最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

3/28/2011

ロシア映画の知られざる鬼才、アレクセイ・ゲルマンを讃えて

アレクセイ・ゲルマン『フルスタリョフ、車を!Хрусталев, машину! 』(1998)冒頭シーン

アップリンクFACTORYで開催中のロシア/ソビエト映画特集「100年のロシア」には、アレクセイ・ゲルマン監督の脅威の傑作(という褒め言葉も陳腐に思えるほど凄い映画)『フルスタリョフ、車を!』がプログラムされている。

恐らく1990年代の世界映画でもっとも傑出した怪作であり、世界中どこでもDVD化されていないらしい、いわば幻の、そして呪われた映画は、「奇妙だ」の一言で始まる。


1999年のカンヌ国際映画祭に出品されたものの、無冠で終り、同年の東京国際映画祭での上映では、ゲルマン監督は冗談めかして「東京の観客は素晴らしい!カンヌでは最後まで誰も残っていなかったのに、東京では誰一人出て行かなかった!」と笑っていた。


実はその年の審査委員長であったマーティン・スコセッシは、この映画を「凄い!」「パワフル!」と絶賛している。

なのに無冠で終ったのは「困ったことになにがなんだかさっぱり理解できなかったのだ。だから他の審査員を説得できなくて」。

…と伝えたら、ゲルマン氏は不敵に笑っていたわけだが…。

結局、日本の劇場公開時の宣伝コピーは、このスコセッシの発言を引用させてもらい、「なにがなんだか分からないが、凄い!」となった。

しょうがない、説明不能なほど凄い映画なのであり、そしてさっぱり理解不能なのである。もう見るしかない、感じるしかない映画であるのは、このトップに掲げた冒頭の長廻しショットを見るだけでも、予感できるだろう。

アレクセイ・ゲルマンの圧倒的な不条理の演出力に引き込まれるのと同時に。

スターリン時代の体制側の小説家だった父ユーリ・ゲルマンの人気小説の刑事をあえて主人公とした『わが友、イワン・ラプシン』を、ソビエト体制が崩壊に向かう1984年に発表して以来、14年の歳月を経て完成させたこの寡作の天才の、この現時点でもまだ最新作の映画は、「奇妙だ」と言うナレーションの声で始まる。

   『わが友、イワン・ラプシン』

イワン・ラプシンを主人公とする小説シリーズは、いわゆる社会主義リアリズムの典型的なヒーローとしての、共産主義を信じて悪と闘う刑事を描くものなのだそうだが、息子アレクセイによる映画化は、そう一筋縄でいくものではない。


現代の、50年後に老人となった語り部の現在を見せるプロローグから始まる『わが友、イワン・ラプシン』の冒頭で、その語り部は「これは過去に共に生きた人々へのラブレターだ」と宣言して始まるのだが、その回想のなかの少年時代、1934年の過去、スターリンの大粛正直前のソビエトは、まだ共産主義を純粋に信じられた時代へのノスタルジアと同時に、それが未完成のまま腐敗して崩壊してゆく予兆に、満ちあふれもいる。


誰もが懐かしみながら、誰もが語りたくない時代を、アレクセイ・ゲルマンは賞讃でも断罪でもなく、たた浮かび上がらせる。その複雑な感情のすべてを内包しながら。

そしてソ連がなくなったあと、満を持して発表された『フルスタリョフ、車を!』は、これまたソビエト史の、20世紀のロシア人たちの集合的記憶の、これまたもっとも決定的な瞬間をめぐるものだ。

そのことは題名だけで、すでにロシア人にとっては自明のものなのだそうだ。

「フルスタリョフ、車を!」とは、スターリンの死の直後に側近のベーリアが叫んだとされる有名な言葉だという。

   『フルスタリョフ、車を!』

今回も上映される国際配給バージョンは、冒頭にこれが1953年を見せる映画であること、その政治情勢(白衣の陰謀団事件など)を説明する字幕がつくが、これはロシア公開版や、カンヌや東京国際映画祭で上映されたバージョンにはない。

公開版の日本語字幕では「スターリン閣下!」という台詞の翻訳字幕があるが、これも元のロシア語の台詞にはない。「大元帥同志!」と言っているだけだ。

だからこの冒頭の三分間の長廻しのショットに続く139分のあいだに渦巻く、陰謀と迫害と愛憎の怒濤の悲喜劇は、もしかしてこのボイラーマンという人物がクリスマスか新年のものらしき電飾の電源をショートさせてずっこける、このことだけがきっかけで始まるようにも見えてしまう。

…というのも、本当になんの説明もないので。

   『フルスタリョフ、車を!』ロシア公開版、冒頭部

そう言うと、ゲルマン監督は「そうなのかも知れませんよ。あの事件が全てのきっかけであったとしても、ちっともおかしくないのですから」と平然とおっしゃるのである。

そうであってもおかしくない−スターリンの死の前後の混沌とは、まさにそういう「わけのわからない」ものなのだ。

この映画も、『イワン・ラプシン』と同様、当時は少年だった語り部の、半世紀近く経った思い出として、観客に提示される記憶の映画だ。

   映画の語り部となる主人公の息子

その記憶は現実だけが持つはずの生命力にあふれながら、陽気な悪夢のようでもあり、悲劇であるはずなのに、滑稽でもある。


アレクセイ・ゲルマンは1938年生まれだから当時は14歳か15歳。この語り部はゲルマン本人の分身なのかも知れない。その語り部の声の、この映画で最初に発せられるひとことは、「奇妙だ」である。


語り部は脳外科医の軍医少将である主人公の息子だ。その父はまさに「奇妙だ」でもあり、またわけのわからない陰謀にはめられたのか、自らの自己破壊的な欲望に追い立てられたのか、地位を奪われ突然迫害される立場になり、奇妙な運命をたどる。

密告があったらしいことは分かるが、ただそれがどんな政治的な陰謀だったのか、なぜそうなるのか、それはさっぱり分からない。ひたすら混沌している。


「つまり私が子供の頃は、そういう時代だったんですよ。私にも分からないことを正直に映画にしてみただけなんですから、あなたにもし分かったら、ぜひ教えてもらいたいですね」とゲルマン監督が言うのは、どこまで本気でどこまでブラックジョークなのか…


「それはどうなんでしょうね、私にも分かりませんよ」と不敵に笑っていたアレクセイ・ゲルマンは、今年じゅうにはやっと13年ぶりの新作を完成させるそうだ。

しかしその新作もどうもスクラダノフスキー兄弟原作のSFらしいけれど舞台は中世だという、やっぱりわけが分からないので、とりあえず今は『フルスタリョフ、車を!』をこの機会にぜひ見直すことをお薦めしたい。

この文字通りわけが分からないけど凄い…いや、わけが分からないからこそ凄い映画は、「くだらねえ!」という叫びで終る。

   
「奇妙だ」で始まり、そして「くだらねえ!」

ふと思うと、原発の事故で危機にあるはずのこの国の現状も、この形容がぴったり当てはまる気もする。

ただひとつだけ違うのは、「奇妙」で「くだらない」政治の混沌のなかで、1953年のソ連人たちは大いに間違って大いに堕落していて大いにくだらないとしても、それでも生命力にあふれて誠実にくだらないことだ。

今の日本でこの生命力と誠実さがあるのは、恐ろしく皮肉なことに、政治家やジャーナリストたちのくだらないコップの中の嵐(原子力が暴走しているのに)なぞとは無縁に、懸命に生き延びる闘いが続いている、震災の被災地だけなのかも知れない。


『フルスタリョフ、車を!』の上映は3月30日(水)18:00〜、渋谷アップリンクFACTORYにて

3/27/2011

福島第一原発の事故と放射能が問いかけるもの

一昨日のエントリーでは原発事故それ自体の解説、昨日は放射能についてパニックにならないための基本的な考え方をざくっと、できるだけ分かり易く説明してみたのは、普通の一般人でも分かる範囲までは理解して、少しでも不安やパニック、風評被害の拡散を押さえられればと思ったからだ。

なかには「お前は放射能の怖さを分かってない」と反発する人もいるかもしれない。

だがそれなら、奇しくもこの事故が現実になることなど(いつかは必ず起るだろう、と思ってはいても)誰も現実として考えていなかった先月のこのエントリーも見てもらえればありがたい。

広島から西に30キロほど、山口と広島の県境で開業する医師であった祖父は、1945年8月6日午前8時15分にキノコ雲を目撃し、その夕方には今まで見たこともなかったような火傷の患者を多数診察した。

