費が増えるのはそれはそれで問題なわけだし、民主党は環境重視も政策に掲げていたのだし、我々がもっとも腹が立ったのは、政府が守ろうとしていた制度そのものの、隠しようもない不正直さではなかっただろうか?

あるいは市場のキャッシュフローの量だけで「イザナギ以来の長期経済成長」と詐欺めいた数字が踊り、我々の生活は問題だらけなのにそのフィクショナルな数字だけで為政者が自己満足し、ちまたでは「負け組」だとか言われてしまう世の中。ちょっと社会にでて仕事をすれば役人がえらくお金もマンパワーも無駄遣いしてるのも分かってしまうし、しかしそこから我々の給金とかギャラも出ていたりすると(ゼネコンならまさにその金で会社がもうかってるわけだし)文句も言うに言えない不正直さのしがらみに自身も絡めとられてしまい、社会の不平等の共犯者にされてしまう、そんな政治にウンザリしたのではなかったのだろうか?

いろいろ差し支えがあるので特定は伏せるが、僕の周囲でもどっちかといえば左派あるいはリベラルな人々のなかで、事業仕分けに恐々としている人々が最近多いのに驚く。

だいたい文部科学省・文化庁所轄の事業とか独立行政法人、あるいは助成金の対象だったり、こないだの事業仕分けで見事に仕分けられてしまった国際交流基金がらみで助成金があったり外郭団体だったりのことである。自民党政権が嫌いで、小泉内閣の脅威の支持率に「絶対に水増しされた数字だ」とか「周りに支持している人なんていないのにどうなってるんだろう?」と言ってたような人たちが、今や自民党と言う名目で官僚支配だった時代が懐かしいかのような口ぶりで、「経済効率だけ考慮して一時間の話だけの事業仕分けはけしからん」みたいなことを言うのは、なかなか不思議な光景に思える。

僕自身もそういったところと仕事をしたり、助成金をもらってたりもするから、逆に事業仕分けがあれば、たとえば交流基金関連で外務省天下りの「理事」とかが仕事もしないお飾りで高給を取っていたり、海外映画祭で交流基金の助成で招聘されたりするといかにも「俺が呼んでやったんだ」みたいな態度でこちらがどんな映画を持って来ているのかも知らない現地代表者にウンザリする(ちなみにたとえばフランス政府で同等の機能を持つCultures Franceだと、招聘した作家をいろんな人に紹介して頑張って売り込みしてくれる)、そういった連中に消えてもらう大きなチャンスだと思うのだが。

実際、事業仕分けで切られた事業の多くは、担当官庁のお役人が事業内容の説明もちゃんと出来ずに厳しい判定を食らっているわけで、問題は彼らに自分たちを代表させていることに過ぎない。たとえばフィルムセンターならフィルムセンターで、本当に予算を切られたくないのなら、文化庁は現場で働いている主幹だとかに仕分けで説明させるだけで、説得力も結果もずいぶん違うはずだ。

いや省庁の担当者が行かせてくれない、彼らが自分で行ってしまうというのなら、まず自分のやってる仕事の意味を守るためにも「現場が行くべきだ」と主張だけはするべきだし、一方で民主党は陳情を党に一本化するということをやっている…というのもマスコミは「自民党潰し」としか報道しないので意味が分かってないのかも知れないが、要するに自分の地元の民主党代議士であるとかに陳情しても、これまでの政官財の癒着で有力者とか官庁の紹介やコネがないとと言った制約ぬきに、説得さえできれば党の上に上げてもらえる可能性もあるはずなのだ。その陳情制度改革とセットで、小沢一郎は新人議員を「次の選挙のため」と口説き落として精力的に地元周りをやらせているではないか。

