最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品
DVD 2月20日より発売!amazon.co.jp 配信はこちら

1/15/2012

いわき市、あと2ヶ月で震災から1年

新作『無人地帯』の無料試写のため、今月もいわき市に行って来た。

試写の立ち会いのためというより、映画で撮った場所や人々がどうなっているのか、どうにも気になるからだ。また来月のベルリン映画祭での上映の後には、続編にも取り組んだ方がいいかも知れないと思えて来ていて、そのロケハンも兼ねてのことでもある。

写真は小名浜漁港の直売所だ。「心まで汚染されてたまるか」という心意気とは裏腹に、未だに漁業を再開できる見込みはなかなか見えて来ず、この直売所や、本来なら新鮮な海産物でにぎわっているはずの店は、閉まっているか、閑古鳥が鳴くしかない。

1年とか2年待てば再開できる、という希望があればまだ心をくじかれることもないかも知れない。

せめてどの程度我慢すればいいのか、あらゆる魚に危険な放射線値が出るわけでもなく、また同じ海域で操業するのでも、茨城の漁港や宮城の漁港では魚をとっているわけだし、なんらかの目処や、合理的に納得出来ることがあればまだいいのに、そんな希望もなかなか持てないのが現状なのだ。


厄介なことに、これは被災地の人たち自身がどれだけ合理的に考えて納得しようがほとんど関係ない。実を言えば、例えば魚の生態を直に知っている漁師の方が、どの魚には汚染がある危険があり、どの魚ならそんなに心配することもないであろうとか、だいたいは判っているはずなのだが、確実に無視されてしまうのではないか。

むしろ全てを決するのは「そこ以外の日本」のご機嫌次第であり、そして地元にもそうした「そこ以外の日本」(例えば “東京” )におもねることに心血を注いでしまう人、他所からやって来たボランティアであるとかの無神経な言葉の方が “世間の標準” だと思ってしまう人も、いないわけではない。またそういう人に限って、自分たちは “田舎” のなかでのエリート気取りだったりする。


『無人地帯』でも最も重要なシーンであろう、平・豊間の津波に絶えた築140年の家の持ち主、四家敬さんご夫妻にもやっと連絡がつき、再会することが出来た(四家さん宅の写真は、先月のこちらのエントリー「いわき市、12月」にも掲載した)。

映画のなかでは生き生きとしていた奥さんも、いささか疲れた顔をされていた。

映画のなかの四家さん夫妻

映画のことは心から、とても喜んで下さっている。

だが4月に撮影した時からそろそろ9ヶ月、大切な先祖代々の家(はっきり言ってこうなるともう、文化財だ)を早く修理したくとも、この場所に住み続けることが許されるのかどうかが、分からない。行政では集団移転させて、津波を受けた一帯を緑地にしようという話も進めている。

ほとんどの家が取り壊されてしまった今、あまりに見晴らしがよくなってしまい、かつてはこの橋から見えるはずもなかった四家さん宅の石倉まで、見えてしまっている。

ご夫妻は今は、八畳一間の借り上げのアパートに暮されているという。正月に仙台と東京にいるお子さんたちが訪ねて来ても、泊めることも出来ないで旅館をとるしかなかった。

なかには子どものぶんも入れて仮住まいを申告し、それで広い家を借りることが出来た人もいるらしい。だが映画に登場するご夫妻を見て頂ければ分かるように、そのような融通を利かせられる人達ではない。

「正直者がバカをみる」のもまた、悲しい現実である。

自分たちの年齢ではローンを組むわけにもいかない。なまじ立派な、古い建物なだけに、修理もそれなりに技術のある大工で、材料もいいものを使わなければならないだろう。それだけでも気が重いのに、それでも出来ることから始めて、ここに住み続けようと思うと決意されていた4月から9ヶ月、その決意を守るにも、動きもとれないのである。