その翌日以降には、広島市内に行方不明の親族を探しに行った人たちがいた。彼らは帰って来て数日後には脱毛が始まり、体中に内出血が現れ、手の施しようもなく死んでいったことも、幼少時に祖父から聞かされた。

8月6日は広島県の各地から、勤労奉仕で多くの小学生、中学生、高校生が朝から広島市内に出向き、建物疎開にあたるはずだった。ウラニウム型の原子力爆弾が、その子供たちの上にも炸裂した。

祖父が開業していた和木町の隣町である大竹市の多くの子供達もその閃光に身を晒し、多くの親族が入市被爆者となり、祖父はその人たちの苦しみを前に、なす術もなかった。


    アルブレヒト・デューラー『祈りを捧げる手』(1508)

戦後、この地域は瀬戸内工業地帯の一部として石油化学工場ができ、自治体は大いに潤った。だが町立小中学校の校医でもあった祖父は、子供の健康診断で見えて来たことに疑問を抱き、最初に公害の健康被害の影響を研究し始めた一人となった。だがその研究は、それまで祖父をいわば名士として尊敬して来た町の人々には、決して快く受け入れられたわけではない。

石油化学工場の税収で「西日本で最もリッチな自治体」にもなっていたからである。

その祖父が亡くなったとき、入院していた広島日赤病院の病室の、向かいの建物は原爆病棟だった。

それならなぜ今回の原発事故で不安にかられないのか、と問われるかも知れない。

単純に、すでに昨日触れたように、今回の事故が原爆とは違うし、チェルノブイリのような臨界にある原子炉自体の爆発ではないからだ。

今のところ飛散している放射能の量は、広島の黒い雨などとは、比べ物にならないほど少ない。

放射性物質の降下は、まだ「死の灰」と呼ぶような量ではない。

東京で我々がうろたえて、不安のはけ口か不安からの逃避であるかのように、政治ごっこに奔走し、不信を愚痴ったり保身に走ったりしている結果、現に起っていることは、およそ「いいこと」ではない。

「情報を隠している」「情報公開しろ」との批判に過敏になっている政府は、規制値を越えていても「健康にただちに影響はない」と言っていたはずの農産物を、しかし検出された場所の詳細な特定もなしに、福島県産、茨城県産十把一絡げに、それも出荷停止だけでなく、摂取制限まで出してしまった。

それを「念のため」と言うちぐはぐな対応が、震災被災地の農業に壊滅的な打撃を与えることは、避けられないだろう。

これでは震災復興どころではない。

それどころか福島県出身者や、自主避難して来た人への宿泊拒否などの差別も始まっている。昨日も随分しつこく書いた通り、放射線被曝は伝染病ではないのだが…。

しかも政府は、今度はその食品や水の放射線の規制値を見直すという。政府自ら自分達の信用性を失墜させ、不安を煽っている。

一方でその政府を批判する者の多くが、今度は「政府と東京電力はちゃんと補償しろ」「いやすべて東京電力の人災、東電の責任なんだから国民の税金は使うな(悪の巨大資本の東電がこれで潰れればいい)」と言えば、それでいい、自分は正義の味方だと認められるとでも思っているかのようだ。事故の結果が悪ければ悪いほど、賠償が巨額になって東電が潰せるという願望なのだろうか?

被災地の人々が故郷を失う痛みは、金銭の問題ではないのに。

そんな冷静さを欠いたヒステリーをなんとか押さえたいがためにも繰り返すが、放射線の健康被害はあくまで量と期間、その累積の問題だ。そして個人差もある。

規制値はその期間を前提に厳しく設定されている。政府はそれをちゃんと説明し、だから福島第一原発の危機が短期的に、せいぜい数週間のオーダーで終るのだとしたら、まだそこまで不安になる必要はないのだと、なぜちゃんと言えないのだろうか?

再び念を押しておこう。

放射線の健康被害はあくまで量と期間、その累積の問題であり、その影響には個人差がある。

科学的には、その個人差による影響の大小をを確率的に推計した上で、一定の値以上は危険だと言うしかないし、その線引きは常に議論の余地がある。

規制値とはそういうものであり、ある程度の長期を想定して、さらに低めの値を決めているので、2、3日とか数週間なら「健康に影響を与える可能性は低い」ということになる。

詳しくは昨日のエントリーに書いた通りだ。

  アルブレヒト・デューラー『読書する聖アントニウス』(1517)

とはいえその「あくまで量と期間、その累積の問題」の例として、昨日はメチル水銀中毒を比較例にしたのだが、もっと分かり易い例があったと思う。

なにしろ放射線と化学物質では、やはり飛躍が過ぎる。

たとえば、実は我々は自然界から常に放射線を被曝している。

これはまだ地球には大気圏があるからいいような話で(ほとんどがそこで阻止される)、宇宙空間は放射線に満ちあふれている。

この地球が我々の生存に適した環境であるために不可欠な太陽が、核融合反応でエネルギーを発散しているのであり、そこには光線・熱だけでなく、多量の放射線も含まれているのだ。

地球上の我々に届く太陽光のなかにも、紫外線のように健康に大きな影響を与えるものもある。

これもまた、量と期間の累積と、個人差の問題であり、紫外線の例は我々すべてにとって、とても身近なことだ。

日焼けをするのは紫外線の影響だ。まず人によっては健康的な小麦色の肌にもなるが、度が過ぎれば死んだ肌の組織がぼろぼろにはがれるし、同じ日に同じ場所で同じ時間いっしょにいても、肌に火ぶくれを起こす人もいる。

一方で紫外線を浴びることで、人体はビタミンDも生成する。紫外線への耐性が低く直射日光を浴びるだけで命の危険がある難病の人もいて、この人たちはビタミンDを錠剤等で補充しなければならない。

さらにその一方で、とくに白人の場合、フロリダに住むヨーロッパ移民の子孫であるとか、イスラエルに移民したとくに東欧系ユダヤ人の場合、その地域の強い日光、とくに紫外線を一生浴び続けた結果、皮膚がんが増える。

もちろんこれはあくまで「増える」だけであって、日光の強い地域に長年暮らした白人(=メラニン色素を作る能力が低い)が、みんな皮膚がんになるわけではない。

放射線の影響も、同じことだと言えるだろう。

…というより、太陽の発するものを熱とか可視光線と捉えたり、赤外線、紫外線(この2つに至っては、ただ人間の眼に見えないだけで、他の多くの動物には感知する能力がある)、あるいは放射線と区分けするのは、ひたすら地球上の我々の都合に過ぎないことであって、太陽にしてみればまったく知ったことではない。

一昨日のエントリーでも強調したように、自然現象とはしょせん、我々の都合とは無関係に存在するものだ。

そして我々もまた、しょせんはその自然現象の結果として存在を許されているのに過ぎない。

原発とは、その自然現象を我々の生活のエネルギーの必要性という、つまりは我々の都合のために利用することのなかでも、もっとも極端な部類に属するものだと言えよう。

膨大なエネルギーを得られると同時に、巨大な破壊力というリスクもある(それをエネルギーとみなすか破壊力とみなすのかもまた、しょせん人間の都合であり、核分裂反応にとってはそんなのは知ったことではない)原子力というものを、我々には使いこなすだけの資格や能力があるのかどうか? 問題はこれに尽きる。

僕から見て福島第一原発の危機的状況が続いた2週間は、この日本という国と社会の構造にも、我々日本人の一人一人にも、原発なるものを扱う資格も能力もまったくない現実をつきつけたのだと、思う他はない。

   アルブレヒト・デューラー『メランコリア』(1514)

これは自然、この世界に対する態度としての、我々の無自覚な傲慢さの問題なのだろうと、思うしかない。

日本人は古来、自然と世界という、人間にとっては自分がその一部であると同時に、究極の、思い通りにならない他者に対する、独特の畏怖を込めたつき合い方の文化を発達させ、洗練させて来た民族だ。

江戸時代までは確かにそうだったことは、このブログでも以前に触れた通りである。

福島第一原発の危機的状況と、それをめぐる我々の右往左往ぶりは、我々がその民族的なアイデンティティを失いつつあることを、はっきり示している。

しかもこの日本人の総体の自己喪失は、もう国と社会の構造としてそうなっていて、そしてその構造は我々の意識に無自覚に刷り込まれている。

たとえば、原発事故のための避難・退避区域は、原発からの距離で同心円状に決められている。

これは現実的にはやむを得ない話であろうが、実際には福島第一原発から飛散する放射能は、核燃料自体やその核分裂反応から直接発散される放射線ではなく、そこで生成された放射性物質から出ている放射線がほとんどのはずだ。