だいたい文化事業の独立法人に独立採算制だなんて強引でバカ単純な経済効率を持ち込んだのは自民党の「行政改革」である。公開が原則の民主の事業仕分けは、単に金銭の収支の問題ではない経済効率、文化政策が国として必要なのを認識した上でそのなかで官僚の中抜きや天下り官僚などの無駄がないかをチェックするようになっている。しかし文科省の官僚とかに代弁させたら、彼らは当然ながらその事業を守るかどうかよりも自分たちと自分たちの先輩のポストを守ることを最優先する…と説明がちゃんとできないから当然ながら事業が切られる可能性が高いわけで、だから官僚やお飾りの天下り理事でなく、現場で実際の事業をやっている人間が行けばいいだけの話ではないか? それは現政権の掲げる「脱官僚」「財政規律の健全化」「国民のための政治」といった目的にも、少なくとも理屈の上では合致するはずなのである。

ところがそう言う話をしても、周囲で理解してくれる人はいない−−というか、つまりは自分が行けばいいのだと言うところまでは分かったところで拒絶反応が起る。そんな説明したって議員とか仕分け人には通じない、とか言い出すに至っては、なにあなた方がやっている文化事業とか国際交流とか、そんな説明もできないほど社会に無益で無意味なものなんですか、と毒づきたくもなってしまう。「いや彼らは素人だから…」って文化ってそんな専門家だけが共有するスノッブなものなんでしょうか? それなら公金を使ってそれを維持する必然がそもそもないでしょう?

なにも難しい理論が要るわけではない。川端達夫 文科相がフィルムセンターの相模原倉庫を視察し、映画の復元のための細かな手作業をつぶさに見た上でぶらさがりの記者団に「こういうものはきちんと守っていけないといけませんね」とコメントしたそうだ。残念ながらそれはまったくマスコミ報道に使用されなかったらしいが、今回の政権交代が与えてくれるいろんな効果のひとつというのは、そういう本来の人間的な価値の側に向けた価値観の転倒、これまでの元からたぶんに非人間的だった上に経済観念のレベルでも虚飾が崩壊した価値観(「成長回復するが雇用は厳しい」のならそれはその「成長」の基準となる価値観の誤りが証明されただけだ)や、耐用年数を過ぎた官僚制度にまとわりついたしがらみを断ち切り、はっきり言えば我々日本人が人間としての本来の自由を取り戻すチャンスであるはずだ。

僕自身、かなり先鋭的な手法を使って、いわゆるテレビ・ドラマとかハリウッド商業映画、ドキュメンタリーなら「NHKスペシャル」とはぜんぜん違うスタイルで映画を作っているし、そういう基準から言えば「難解」な作品なのかも知れないし、『フェンス 第一部 失楽園 第二部 断絶された地層』(2008) なんてのを長島防衛政務官あたりに事業仕分けされたら日米安保の是非を巡ってまったく違った次元の大激論になるかも知れず(勝つ自信はありますよ、ちなみに)、年を越して大阪で撮影が続く即興フィクション映画『ほんの少しでも愛を(仮題)』では差別とか偏見、加虐とか虐待的な人間関係などの、かなりディープで必ずしも心地よいものでもないテーマも背景に、大阪の淀んだ地下水脈とも言うべき歴史の地層を意識化させる映画になって来てしまいつつもあるから、薄っぺらな「事業仕分け」なら、あるいは仮に助成金をくれる側の官僚が行ったりしたら、たぶん真っ先に「マニア向けのもので公共性がない」として切られてしまうだろう。

だが作っている側からすれば、見た人が「素人」でもなんでも誰でもいい、あくまでまともに知性と感性のある普通に賢い人々に見てもらえれば、そこで映画と一緒に考えてもらうための映画であり、一部の批評家だとか業界人には偏執狂的だとも言われるほどの執拗なスタイルと複雑な構成も、我々の生きている世界が複雑な場所である以上、その複雑さについて考えてもらうための選択であるつもりでやってることだ。

別にただ長廻しや断片を重層化する構成が好きだからというだけでやってるわけではない。フィクション映画であえて素人を使うのも、(もちろん映画的な実験でもある一方で)そこから真実の演技を引き出せれば職業俳優には難しい生身の人間の深みを見いだせるからだ。