それでも、「でももっと大変な人もいるから」と言う。

『無人地帯』を出演した方や、その関係者に見てもらったとき、驚くと同時に嬉しいのは、それぞれに「自分たちよりももっと大変な人達がいること、その気持ちが分かったのがよかった」と言われることだ。

双葉町から埼玉に避難されている岡田ヒメ子さんからは、「今年は希望を持って前向きに生きて行きたい」という年賀状を頂いた。双葉町が置かれている現状からすれば(除染で出た廃棄物の中間処理施設が押し付けられる、という話も出て来た)、どうやったら前向きになれるのか、僕らには分からない。だがその強さがどこから来るか分からないからこそ、そういう人達を映画に撮ることができたのは、語弊を恐れずに言えば、我々にとってとても嬉しい、喜ばしいことなのだ。

日本の渚百選に選ばれたこともある塩屋崎の海岸

「心まで汚染されてたまるか」。どこまでそこで人として踏みとどまれるのかが、問われている(とはいえ、被災地でもイヤな話は決して少ないわけではないし、やもすれば自暴自棄になるのも人間だろうが)。

塩屋崎の海水浴場のあたりも津波でほとんどの家が流されてしまっている。結局、「絶対に安全でなければならない」という名目で、集団移転ということになるのかも知れない。海辺にある豊間中学校の校庭は、瓦礫置き場になっていた。

このような光景を毎日目にする人達を前に、「前向きであれ」などとはとてもではないが言えない。それでも被災地の人達の多くが決してくじけてはいないのは、尊敬するしかないし、無論そんなに楽観的になれない人達の気持ちもまた、痛いほどよく分かる。

つくづく我々は、もう少し言動に気を配るべきだと思う。口先だけ「がんばろう日本」というのは容易い。だがそこになんの意味があるのか?頑張っている人達を励ますのも大事だが、一方でこの現実を前に立ち尽くす人達がいたら、その存在を率直に受け止めること以外に、私たちに出来ることはない。


被災者の気持ちは、その身になってみなければなかなか分からない。「しょせん私たちには分からないのだ」ということを、まず私たちはちゃんと理解すべきだし、そのことについて今は謙虚でなければならないはずだ。

被災地に勇気と笑顔を、などとなぜ軽々しく言えるのだろう?

どれだけ苦しんでいるのかを理解する気もないのだろうか?勇気や励ましをそんなに簡単に与えられるほどに、私たちはいつそんなに偉くなったのだろうか?

いわき市の出身である大学駅伝(東洋大)の柏原選手は、地元を励ます言葉をインタビュアーに求められ、「僕が大変なのは一時間ちょっとだけですから、ずっと大変な福島の人に」とだけ言った。これがもっともまともな言葉なのだろうと思う。

久之浜町では、津波で流されただけでなく出火もし、一面の荒れ果てた廃墟が広がっていた。

背後の岬は、津波と崖崩れで大きくえぐりとられている。

稲荷神社だけが奇跡的に残っているのが、なんとも痛ましいと共に、私たち人間が作り出し、そこで生きて来た世界がいかにはかなく、偶然に左右されていることを厳しく伝えている。

10ヶ月も経っているのに、まだ時々、火事場独特の匂いが鼻をつく。

写真の背後に見える、延焼を逃れた家々でもまた、この光景を毎日見続けなければならないのだ。想像するだけでも気が滅入りそうな生活なのだろうと思うと、やりきれない。


それでもこの人達は、ここで生き続けようとしている。人間とははかない存在であると同時に、凄まじくしなやかで、そして強い存在でもあり得るのだ。

我々が撮った『無人地帯』は、他の震災を扱った映画やニュース映像とはどこか違う、とよく言われる。なにか違いがあるとすれば、それは我々が無意識のうちにも撮ろうとしていたことが違うからなのかも知れない。「人間とははかない存在であると同時に、凄まじくしなやかで、そして強い存在でもあり得る」、そしてその人達は賢い。

そのことが我々を素直に感動させたのだ。

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