核燃料自体は原子炉では圧力容器と格納容器のなかにあるのだし、使用済み燃料は一応水で覆われているはずで、どっちにしろ開口部は上方向だけだ。

念のため言っておくと、ヒステリックな人のなかには、放射線量ではなく放射性物質が問題なのに、文科省のモニタリングが放射線の計測値だけなのは「内部被曝の問題の隠蔽だ」と叫ぶ者もあるのだが、これは完全なナンセンスだ。

各地の放射線量は、基本的にそこに降下した放射性物質の微粒子の量を表すものになる。計っていることになるのは当然ながら、その放射性物質から出ている放射線なのだから。

直接の放射線ならその量は距離に反比例して減って行くが、放射性物質の微粒子は、要は塵であり、塵は風によって運ばれて、とくに雨によって落ちて来る。

風向きによって飛散にはムラがあるから、20Km圏とか30km圏とか、米軍の出している50マイル(80kmと報じられるが、米国のマイル計算でキリがいい数字であるだけだ)は、とりあえずのものでしかない。

風もまた、人間の都合とは無関係に吹いていて、刻一刻変わるのだから、ここまではやむを得ないにせよ、気休めといえば気休めだ。

塵なのだから遠くに離れれば離れるほど、どんどん落下して量は減っていくのだから、大まかには間違いではないにせよ。

ところがその同心円状に設定された避難圏に一部だけがひっかかる福島県いわき市や南相馬市では、避難区域ではない地域でも、物資の輸送が滞ってしまった。

なんというバカバカしい恐怖への反応なのだろう? 風まかせの微粒子の飛散に、行政区分が関係するわけがない!

   A・デューラー『黙示録:バビロンの大淫婦』(1498)

東京都で水道水から規制値を超える放射性ヨウ素が検出されたのは、利根川から取水している金町浄水場からだ。関東の他の県でも、利根川水系を使った水道水で同様の問題が起きている。

それだって今のところは、まだそんなに危険なものではない(乳幼児は除く)のは、WHOでも発表しているし、昨日このブログでも触れた通りだ。

だがもう滑稽で笑うしかないのは、たとえば僕の実家の水道は多摩川水系なのに、その近所のスーパーでもミネラル・ウォーターがあっというまに売り切れているのだ。

だから利根川水系で放射性ヨウ素が出るのは、風でその上流域に運ばれて、雨でまとまって降下した微粒子が溶け込んで溜っていたからなんだって! 「東京都」という人間が勝手に決めた行政区分などとは、関係あるはずがないって!

だがこの愚かさは、決して一般の人々のそれだけではない。既に批判した政府による農作物の出荷制限、摂取制限のもうひとつのナンセンスさは、「福島県」「茨城県」と、十把一絡げにその行政区分のなかの農作物を指定していることだ。

そんなこと、風まかせの放射性物質の塵の飛散には、もちろんなんの関係もない。

しかし政府も我々も、そのことになんの疑問も持とうともしていないし、一方で「そりゃおかしいだろう」と思ったところで、他の指定のやり方も見当たらない。我々の社会そのものが、この行政の官僚主義な制度にがんじがらめで、それ以外の発想が出来なくなっているのだ。

都道府県なんて日本の歴史のなかでも比較的新しい区分に過ぎない、単なる近現代の都合でしかないのに。

このような、人間の傲慢と勝手な決めつけが社会システム化して、その区分けが完全に意識に刷り込まれている国民に、果たして原発などというものを玩具にする資格と能力があるのだろうか?

実際に事故が起っているこの期に及んで「原子力がなければ経済が」と言っていられる推進派がいるとしたらその彼らも、その推進派や東京電力、政府について、「嘘だ隠蔽だ人災だ」とか言っていれば、「反原発」になると思ってる輩も、同じくらいに傲慢であり、そして愚かで、鈍感だと思う。

日本人のアニミズム的な心性が歪んだ悪い形で暴露している感すらある。「祈り」や「自然への畏怖」には背を向け、ひたすら人間同士の憎悪に走り、鬱憤を晴らすことで自分の不安を忘れようとする。その言い訳が「反原発」であるような扇情的な言説に、なんの意味があるのだろう?

   アルブレヒト・デューラー『書斎の聖ヒエロニムス』(1514)

人間は確かに感情と情緒の生物だ。だが我々の情緒とは、まずなによりも良心と思いやりでもあるはずだ。

そしてその一方で、我々には人間としての理性もあるはずだ。

少なくとも「放射能」「原子力」「メルトダウン」と言った上辺だけの記号としての言葉だけで「死の灰」などに安易に結びつけたりして、ただ恐怖におののきパニックになり、ほんの数百キロ先で生死の狭間を生き抜いている震災被災者たちのことすら忘れてしまうのは、我々が人間であることの根源的なプライド、尊厳を棄てることになる。

放射線による健康への影響は、昨日さんざん繰り返したように、あくまで量と期間、その累積の問題である。

原爆症のようなことがある以上、昨日も書いたように科学的にいって少量の放射能でもまったく身体に影響がないとは言えない。

だが疫学的・統計的な調査に基づく(そして日本には65年前からその膨大な蓄積があることも忘れてはいけない)確率論でいえば、今のところそこまで極端に不安に怯えてカタストロフィをいたづらに喧伝すべき合理的な理由は、まだない。

むしろ我々が狼狽えることはそのまま、震災の被災地の人々を無駄に苦しめることにもつながることにも気づくべきだ。

政府の致命的な判断ミスによる不信と風評被害が、震災と原発事故で打ちのめされた人々の故郷を、回復不能なまでに痛めつけかねないのは、既に述べた通りだ。

安易なパニックごっこで危険だ、避難地域を広げろ、口先だけの「最悪の事態」を口にする前に、福島第一原発の周辺から強制的に避難させられた人々のことも考えてみよう。

その地域もまた、推計14mの大津波に破壊された。

誰もが口をつぐんで語ろうとしないことのようだが、地震に揺さぶられて津波に押しつぶされた家々の瓦礫の下で、まだ生きていたかも知れない親族や隣人を、助けることすら許されなかったのだ。

ちょっと考えれば誰でも思いつくことなのに、誰も言おうとしない、考えすらしないのは、なぜなのだろう?

これがただ「だから東電がけしからん」で済ませられる問題だろうか?

政府のやり方が稚拙で無責任なのはその通りだ。だがこういう稚拙で無責任に「やることはやりました」的なエクスキューズを連発する政府を許容し、選び続けて来たのは誰なのか?

いやこんな言い方では、まだ生ぬるい。

そういった上っ面の教科書通りだけでしかないエクスキューズをやらなければ、ここぞとばかりに批判と袋だたきに終始することが既に習い性になっている国民とは、いったい誰なのか?

「日本を信じている」「みんなで頑張ろう」と口先だけは言いながら、原発事故ですら批判と袋だたきの政治ごっこに利用している我々ではないか?

悪人を作って責任を押し付けて根拠や妥当性は二の次の批判袋だたきをしないと、原子力発電ですら「やめるべきだ」と言えない、現実的な議論も正当性の主張も出来ない民族に成り下がってしまったのが、我々日本人ではないか。

この震災と、原発事故をめぐる状況を前に、これまでの我々の社会と文明のあり方の脆弱さに気づき、自分の意識を総点検できないのなら、我々は恐ろしく傲慢で、愚かで、そして鈍感だということになる。

     アルブレヒト・デューラー『自画像』(1500)

放射能で不安になる前に分かっておくといいこと

福島第一原発の事故についての昨日のエントリー、中学生の理科の知識でも分かることを目指したのですが(僕自身、大学は文系ですから理科は高校までしか勉強してませんし)「分かり易い」と好評いただきありがとうございます。

とはいえ、多くの人が本当に不安なのは事故そのものより、そこから漏れる放射能のことでしょう。

ただ放射能、放射線、放射性物質のこととなると、さすがにそう分かり易い話には出来ないのが困ったところ。皆さんがいちばん不安だろうし、実際にいちばん直接の被害があるかも知れないことなのに。さてどうしますかね…

とりあえず一点、念のため誤解をといておくのなら、放射線による健康被害は、鳥インフルエンザとか新型インフルエンザとかHIVとか、昨今話題の健康リスクとは根本的に違います。