通じるかどうかはともかく、一応自分のやっていることをただ「映画好き」とか「映画業界」のなかだけで通じるボキャブラリー以外のやり方で説明し正当化が出来るだけの論理は、日頃から準備しているし、そうやって常に意識化しているからこういうことをやり続けられるという面もある。というかたとえば素人を使うことについては、「演技」とか「俳優の仕事」に興味がある人以外は意識してもらう必要すらない、そのレベルで通用するくらいのことはやってもらっている(し、出来なければ消えてもらうしかない)。

そこから先は自分の説得力、それ以上に自分の作品の説得力の問題だろう。こちらは年に何本もある助成金の対象のせいぜい数年に一度の対象に過ぎないし、一応は芸術家のはしくれである以上、故ロバート・アルトマンに口癖のように言われ続けた「ヴァン・ゴッホは生涯で一枚しか絵を売っていない。芸術とはそういうものだよ。私は運がいいだけだ」という言葉をかみしめるしかないし、その覚悟は最初からしていなければならない。

公金を使った文化事業ともなれば、もっと普遍性のある一般的な議論でその事業の正当性を、突き詰めれば文化とは国や民族のアイデンティティの根本であることも含めて、堂々と理論化できる同時に、自分たちの事業がいかに社会にとっていちばん大切な人が人として生きるということの意味に貢献しているかくらい、いろんな形で説明できるはずだ。

もちろんそこには、小泉時代に嫌らしい勘違いで喧伝された「自己責任」とは違った次元の、真に哲学的な意味での「自己責任」を一人一人の日本人のなかで回復させる必要がある。小泉純一郎の時代のまっただ中に作った『ぼくらはもう帰れない』(2006年ベルリン映画祭出品作品、同年ペサロ国際映画祭『未来の映画』最優秀賞)という映画は、コメディタッチではあるものの、中心にあるのはそんな時代のなかでも本当の意味で自分の人生に責任を持つということの意味を模索する、模索しなければならない人間たちを見せることだった。もっともそれをやったのは別に僕の意図ですらない。集団即興のフィクションだったこの映画がそういう方向に収斂したのは、出演していた若者たちが自らそういう模索をすることの大切さに自然に気付いて行ったからに他ならない。

そういうことに気付くフィクショナルな映画の枠組みがあったから出来たことなのかも知れないが、今のこの新しい時代、歴史的転換のまっただ中とは、そういう枠組みが現実に我々を取り囲んでいることに他ならない。そのなかで我々にそれができるのだろうか? 政権交代から百日ちょっと経った今、そこに大いに不安を覚えてしまうのも確かだ。

率直なところ、昨年のうち半分以上を新しい集団即興劇映画、つまり出演者が自由にやりたいこと、表現したいことをやることからすべてが始まるはずの映画『ほんの少しだけでも愛を』を撮り続け、未だクランクアップできずに延々と続けているなかで気付いたことでもあり、「事業仕分け」をめぐっていろいろな知り合いと議論したことにもつながる−−この国の少なくとも半分以上の人々は、自由であるということ、自分が自由な一個人として自分の意思と良心でこの世界に関わって行くという、近現代の到達した人間存在の根本であるはずのことを、不思議なほど、まったく不条理なほどに、恐れているのではないか?

2010年がいろんな意味でこの僕の危惧が単なる杞憂、誤りであったことが証明される年になることを祈らずにはいられない。

…っていうか、そのためにも映画撮り終えないといけないな…。

12/22/2009

「皆さんは死刑廃止に賛成ですか、反対ですか?」


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大島渚監督作品『絞死刑』

大島渚のいかにも大島渚らしい挑発的なブラックユーモアと問題意識を叩き付けるこの映画の冒頭で掲げられた、昭和42年の法務省世論調査によれば、死刑廃止に反対は71%。最近の世論調査では質問の仕方がやや異なるが、死刑制度の存続に賛成は8割を超えている。殺人のような重罪は「死をもってしか償えない」というのなら、国家つまりその主権者たる我々国民が、たとえ犯罪者だとしても人を殺すことがなぜ許されるのか、どうにも論理的・倫理的な整合性をどうとったらいいのか僕には分からないのだが。厳罰で犯罪を抑止するというのも、「殺されるのがいやだから犯罪をやらない」というのでは随分と倫理レベルの低い話、人間を信用してない話に思えるし、まして冤罪だったらどうするんだろう?