放射線は感染はしませんし、感染したら体内で菌やウィルスが増殖するようなことも、ない。

菌やウィルスなら身体の免疫で阻止できなければ、ちょっと感染しただけでも体内で増えたりするので、少しでも接触するのは危険といえば危険です(とはいえ無菌状態で生きる必要もなく、免疫でたいていシャットアウトできますが)。

一方、放射線で健康被害が出るかどうかは、結局のところ量の問題と、あとは個人差です。

放射線は光みたいなものですから、浴びてるあいだだけ被曝します。放射線を出す放射性物質が身体の中に入ると、出す放射線は減ってはいきますが、蓄積されることもあります(ほとんどは排出されますが)。でも身体のなかで核分裂が起るわけではなし、増えません。

たとえば水俣病と呼ばれる有機水銀中毒でも、原因物質のメチル水銀が体内で増えるわけではなく、食べたもののなかのメチル水銀が蓄積してある量を超えると水俣病になったり、肝臓に障害が出たりするわけです。

少量だと「まったくなんの影響もない」とは言えないまでも、ある量を超えないと(その量には個人差がありますが)、水俣病などの症状は、出ません。

水俣病について言えば、病気が発生・発見され、メチル水銀が犯人ではないかと分かって来た時点で、東京の学者がよく分からないで困ってしまったのは、水俣湾の水銀濃度が全国平均と較べてそんなに高くなかったこと。なのになぜ熊本県水俣市と水俣湾周辺でだけ、こんな病気になったのか?

丁寧に調べれば、とくに漁村に多い、魚をよく食べる人に多いことは分かったはずなのですが。でも偉い学者さんといえでも、時にはそういうものです。しょせん人間のやることですから。

土本典昭監督の記録映画の名作『不知火海』で、離島の漁民が撮影隊を、それは美味しそうな刺身でもてなすシーンがあります。ちゃぶ台いっぱいに数々の大皿に盛られた刺身、「あれ食べたんですか?」と土本監督に訊ねたところ、「あんな美味しいもの食べないわけがないでしょう。病気にならないのは分かってますしね」。

え?水銀で汚染されたかも知れない魚じゃないのか?もてなしてくれる漁民の皆さんだって、患者なのだし。

この謎の答えは簡単で、そこに住み続けているわけでなく、映画の時だけ水俣に滞在する土本たちにとっては、事実上「まったく健康に影響がない」(一生食べ続けるわけではない)水銀の量であり、しかも水俣や不知火海周辺の魚の摂取量が、東京とか全国平均5倍とか6倍とか、もの凄い量を毎日毎日、何年も、産まれた時から食べている人たちだからこそ起っってしまった病気でもあったのです。

「公害の海」のイメージとは裏腹に、水俣湾はチッソの工場周辺以外では当時でもそんなに汚れた海ではなく、ちなみに今ではヘドロを埋め立て地に封じ込めてしまっているので、水銀濃度は全国の平均よりもかなり低い、とても奇麗な海です。

そして不知火海の魚がどうしたことかとても美味しいことは、昔と変わらない。

水俣病というのが科学的にどういうことなのかは、興味があればぜひ土本監督の『医学としての水俣病−三部作』もご覧下さい。

水俣病を研究する熊本大、東大などなどの研究者が総出演というと、難しい映画に思えますが、とても分かり易い。これには土本さんの聞き方が巧い、という面が相当にあります。

僕が土本さんを撮らせてもらった『映画は生きものの記録である−土本典昭の仕事』(2007)で、土本さんはどうやったのかを語っていますが、簡単にまとめるなら、専門家の先生に取材するとき、まず「先生、僕は素人ですから、その僕にでも分かるように説明して下さい」と言ったのだそうです。そして聞いてる最中も、分かりにくい話になると「分からない」という顔をする。そうすれば先生方も気がついて、言い直してくれる。

こういう謙虚な智慧を、テレビや新聞やネット上のジャーナリストの皆さんにも見習って欲しいところです。受け手である我々だって、素人なのですから。

もちろん知ったかぶりをしてるジャーナリストの皆さんだって、僕と同様か、申し訳ないけどそれ以上に、なにも分かってないド素人でしょう? そこは素直に認めて欲しいところ。


有機水銀はさすがに毒物で少量でも身体にいいわけはありませんが、皆さんが健康のために飲んでいる薬だって、身体になんらかの影響を与えるものであるということは、量によっては毒になりますし、その病気がない健康体の人にとっても、猛毒ではないにしても、毒性はあります。

というよりも、その物質の側から見るなら、ただひたすら「人体になんらかの影響を与える」というだけで、その影響が「身体にいい」のか「身体を傷つける」のかは、その物質にしてみれば知ったことではない、人間の側の都合でしかない、ということも分かっておいた方が安心できるでしょう。

放射線は物質ではありませんが、でも放射能の健康への影響についても、同じようなことが言えるでしょう。

医学的・科学的には「何人に一人の割合で」と確率計算をするのですが、これは私たち一人一人の側からみれば「個人差はあるけれどその理由は完全には分からない」ということ。人間はみんな、体質も体格も性格も個性も、それぞれに微妙に異なってますから。

要はある量を、ある期間食べものを通じて体内に入れたり、浴びたり、放射性物質を呼吸で吸い込んだ場合、次第に健康に悪影響が出る人が増えて来る。そこに個人差はある。

福島第一原発の事故で、事故現場で命がけの作業をしている人を除けば、この事故で出てしまっている放射能の影響は、さまざまな測定値を見る限りではまだまだその程度の、比較的少量のものです。

たとえば広島や長崎で原爆から発せられる熱戦光線と同時にもの凄い量で浴びた放射線や、原爆の核物質が核分裂で分解して出来た放射性物質の微粒子が降って来るのが大量に身体に付着したり、周囲の環境のなかの放射性物質(たとえば土壌や、大気のなかに飛散して漂うもの、あるいは黒い雨)からの放射線を浴びて原爆症(急性の放射線被曝による障害)になるのとは、放射線と放射性物質の量がまったく違います。

ひとつ注意してもらいたいのは、福島第一原発の事故が、たとえばチェルノブイリ事故とはまったく違うし、ましてや原爆ともぜんぜん違う現象だと言うことです。昨日もすでに説明しましたが、福島は地震で自動停止した原子炉が、その後の冷却が出来なくなって起っているのだということ。

原子核の分裂で飛び出した中性子が別の原子核に当たってそれを分裂させる、核分裂が連鎖的に起ることを専門用語では「臨界」と言いますが、これが一瞬のうちに核燃料全体で起るのが原爆であり、ある程度徐々に起って長期的に熱を発するのが、運転中の原子力発電所です。

福島第一原発はすでに運転が止まってから起きた事故ですから、この臨界の状態ではありません。

運転中の、臨界の状態にある原子炉が爆発したチェルノブイリ事故とはぜんぜん違うというのは、そういう意味です。止めたあとでも臨界だったときの熱が残っている(崩壊熱)、それを冷やす水が足りないのが、今の状態です。

もちろん、原爆のような量、チェルノブイリの時のような量、福島でも事故現場で観測できる量の放射線を浴びたら、確実に身体に影響がある以上、少量で短期間でも「影響がまったくない」とは、科学の基本的な考え方としては、絶対に言えません。

そういう科学の基本的な考え方を、政治家が官僚的な言い回しで「ただちに健康に影響があるとは言えない」なんて言い方をするから「『ただちに』ってなんだ?」と不安に思ってしまう。それはよく分かります。なにか裏があるように思えてしまう。

そして実のところ、政治家やお役人はそういう言い方をすれば、健康被害があった場合でも「『まったくない』とは言ってない」と言い逃れが出来るわけです。

でもそういう態度だからこそ、なにか隠しているような気がして、言われた我々はますます不安になります。

政府の発表のやり方が不安を煽っているのは、その通りです。これはあくまで科学的な事象、物理学と医学の統計学の問題なのですから、政治とか責任論の人間の都合ではなく、科学的なことをきちんと説明しなければならないはずです。

政府にも、マスコミにも、経済のためには原発は必要だなどと未だに言っていられる暢気な皆さんのなかにも、僕自身が原発には反対でもうやめるべきだと考えているのは昨日書いた通りですが、一部の原発反対と言ってる人の一部にも、原子力とは人間の都合とは無関係の次元の、自然現象・物理法則の問題なのだというけじめが分かってない人がいるのは、とても残念です。

「ただちに」影響があるわけではない、元々は科学の基本的な考え方だから、手続き上そういう話になる。つまり科学には「絶対」はないのです。あらゆる可能性を常に客観的に考慮に入れなければならないので。

でもさすがに、「絶対にない」とは言えなくても、統計的な確率で「事実上、まずないと言っていいでしょう」というレベルのことはありますし、現に多くの専門医がそう言っているわけです。

その辺りはそれぞれの研究者の主観的な判断がどうしても入って来るところですが、安心感を持たせる言い方をする先生がいたら「こいつは原発推進派だ!」と決めつけるのも、ナンセンスです。あくまで科学事象の解釈の問題ですし、大学の研究者などの専門家であればあるほど、みだりにパニックや風評被害を広めてはいけないという社会的な責任も、当然考えることですから。

「この状態が短期で終るなら今のところ大丈夫です」

「長期に渡れば、危険になる数値です」

この2つは、科学的にはまったく同じことを言っているのです。

いずれにしても伝染病の病原体(体内で増える)とは違って、放射性物質や放射線の健康被害は、ちょっとでも触れたらダメ、オール・オア・ナッシングで理解しようとすることではない。

東京でも乳児の基準値を超える放射性ヨウ素が水道水から検出されましたが、テレビで放射線の専門医の先生だとかが「今はまだそんなに心配しないでもいいです」というようなことを言うのは、そういう意味なのです。

このレベルの放射性物質が毎日毎日、ずっと水道水に含まれ続け、それを飲ませ続けたら将来甲状腺がんになる子供もいるかも知れない(みんなが確実にそうなるわけではなく、科学の手続きではどうしても確率の問題で考えることになります)。

でも一日や二日とか、一回ちょっと水道水を飲んでしまったからといって、甲状腺がんになるになるのはまずあり得ない。

そういった平均値や確率を考慮して、政府等が決めている基準が決められています。水道水の基準値については、一部でWHO(国連保健機構)の基準は日本の数値の何十分の一かである、これは日本政府が原発推進派に乗っ取られているからだ、というようなことを言う人もいますが、東京などで検出された数値についてのWHOが出した見解がありますので、不安な人は読んでみて下さい。

  <WHO(国連保健機構)の日本の水道水についての見解>

ちょっと難しい文章ですが、結論は冒頭に書いてある通りでしょう。「日本で水道水を飲んでもよいか? はい。日本で水道水を飲んでも、ただちに健康上のリスクが生じるわけではない」

「ただちに」というのがどういう意味なのかは、すでにこのブログで説明している通りです。現に東京の水道水では雨が降った翌日に数値が上がり、しかしまたすぐに数値が下がって、警告は解除されました。

放射性物質は要は塵、微粒子の状態で、食中毒の病原菌のように生命を持って増殖するわけではないですから、洗い流されればそれまでですからね。

ほうれん草などの野菜でも同じことです。この場合はたぶん、原発の事故現場から飛散した放射性物質の微粒子が降って来て、葉に付着してるだけなのが今の段階(事故が起ってまだ2週間、放射性物質の微粒子が広く飛散したのはほんの数日)でしょうから、洗うだけでもけっこう落ちてしまう。

ちょっと意地悪を言ってしまえば、不安になってるストレスの方が、健康によくないかも知れない。

昨日から言っていますが、僕は原子力発電には反対ですし、こんな事故が起ったからには、もう止める方向で考えるべきだと思っています。とくに日本のような人口が密集し、しかも地震があるのが宿命である土地では、あまりに危険過ぎる。

そのことは今起っている事故で十分に証明されたと思います。

だから必要以上に不安を煽る必要はないし、これもさんざん言っていますが、「東京電力の人災だ!」と他人を責めることに熱中したところで、事故がおさまるわけではありません。

これも本当に何度も何度も言っていますが、原子力は物理学の法則という人間の意図や都合でどうこうなるものではないことで成り立っていますし、事故もその現象として起っているのですから。

やはり我々は、自分たちの文明やその価値観について、あまりに無自覚に傲慢であったのだと言わざるを得ません。

世界とは決して、私たちの意図や感情や都合で支配されているものでは、ないのですから。

3/26/2011

福島第一原発では何が起っているのか?

今や我が国最大のニュースであり、内閣官房長官がときには一時間おきに、毎日何度も記者会見してはそれが生中継され、テレビでも新聞でもネットでも、膨大な時間がその報道に当てられている。

だというのに、これほど何が起っているのかが分かりにくい事件もない。

原子力がどれだけ複雑なものとはいえ、この分かりにくさは異常である。

なにしろ事故だというのに、なぜ事故が起きたのか、その原因と結果がまるで説明されていないのだ。

いや実は官房長官の記者会見などで言及していないわけではない。ところが会見している本人がよく分かってないのか、その肝心なところが決して分かり易く強調もされず、詳しい説明もない。

どれだけ原子力が複雑な科学技術だとは言っても、実をいえば原因も、ではどう解決するのかも、基本は単純なものだ。

電気が止まって壊れてしまった機械がある。ならばそれを直すには、まず電気を通すこと、ただそれだけである。

原子炉は地震があると安全のため自動停止する。

福島の原発は地震で止まっていたのだ。これは止まってるから起きた事故なのだ−というこの基本が、まずよく伝わってない。

止まっている、つまり電気を作っていない原子炉には、精密な電気機構でもあるのだから、維持するために外から電気を供給する必要がある。

ただ電源オフで「はい止まりました」というわけにはいかない。発電はしていなくても、原子炉のなかの核燃料には、二千度以上というすさまじい熱が残ってる。これを冷やさないと完全には止まらないのだ。

福島第一原発の原子炉では、核燃料が核分裂で出す熱で水を水蒸気にして、その蒸気でタービンを廻す。逆に言えば核燃料から熱を奪う、つまりは冷やすのも、水だ。その水が足りない。

100度で沸騰し気化するのが水なのだから(もっとも、原子炉の中は高圧なので1気圧での沸点の100度とは多少ずれる)、原子炉を止めた後でも冷やすためには、多量の水を常に注いでやらなければならない。

つまり、こういうことだ。

1) 水をくみ上げて原子炉に注ぐポンプを動かす電源がなくなってしまった。だから二千度以上ある核燃料を冷やす水が蒸発して足りなくなり、水で覆われているはずの炉心が露出してしまっている。

2) 同時に、原子炉を管理するためのデータをとる計測機器の電源も、なくなった。つまりは得られるデータが極端に限られていることが、なぜか明言されない。停電してるから当たり前といえば当たり前なんだけど。

3) 止めた原子炉のなかである程度、一千度くらいまで冷やした使用済みの核燃料をさらに冷ますプールが、原子炉の斜め上にある。ここに水を供給して循環させるポンプも、電源がないので止まった。

4) 配管や、原子炉を格納してる容器の一部に亀裂などがあるかも知れず(その破損箇所は未確認)、本来なら原子炉のシステムのなかで水蒸気→水と還流していなければならないはずが、水が漏れ出している。

この4点が、今回の事故で起っていることである。

どうです?簡単な話でしょう?

なぜこんな単純なことを理解するのに、官房長官の会見のあと必死でそこで言っていた内容を考え抜かないといけないのだろう?

説明があまりに下手というか、順序立てた筋道がないのだ。

ではなぜ電源がなくなったのか?もちろん地震と津波、とくに推定14mの大津波のせいなのだが、これについての説明は、本当によく分からない。あまりに発表がしっかりしていない。これこそがそもそもの事故原因なのに。

原子炉には運転を止めたあとに必要な電気を供給するため、ディーゼル発電機がある。ところがこのための燃料タンクがどうも海側の一段低いところにあったそうで、津波にあっけなくさらわれてしまった。

津波はさらに原子炉の入ってる建物に到達し、その地下にある発電機自体も、塩水に浸かった。だから発電機が使えずに、非常用のバッテリーも8時間ぶんしかない。

というわけでこの事態だ。

原子炉のなかで本来水に覆われてなければならない核燃料がむき出しになり、冷ます水がないので高熱で溶け出す、いわゆる炉心融解の状態になったのも、ポンプが止まって水が供給されず、高熱で蒸発してしまったからだ。そしてその熱(崩壊熱という)で壊れて解けている核燃料(1、2、4号炉はウラン、3号炉はプルトニウム混合)が分解し、大量の放射性物質が産まれ、それが拡散しているのも、それぞれに大変な事象ではあるのだが、原因はぜんぶごく単純に、冷やすために必要な電気が断たれてしまったからだ。

原子炉の斜め上の使用済み燃料のプールでも、電気がないので水を供給したり循環させるポンプが止まり、水がどんどん蒸発するばかりで、そこから放射性物質が拡散している。

各地で観測されている放射線の量は、たぶんこっちから飛散した放射性物質の方が多いと思われる。原子炉の方は圧力容器と格納容器は、まだあるので。

(ただ一昨日見つかった水溜りがなんなのかによっては、原子炉の方に壊れたところがある可能性も否定はできない。ただその原因はまだ分からない。3/29加筆:3号炉だけでなく1号2号にも同様の水たまりがあり、2号炉は格納容器のいちばん下の部分である圧力制御室からの水漏れである可能性が大きい。1、3号は不明。)

あれ? じゃあ、あの爆発はなんなの?