昨日のTBS系列『ニュース23』でやってたのだが、刑事裁判に参審制で市民参加しているフランスでは、判決に参加する市民はまず刑務所の見学などを含む研修を受けるらしい。研修を受ける人に日本人の記者が「こういうことは日本でもやった方がいいと思いますか?」と質問された見学者が「absolument! absolument! absolument!」、「絶対に」と三度も繰り返しているのを、「やった方がいい」程度の字幕にしてたのはなんだかなぁ、と思うけど。

死刑制度がある日本では、やはり裁判員候補者は少なくとも死刑場の見学くらいはすべきでしょう。いや死刑執行に立ち会うのを研修に含めるくらいやったっていい。


なお年明けには東京国立近代美術館フィルムセンターで大島渚監督の回顧上映が開催されます。『愛のコリーダ』の(ほぼ)無修整版を「これが僕の最新作だよ。そう思って見て欲しい」とおっしゃってたのが、初日舞台挨拶の直前に倒れられてもうそろそ10年…。当時すでに一度倒れられて多少は言語障害が残っていたのに、雄弁な大島節は健在で、ずいぶんからかわれ、いじめられながら(笑)いろんなお話を聞かせて頂いたものだが…。

映画監督 大島渚
Nagisa Oshima Retrospective

上映作品リスト
スケジュール

12/19/2009

慶應大学で講演と『フェンス』上映




慶應大学(日吉)で、横浜の寿町に拠点をもうけてドキュメンタリーを撮る実習をやるそうで、その準備のためのワークショップを、というわけで12月22日(火)に当方の最新作『フェンス 第一部 失楽園 第二部 断絶された地層』(2008)を特別に先行上映し、「ドキュメンタリーの作法」について学生さん向けの講演をやることになりました。

10月の山形国際ドキュメンタリー映画祭での国内初上映以来、首都圏では初の上映になります。学内でのイベントですが、別に非公開でもなく、この機会によろしかったらご覧下さい。





日吉映像フォーラム
第一回ドキュメンタリー・ワークショップ
『フェンス』上映と藤原敏史監督に訊く


本ワークショップでは、ドキュメンタリー作品の製作を目標として、ドキュメンタリーというアクチュアルなメディアについて理論的および実践的に学習していきます。初回は、気鋭の若手監督藤原敏史氏の『フェンス』(2009年山形国際ドキュメンタリー映画祭出品作品)を上映し、藤原敏史監督と映画批評家の杉原賢彦氏をゲストに迎え、逗子市の池子米軍基地問題を扱った上映作品について徹底的に議論します。

上映作品
『フェンス 第一部 失楽園 第二部 断絶された地層』  
  製作 安岡フィルムズ 羅針盤映画 製作協力 逗子市
  プロデューサー 安岡卓治 藤原敏史
  撮影 大津幸四郎
  音響監督 久保田幸雄
  監督/編集 藤原敏史
2008年 日本 第一部83分、第二部84分 デジタル(HD) カラー (DVD上映)