さっきの1)として起きていることの結果、原子炉の中では燃料棒が水が足りずに露出した際、その覆いに使われていた金属が酸化して、高熱の水蒸気になった水(なにしろ炉心の温度は二千度を軽く超える)の酸素が奪われて水素が分解、それが爆発したのだ。

水が水素と酸素に分解されるのは中学校の化学で習うことだが、専門家でさえ予測できなかった。

今までこんな事故はなかったのだからしょうがないのかも知れないが、しかしそうは言っても、なんだかんだ言ったところで、中学校の化学で習うレベルの話でしかない。

大学教授だとかの専門家がこの中学の理科程度の話に、つい気がつかなかったりする。でも事故とはそういうもの、人間の知識なんて、しょせんそんなものなのだ。

また2号炉では、水位が随分下がってしまって、一時期まったく水での冷却が出来ずに空焚きになったかも知れず、あと格納容器のいちばん下の部分の、水を溜めて圧力を調整する部分に、亀裂かなにかが入ってる可能性がある。その理由はよく分からないが、まあ地震もあったのだし…。つまり水が漏れている。

なによりやっかいなのは、原子炉のなかは決して見えない、放射性物質の拡散を防ぐ格納容器の中に入って人間が目視なんて出来ないのに、停電で計器が全部止まってる。つまり内部の正確なデータがとれない。

以上が今、福島第一原発の4つの原子炉で起っていることだ。

地震で止まった→冷やさなければならない→冷やすための電源が津波のせいで停電→いろんなトラブルが起る。

どうです、簡単でしょう?

ところが記者会見でも、報道でも、そもそもの原因(停電)ではなくて、その結果として起る様々な事象(炉心の損傷・融解とそこから発する放射線、燃料プールからの水の蒸発、その両方からの放射性物質を含む蒸気の拡散、水素の発生と水素爆発)の詳細ばかり言ってるから、普通に聞いていると、わけが分からなくなる。

確かにそれぞれの事象が重大な危機なので、そこを報じるのは人間の都合からすれば分かる。

だが人間が「事故」と呼んでいるのは物理現象に過ぎない(一部は化学現象)わけで、物理現象は原因を説明しないと、筋道立てての理解ができなくなっても、当然なのだ。

何が原因かが伝わってないから、どうやって対処してるのかもよく分からなくなる。個別の事象への応急処置ばかりが大きく報じられ、全体の計画が見えないまま、もう二週間である。

まったく、毎日毎日会見しながら、官房長官はなにをやってるのか?記者たちはそれを毎日聞きながら、どこが分かりにくいのかも分かってないまま、質問もしないのか?

停電が原因で、電気がないから冷却がうまく行かないで事故になったのなら、解決する手段自体は簡単にわかる−再び電気を通して、原子炉本来に付随する、冷やすための機械を、再び動かせるようにすればいいのだ。

実はこれこそが最初からやっていることで、官房長官記者会見でも、よく聞けば確かに言ってはいたことなのだ。かくいうこのブログの情報源は、海外ソースでもなんでもなく、ひたすら官房長官などの会見である。

東北電力の送電線から線を延ばして電力をつなごうとしていることも、実は最初からちゃんと言及はされていた。

ところがこの肝心な部分が伝わらないのは、発表してる本人がその意味がよく分かっておらず、記者たちもまたよく分かってないのだろう。

その大きな流れの説明の変わりに、結果は重大でもそもそもが停電の結果起きた付随事象に過ぎない炉心の融解が、スリーマイル島事故でおなじみのメルトダウン(解けた炉心が原子炉の中で落下して原子炉そのものが壊れること。福島はメルトはしていてもまだ本格的にダウンはしていない模様だ)という恐怖の言葉とともに強調され、ではそれへの応急処置として、真水が間に合わないので海水を注入するかどうかが、なぜ水を注入するのかの説明もよくわからないままに、事故の初期にはひたすら強調された。

説明に、こういうことが起ってるからこういう結果になり、だからこうしますというような、筋が通ってないのだ。

さらに物理学で理解すべき話に、なぜか政治が介入し、科学技術の話がいつのまにか政治にすり替わる。それも政治のなかでも低レベルな、ためにする批判と脚の引っ張り合いと袋だたきに。

真水が間に合わないので海水を入れるべきかどうかで1日が過ぎたのだが、これで政府と東京電力が批判される。

真水を使う設計のポンプやパイプや原子炉に塩水を通せば、錆びて腐食する等の危険がある。

はっきり言えば、海水を使えば、原子炉はやがて使い物にならなくなる。

つまり自社の財産でもある原子炉が使えなくなる決断を渋る東京電力はけしからん、ケチで事故の重大性が分かってない、そもそも誰の責任で起きた事故なんだ、という話になり、政府の英断で海水注入を決めることで、政府が点数を稼ぐ。

…というところで、ちょっと待って欲しい。

東電に、自社の財産でもある原子炉を温存したい動機もあったのかどうかは分からないが、それ以前に科学技術の問題でだけ考えれば、真水を使う設計のポンプやパイプや原子炉に海水を通していいのか、まともな技術者なら絶対に躊躇するだろう。

設計で想定してないことをやって錆びたり腐食したり溶解物が結晶したりするリスクは、出来ることなら誰だって避けたい。

海水を注入して三日とか一週間とかひと月で一件落着ならいい。でもこれはあくまで、原子炉本来の冷却サイクルを回復する工事のための時間稼ぎだ。そしてその冷却のプロセスは、1年くらいはかかることなのだから。

ところが海水を使う決断を出来ない東電はけしからん、というわけで喧々囂々の猛批判である。

今日になって3号炉は真水の注入に切り替え、心配したアメリカが海軍横須賀基地で作った真水を提供する手はずもととのった。というかいつのまにか、近隣のダムから真水を得る手はずも出来ていたらしい。おや、これもまったく知らなかった。早く言ってくれれば安心できる情報なのに。

自衛隊や警視庁機動隊、東京、横浜、大阪の各消防局が担当する放水ももっと分かりにくいまま、東京消防庁が隊員にセンチメンタルたっぷりな記者会見をやってマスコミと世論相手に点数を稼ぎ、再選を控える都知事が涙ながらに彼らを讃え…でもなんのための放水なのかは、さっぱり理解されていない。

田原総一朗氏のような著名ジャーナリストまで、炉心を冷まして爆発を避けるための放水だと思ってるらしい。

おいおい、原子炉は格納容器のなかの圧力容器のなかで、水がそこまで届くわけがありませんってば。そっちの対処は、海水(今日から真水に切り替え)の注水!

放水はあくまで、もうひとつの大きな不具合であり、放射性物質の拡散の点ではもっと大きな問題(原子炉は格納容器のなかの圧力容器のなかだから、そこまで放出はしないはずだ)である、使用済みの核燃料の保存プールのためだ。

水素爆発で壁や天井が吹き飛んでるので、直接そこに放水できるのだ。

まったく、冷静に考えれば子供にも分かる話だし、こればっかりは何度も何度も、政府はそのように説明している。

ところが今度はマスコミの側がまったく分かっていないので、あらぬ誤解を振りまく。挙げ句に広瀬隆のようないい加減な人間が、「炉心に放水しても意味はない」って、最初からそんなことやってないの!

かくして理由がよく理解もされていないままの活動が、官房長官など政府機関の会見でも、マスコミの報道でも、見た目が派手で話題性はあるだけで注目を集め、しかし事故の対処の中ではあくまで時間稼ぎに過ぎない話でしかないのにそこばかり情報が拡散し、ますますわけが分からなくなる。

事故の対処計画の本筋は、あくまで停電している原子炉の機構に再び電源をつないで、冷却するための本来の機能を、回復することなのだ。

そして今やっと、それぞれの原子炉に電気が届くまでは出来た。

これからはそれぞれの機材にその電気を通して、壊れている機材は交換・修理し、原子炉本来の冷却の機能を取り戻さなければならない。

…と、なぜ政府は、このように分かり易く説明しようとすらしないのだろう?