米海軍池子家族住宅を取り囲むフェンスそのものを執拗に撮り続けていくことによって、その存在の物質性を強く印象づけると同時に、そこに生きる人々の記憶の諸相を丁寧に記録することによって、フェンスの横断する森の生命力に比するものを人々の語りのなかから紡ぎだしていく、詩的なドキュメンタリー作品。 
「藤原監督はとても自然にインタビュアーとして画面に映っていますし、何より特徴的だと思ったのは、何の気負いもない少し不器用なくらいのナレーションが入っていることなんです。そうした作家の等身大の身体性みたいなものによって、世界と真摯に向き合っていく。それがおばあさんたちの本当に魅力的なインタビューを際立たせていているように感じました。3時間あるのに長さを感じさせない、というよりも、時間を追うごとに彼女たちの語りが、藤原さんとの関係性においてたしかに輝きを増していくんですね。不器用さとないまぜの作家の真摯さみたいなものを、大津幸四郎さんの構えた画面のそこかしこから感じられるんです。いくつもの質の異なる時間軸が交差する中で、ひとつの場所についての物語が思考され語られていく。硬派なテーマなのに、観客を選ばない作りの映画になっています。」  萩野亮、「ドキュメンタリー映画の最前線メールマガジンneoneo」2009.12.1号 




監督ステートメント
作った人間としては、これを在日米軍をめぐる政治的な映画としては見てもらいたくない。この二部作は失われてもはや見ることのできない“ニッポンのふるさと”をめぐる、記憶することと、見られないことについてのものであり、僕自身が池子と直接関係のない人間であるにも関わらず、自分の極めてパーソナルな思いが、我々が見せるものと見せないもののすべてに、滲み出ていればいいと思う。

藤原敏史、2009年8月


ゲスト
藤原敏史(映画作家)
杉原賢彦(映画批評家、本学講師)

司会
佐藤元状(法学部)

日時:12月22日(火) 16時30分開場/16時45分開演(終了は20時を予定しています。)
場所:慶應義塾大学日吉キャンパス 独立館D404教室
主催:慶應義塾大学教養研究センター

12/14/2009

さすがに腹が立って来た

9月の政権交代以来、マスコミの報道が次第におかしくなって来ている。最近となるともう、ある種の意向が働いての露骨な印象操作の偏向報道としか思えない。

まず「日米関係最大の懸案」ということに半ば捏造の偏向報道の連日連発で持ち上げられてしまった普天間問題。この騒ぎ自体がある意味マスコミ報道が作ったもの、それを報道させているのは日々リークに余念がない外務省と防衛省の官僚なのだろうという推測くらいはすぐ着くのだが、報道する側の態度がこれまたいくらなんでもひどすぎる。

アメリカと対立することはアメリカのご機嫌を損じることになるのでいけないから、日米合意通りに辺野古沖に基地を移転するよう鳩山政権が決断すべき、という主張だけでも、いったいどこの国のマスコミかと呆れてしまうわけだが、先日驚いたのは「鳩山政権は日米同盟と社民党との連立のどっちが大切なのか?」と“アメリカの高官”とやらが不快感を表明したという報道。

そもそも論として、アメリカ政府関係者がそんなことを言い出したらさすがに「露骨な内政干渉」「アメリカの単独覇権主義はオバマ政権になっても変わってない」という批判が噴出して当然だろうに、そんな論調はまるでなし。

それにしても冷戦が終わって20年、アメリカ以外の先進資本主義国では社会民主主義系の政権が出来るのもごく当たり前になった現代に、「社民党」つまりSocialismが党名に入ってる旧・社会党だからってアレルギー発揮してる“アメリカの高官”ってどこの馬鹿かよ、と呆れて聞いていたら、なんと出て来たのはアーミテージ元国務省副長官と、グリーン元大統領補佐官…?

…って、オバマ政権じゃなくて政権交代で失職してるブッシュ政権の高官じゃないか。せめて「元高官」と言えよな。こりゃ悪質な虚偽報道に限りなく近いよ、こうなると。

さらに驚いたのが、その発言の場が見るからに日本で行われたシンポジウムだったのに、主催者が誰かもまるで報じられない。あからさまに日米安保関連の利権に関わってるような団体が開いた会なのだろうが、防衛省の次官がそういう利権にまつわる汚職で逮捕されたのも記憶に新しいというのに、いたいどういう報道だよ。だいたいアーミテージなんていわゆる「共和党系親日派」、俗にいう「日米安保で食ってる連中」の代表格なのは日米外交を報じるにあたっての常識だろうに。

ホワイトハウス報道官が、自らはあえてアメリカ側の立場を発言せず、記者からの質問でやっと「我々にも立場がありますよ。以前に決まった合意があるので、それが立場です」と単に事務的に応じたことも、英語で聞いてればことさら特筆すべき発言でないのに、字幕と解説であたかも重大発言のように歪められて報道される。

訊かれたから答えただけ、自分から言ったわけではないという単なる事実、さらにはオバマ政権にとって普天間問題なんて日米政権においてさして重要な問題とみなしてすらいない現実は、決して報道されない。COP15で米政権がその問題で日米首脳会談を希望されても困ると言ったのだって、地球温暖化対策にアメリカも参加させることが重要な政権課題なんだから、そこでそんな話を持ち出されるても困るというだけの話だ。

オバマ来日の少し前に、沖縄で米兵によるひき逃げ事件があった。大統領来日前に非常に微妙な立場の司令官がわざわざ謝罪と捜査への協力を表明に当該の市の市長を訪問したことすらちゃんと報道しないのは毎度おなじみの風景ながら、そんな態度だからオバマが日本に24時間弱だけ滞在して中国に行っちゃったとたんに、アメリカ側は捜査協力すら渋り出すのもある意味、当たり前である。日本国民の命が奪われてる事件なんだから、首脳会談でアメリカ側に詰め寄るよう求めるのは日本の論壇として当たり前のことだろうに。

いったいなんなんだよ、と思ったら、今度は中国副主席来日で天皇が会うことになったことについて、宮内庁長官の下らん発言、というか倒錯としか思えない越権発言を針小棒大にとりあげ、「一ヶ月前」とかいう誰も知らないルール…ですらない、宮内庁のごく最近できた内規に過ぎないことをめぐって大騒ぎするのがこれまたおかしい。

小沢が激怒したのは、悪いけど小沢サンが全面的に正しいです。そんな宮内庁の言い分を正しいかのように報道するのは、「統帥権の独立」をタテに出来た旧大日本帝国憲法の欠陥を、今度は成文法ですらない曖昧さで正当化するのに等しい暴論に過ぎない。こうなると「天皇は象徴」とだけで曖昧にあえてすませた日本国憲法がかえってヤバかったのかな、とすら思えて来る。

この一連の報道における言外の言は、小沢訪中団への批判も含めて、要するにアメリカとの関係を悪くして中国と仲良くやるのはけしからん、っていう奇妙な理屈なのだろう、典型的な霞ヶ関の発想として。

当の政権内では防衛大臣が完全に防衛省の役人とそれを取り巻く利権グループに取り込まれ、岡田外務大臣も日米安保にからむ密約問題を調査させながら、それとこの問題をちゃんと連動させられないのだから情けない。

バカな宮内庁長官は「天皇陛下は中立でなければいけない」って、内規をいいわけにしてその実中国の要人だから天皇に会わせないって言うんじゃ、それこそ典型的な政治利用じゃないか。

そもそも天皇が外国要人に会う「皇室外交」自体が、天皇の政治利用に他ならない。だからこそ国際親善程度にその役割を限定すべきであり、国際親善なら隣国の要人に会うのがなにが悪いんだか。ただの表敬訪問にしかならんだろ、どうせ。断る方こそ日中関係を犠牲にして日本を米国の属国にしておきたい連中の政治的スタントじゃないか。

日本の国益を考えるなら、どちらも重要な外交パートナーであり、どちらの国にとっても日本との関係が重要なのだから、そのあいだで絶妙なバランスをとるのは当然の話。とくに鳩山政権は日米安保の見直し・再定義を重要な政策課題にしている以上、多少はアメリカを焦らせるのは当然やらなければいけないことだ。

オバマのアジア歴訪の際のアメリカの新聞報道でも見てみればいい。アメリカはアメリカで日本が中国との関係を密接にし、そこでアメリカが取り残されることを極度に警戒している論調が目白押しだった。だからこそアメリカが日本との良好の関係のために妥協するように導くのも、当然の外交戦略に決まってるだろうに。一方で中国は日本にとってもアメリカにとっても最大の貿易相手国なんだぜ? まったく利害というものが考えられないのかよ、日本の「政治」の専門家さんたちは。