実は政治家たちも官僚たちも、よく分からないままに知ったかぶりをしているだけなのか?

自分たちそれぞれの組織の、マスコミ世論相手の点数稼ぎにしか興味がないのか? 責任逃れなのか?

そのマスコミ世論の方も、負けず劣らず、中学生の理科でも分かる部分を、そもそも理解しようとも、ちゃんと説明しようともして来ていない。

電源の供給がやっとちゃんと報道されるようになったのは、震災と津波と事故の発生から10日くらい経ってやっとだ。そして中央制御室に通電して明かりが灯って、それでやっと中央制御室が止まってたことが言及されるようになった次第だ。

まったく馬鹿げている。いかに政治家が発表し、政治記者が会見を聞いていても、事故はあくまで物理現象が人間の思い通りに進まなくなっただけで、それへの対処はあくまで、科学技術上の判断なのだ。

この騒動でふたつだけはっきりと、それはもう恐ろしく分かり易く、分かって来たことがある。

まず原子力が、ちょっとしたミスや、判断の狂い、予想を越えた天災があるだけで、その失敗をカバーするのが不可能なまでに暴走するほどに、やはり怖いものであるということ。

そしてもうひとつ、この国がそんなおっかないエネルギーを用いて繁栄を享受するには、あらゆるレベルであまりに民度が低過ぎるということだ。

だからもうこの危険な玩具から手を引くことこそが、とりあえずまっとうな判断なんだと、政治の問題は一切抜きに、僕は心から思っている次第である。

我々はあまりに傲慢過ぎたのだ。

3/17/2011

地震、津波、悲劇が起ってしまった「その後」だからこそ、『ヒアアフター』上映を自粛してはならない理由

クリント・イーストウッド監督の最新作『ヒア アフター』が、東北・関東の大震災で14日付けで上映中止になってしまった。

『ヒア アフター』マリー(セシル・ドゥ・フランス)はスマトラ沖大地震の津波に遭う

映画が津波のシーンで始まることから、「本震災を連想させる内容」があって「被害状況を鑑み」ということだそうだ。

いかにもこの国ではありがちな「自粛」なわけで、疑問を感じない人も多いようだが、テレビで津波被害の映像がさんざん流されているというのに、観客が自分の選択でお金を払って見に行くのになにが問題になるのかが、まずおかしな話である。

テレビを見てショックを受けたという人が見に行かないのも、それでも(あるいは、後述するようにだからかこそ)見たいと思う人も、それぞれ自由なはずだというのがまず大原則。

「被災者を傷つける」といわんばかりの話も、よく分からない。

こと大津波で破壊された町村で避難所生活を送っていたりする人々、肉親を失った方たちが、今さらそんなこと気にするはずもないし、それ以前にいったいなにを気にするのかもよく分からない。仮に見たら記憶のフラシュバックが、というようなPTSD症例を想定しても、そもそも被災地で営業している映画館がそんなにあるとは思えない。

大津波は起ってしまったのである。それはもう我々の現実なのだ。

そしてテレビで見てしまった我々にとって以上に、それを目の当たりにしてしまった人々の、もはや変えられない現実なのだ。

今さらそれを表象する映像を禁じ封じ込めたところで、この大自然の猛威の結果は変わらないし、亡くなってしまった人が帰ってくるわけでもなく、この痛みと苦しみを抱えて生きて行かなければいけない人々がいるという現実は、そのままだ。

忘れようとして忘れられるものでもないはずだ。

いやむしろ、とくに生き残った人たちのためには、我々こそが忘れてはならない。

彼らが忘れたいと思っているかも知れないことは尊重しても、少なくとも彼らが忘れられないあいだは、最低限それがあったことだけは忘れてしまうべきではない。

我々にとってはしょせん一過性の、テレビで見ただけのニュースだとしても、すでに我々のニュースの画面を占有する映像が津波ではなく福島の原発に自衛隊のヘリが水を撒く光景に交替しているとしても、津波を生き延びた人はその記憶を背負って生きていく。

その彼らの「この後(ヒアアフター)」の人生は、もう始まっているのだ。


私たちが「辛いことは忘れましょうよ」と言ってこの記憶を忘却のなかに封じ込めることは、ほぼイコール、その人たち自身を封じ込めることに他ならない。

彼らが自分たちの記憶を整理し内面化し、時には語ることでなんとかその不条理な体験を理解しようとしたり、その体験を背負ってこれから生きていこうとすることを妨げ、彼らを差別し排除し、もっと絶望的な孤独のなかに追いやることにも、なりかねない。

人間として、その体験を生きている彼らは「孤独」である以上に「孤高」なのだ。


だが我々がその人たちの記憶と、それを背負った人たち自身を封じ込めようとしてしまうのは、その人たちがそれを孤高と認識する力すら、奪ってしまうことにもなる。

本音はただ、自分たち部外者にとってはショッキングで不愉快だから忘れたいし忘れられるというだけに過ぎないことを、配慮のフリをしながら恩着せがましく押し付けようとすることだけは、してはならないはずだ。

彼らにとってそれはもう自分が生きた現実であり、恐らくは忘れたくても忘れられるはずもない記憶なのだ。

私たちは同じ島国に生きる人間として、彼らが語ろうとするなら耳を傾ける、理解できないなりに理解しようとする、せめてそこに思いを寄せ、同じ世界で生き続けようとするくらいのやさしさだけは、失ってはならないはずだ。

無論、語りたくないのであれば無理に聞き出すことはない。やってはいけない。

だがそっとしておいてあげながらも、我々は我々でやはり少しでも理解しようとする努力は、隣人としてやったっていいはずだ。

藤原敏史『ほんの少しだけでも愛を』(2011、編集中)ラストシーン「他人を想像するってなんやろ?」(いわゆる同和対策地域で撮影)

興味本位のディザスター・ムービーとして津波被害を娯楽で見せるだけなのであれば、それは確かに不謹慎だろう。時節柄遠慮すべきことだと言われてもしょうがない。

それでも遠慮するかどうかは個々人の良心に基づき、企業としては市場原理に基づいてやるべき判断だと思う。つまり、見る人がいなければ公開を終了すればいいだけのことであって、わざわざ上映中止をアナウンスすることもない。

だが、この「不謹慎」だから上映を差し控えるという理屈を是認するとしても、だからこそ『ヒア アフター』を上映中止というのは、逆に不謹慎ではないのか?

ワーナー日本支社は、自分たちで配給上映してる映画なんだから、自分たちでその中身は知ってるはずだ。

ならば今『ヒアアフター』を上映中止することこそが逆に不謹慎、それこそ被災者をないがしろにし、彼らを差別対象のように封じ込めることにだってなりかねないことも、分かっているはずだ。

もしその可能性を考えもしなかったのなら、彼らには映画を商売にする資格がない。


『ヒア アフター』では、フランス人のニュースキャスターのマリー(セシル・ドゥ・フランス)が休暇旅行中に、インド洋スマトラ沖地震の大津波に遭い、生と死の狭間をさまようことから映画が始まる。

サンフランシスコの霊媒のジョージ(マット・デイモン)、ロンドンで双児の兄を失う少年マーカス(兄弟をフランキーとジョージ・マクラーレン兄弟が演じる)の物語と並行して、我々はパリで津波の生存者マリーが生き残り、生き延びて行く姿を見る。


東北から千葉にかけて、何百、もしかしたら何千、何万もの人たちが、私たちと同じこの社会で生きている彼らが、同じ体験をしたはずだ。

自分はホテルに居たため津波に呑まれることはなかった恋人のティエリーは、ついマリーを腫れ物に触れるように扱ってしまう。

マリーの番組のプロデューサーである彼は、彼なりの思いやりで休むように薦めたりするが、悪気はまったくなくとも、やはり結局は彼女を理解しようともできず、受け止めることも出来ない。


マリーはティエリーの勧めで番組を降りて本を書くことに専念しようとしても、彼女の自分の体験をなんとか理解したい、自分の人生のこれからのなかにその記憶をちゃんと位置づけたいとする思いを、出版社の人々が彼以上に鬱陶しいものとして感じてしまう。

今この列島の東半分で津波を生き延びた人たちも、これからマリーと同じような生き延びることの困難を、生き抜かなければならないかも知れない。

その生き延びた人たちに対して、私たちもまた、『ヒア アフター』のパリのシーンに出て来る人たちと同じような、無神経さ、無自覚な身勝手と残酷さを見せてしまうのだろう。

それは残念ながら、人間として自然なことではあり、気をつけないと、私たちもまた彼らと同じように「鬱陶しい」と思ってしまうのかも知れない。


しかしそれは、彼らから見れば「もう忘れた方がいいよ」という圧力に晒され続け、理解してくれる気もなさそうな人々の、蔑みと忌避の混じった眼差しに晒されて生きなければならないことを意味する。

『ヒア アフター』がマリーの「その後」をこそ見せ続ける映画だからこそ、その映画を今ここで封じ込めてしまうことは、今後実際に津波や震災を生き延びた人々を封じ込めようとするであろうことの、予行演習になってしまってはいないだろうか?


マリーはついに、自分の体験を元に臨死体験を綴った本の出版にこぎつける。その題名は「ヒア アフター」、この映画と同じ題名なのだが、副題は「A Conspiracy of Silence」、「沈黙の陰謀」だ。

彼女がパリの出版社で出会う人々や、恋人に見るように、「死」を直視できない大多数の人々はそのことを避け、逃避する自分たち自身を忘れようとするために、彼女のような体験をした人々に沈黙を強いる。そのことを彼女は「沈黙の陰謀」として著書のなかで告発していて、ロンドンのブックフェアのシーンでもその下りを朗読する。

「津波の映像はショックだったから忘れたい」と思う個々人がいるのも、それはその一人一人については、やむを得まい。

だがそれが無言の匿名性の集団意識となって、圧倒的に少数で孤独な生き延びた人々に「辛いことは忘れましょう」「思い出したら傷つくでしょう」と言い続けてしまうとしたら、我々もまたその「沈黙の陰謀」の一部になってしまうのではないか?


マリー(セシル・ドゥ・フランス)とジョージ(マット・デイモン)は最後に、死を知ってしまったからこその本当の人生の希望へと、歩き出す

一昨日の火曜日の晩、上映中止になる前の最後の上映を見直した。

率直なところ、以前に見たときには、自分はこの映画を主に、霊媒のジョージの物語として見ていた。マリーは三人の主人公のなかではもっともついていけない人物であり、その意味では自分もまた、彼女の孤高、崇高さを封じ込めようとする「沈黙の陰謀」の一部だったのだと思う。

だが津波の報道を見て、マリーの身に起ったのと同じように、津波の中で、助けようと手を握っていたその人の、その手が振りほどかれてしまった体験も聞いた後で(その方の場合、しかも手が離れてしまったのは高校生のお嬢さんだという)、『ヒア アフター』を見直したとき、今度はこの映画をマリーの物語として見ていたのである。

最初に見た時にはほとんど考えてもいなかったのだが、僕自身もたまたま何度か、死にかけたことがある。今回はマリーを通して、そのことも思い出しならら見ている自分がいた。

だからこのことは、ある確信を持って言っていいと思う。『ヒアアフター』は震災があり津波があったから上映をやめるべき映画ではない。むしろ今だから上映を続け、見られ続けなければならない映画なのだ。

なるほど映画館と配給会社の商売としては、確かに難しくはなる。

たとえば津波のシーンが出て来る予告編はもう使えないだろう。他の映画を見に来た人があれを見てショックに思ってしまうというのでは、やはり問題になる。新しい予告編を作った方がいいし、宣伝なども修正は必要だろう。

奇しくも日本で上映が中止になったのと同じ3月15日に、アメリカではDVDとブルーレイが発売された。イーストウッドとワーナー本社は、その収益から100万ドルを、震災被災者のために日本赤十字に寄付するという。イーストウッド自身のそれに寄せたコメントも公表された。

「今、日本が立ち向かっている状況は想像を絶する。この寄付が少しでも支えとなれば嬉しい」

ならばたとえば、新しい予告編は、イーストウッド自身がこの映画を語り、彼が題材にしたスマトラ沖地震の津波や、日本で起きた津波への思いを語るものにしてはどうだろう?

たとえばジャン・ルノワール監督も、あの名作『大いなる幻影』(1937)が、戦後プリントが再発見され再公開するときに、そういう予告編を作っている。


『大いなる幻影』ジャン・ルノワール本人が語る予告編

ルノワールはここであえて直接言及していないが、この映画のモデルとなった自身の第一次大戦の体験のなかで、彼もまた撃墜され、生と死のあいだを彷徨っている。


そしてもし生活が落ち着いて来たら、今は巨大な困難のなかで助け合いながら生き抜いている雄々しい被災者の…マリーと同じ人たちにも、あるいはマーカスのように愛する者を失ってしまった人たちにも、いつの日か、この映画を見てもらえたらと、心から思う。

この映画がどれだけ彼らの体験に似ているか、どれだけ彼らから見ても真実であるか、マリーやジェイソンが死を見つめ続けた長い旅路の末に生きていることの本当の意味に向かって歩き出すラストの希望が、その人たちにとっても真実と思えるかは、自分には分からないことだけれども。


兄を亡くした少年マーカスに、孤独な霊能力者ジョージが言う「君が自分は一人だと思ってるのだとしたら、そう思っちゃいけない。君は一人じゃないんだ」

ただ、それが可能だと信じていいかも知れない事実を、自分はたまたま知っている。

クリント・イーストウッドが硫黄島の激戦を、アメリカと日本のそれぞれの側から描いた二部作、『父親たちの星条旗』と『硫黄島からの手紙』が公開されていた頃、特攻隊の生き残りの人たちを取材しようとして、靖国神社に入り浸ったりしていた。

   『父親たちの星条旗』と『硫黄島からの手紙』

そこには硫黄島の激戦を生き延びた人たちもいた。

彼らもまた、イーストウッドの二本の映画を見ていた(だから当事者が自分の知ってる悲劇を描いた映画に「傷つく」とか「不謹慎だ」と思うことは、それ自体が大きな誤りであるのは確かだ)。

そして彼らは「ダーティー・ハリーが俺たちの映画を作ってくれたのは嬉しいよ」と言っていた。

それだけではない。老人たちがより評価していたのは『硫黄島からの手紙』ではなく、『父親たちの星条旗』の方だったのだ。日本側を描いた映画の方は「ちょっとかっこよ過ぎる」と言う。

これはこの二本の映画を、その歴史を直接には背負ってはいないで見た自分とも、ほぼ同じ感想だった。

『父親たちの星条旗』の方がある意味よく分からない映画だからこそ、「戦争とはこういうもの、こういう体験なのだろう」と思えたし、映画としての完成度も傑出している。比較すると『硫黄島からの手紙』は非常によく出来ているが、よく出来たメロドラマにも、どうしても思えてしまう。

とはいえ硫黄島を生き延びた老人たちや、特攻隊の生き残り、その他さまざまなあの戦争の生き残りである日本人たちの「硫黄島二部作」の感想は、やはり驚くべきものだった。

彼らはほとんど異口同音に、「あの映画は僕たちの気持ちが分かっている」と言ったのだ。だから見てよかったと。


『硫黄島からの手紙』ラスト。日本兵の生き残り西郷(二宮和也)は、米兵の負傷兵と一緒に寝かされる。もはやそこに「敵」も「味方」もない。ただ同じ戦争を生き延び、同じ苦しみと痛みを背負って生きて行かなければならない若者たちがいるだけ

「アメリカ人もやっぱり、同じことを考えてたんだね。それが分かって安心した」とも、彼らは言っていた。


これはもちろん、別の映画の、別の生き残りの人たちの気持ちだ。大地震と大津波と『ヒア アフター』について当てはまるかどうかは、確証はない。

でもクリント・イーストウッドという芸術家がそういう特別な、類い稀な感性を持った人なのだということを、例えばこの音楽を聴いて、今雄々しく困難のなかで生き抜いている人たちにも、ちょっとでも信用して頂けたら嬉しい。

そして映画というものが、本当はそれだけの力とやさしさを持ちうるのだと言うことも。

 『ヒア アフター』エンディグ音楽 作曲/ピアノ クリント・イーストウッド

あなたたちもまた、決して一人ではないのだから。あなたたちが生き抜いていることを真に分かろうとする人間も、もしかしたら分かるかも知れない人間も、いるのだから。

『ヒア アフター』を見直して、そこにマリーの物語を見い出した今では、そう思える。


まあいくらイーストウッドが尊敬する80歳の大先輩、40歳も歳上だからって、本当は自分の映画でも、これくらいのことをやらなくちゃいけないんだけどね。