アメリカ側が一応強気のポーズをとるのは、これまでの日米関係で自民党政権と霞ヶ関は常に外圧、というかアメリカの圧力に弱かったからなのと、外交交渉である以上最初は強気のポーズをとるのが常識だからに過ぎない。

また今回の場合は日米安保の見直し・再定義がその先にあるからこそ、強気にしないと足下を見られるネタ、つまり日米安保のなかで密約を日本に強制した過去や、辺野古沖への移転自体がアメリカの国内法にひっかかる可能性があるから。あとアメリカ側の一部勢力として、つまり例の日米安保で食ってる連中んとって、当然ながら安保の再定義をアメリカ有利にやりたいから。「おもいやり予算」ですら事業仕分けの対象になるのだから、その点ではアメリカ、というか「親日派」の利害は確かに脅かされているし、国防総省を中心にそういう勢力はまだ残ってるわけで、なにしろホストネーション・サポートがここまで手厚い同盟国/米軍駐留国は他にないんだし、自衛隊の装備でもアメリカ企業がボロもうけしている一方で、日本の先端技術の力が米軍の兵力維持にも重要な役割は果たしているわけで…というのが在日米軍を維持したいアメリカ側の最大の戦略的理由、「アメリカが日本を守ってくれる」って、いったいどこから守るの? ってのがアメリカ側の現実的な本音なんだが…。

そんな事情はマスコミだって「専門家」なんだし分かってるはず、それを相手の政治情勢を冷静に分析もせずに(できるはずなのに)、ただひたすらここまでびびっていて、いったいどうするだろう?

オバマ政権にしてみれば、アフガン問題や地球温暖化対策と、大統領本人の悲願である核軍縮での方が、よほど日本の協力を求めているのに、民主党政権だってもっとはっきりと「国際協調路線」を打ち出すべきなのだが、その辺りがかなり情けない。

鳩山さんもボンボンの強みで「そりゃ原案どおりなら誰も苦労する必要はないわけで」というわけで、これだけマスコミやらなにやらがわーわー騒ごうがどこ吹く風な態度を貫けるのはたいしたもんだが、自分の内閣をうまく制御できてないのはさすがに困る。

北沢防衛大臣がまったくのダメ大臣で、民主党次世代の期待の星だったはずの岡田さんも外務官僚相手に悪戦苦闘中だからって、肝心なのは彼らが鳩山さんの大臣なのだということ、外交である以上海外から見えるのは、日本で見るのと違って一人一人の大臣ではなく、あくまで鳩山政権、鳩山首相の判断に見えてしまうのだから。

オバマ政権もこの点についてはとくにイライラするし、それはある意味当たり前のことである。そんなところで弱みと取られることを見せてしまっては、外交はやってられない。

やっぱり小沢が首相になった方がよかったのかね。もっとも、だからこそ霞ヶ関官僚機構は、政権交代の前に小沢政権の芽だけは潰そうとしたわけなんだが。

11/17/2009

実は元特攻隊員、田英夫氏死去


前参議院議員で、その前にはベトナム戦争中に西側メディアで初めてハノイに入って取材(同時期に「メディア」ではなく政治映画でヨリス・イヴェンスと妻のマルセリーヌ・ロリダン、ロバート・クレイマーらのニューズリールや、後では女優のジェーン・フォンダなんかもハノイ入りしているが)、自民政権の圧力でキャスターを辞めさせられると今度は参議院議員選挙に立候補、社会党、社会民主連合、社民党で計6期を努めた田英夫さんがさる13日に亡くなっていたことが分かった。

「特攻隊」の生き残りについてのドキュメンタリー企画が数年前からあって、ぜひ一度お話を撮影させて頂きたかったのだが、こちらの出資がなかなか集まらず、田さんのご健康状態もあって実現せぬままでした。冥福をお祈りします。