最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

12/05/2017

「本能寺の変」は起こって当然でミステリーでもなんでもない


前回エントリーに続き、前代未聞な大河ドラマの、というか戦国時代時代劇の革命『おんな城主直虎』がらみの話。

記録上、このドラマでは井伊直虎を名乗った説をとっている法名・祐圓尼、次郎法師とも名乗っていたらしい井伊家直系の尼僧は(ややこしくて恐縮だが断片的にしか分からない史実をつなぎ合わせると言えるのはここまで)本能寺の変の約2ヶ月後に亡くなっている。

と言うことは、ドラマのほぼ最終回で本能寺の変が起こって、堺にいた家康一行が「伊賀越え」を敢行し、井伊万千代が元服して井伊直政となり、直虎は井伊家の将来を託して安心して生涯を閉じるところで大団円…という普通に期待されそうな展開には、どうも絶対になりそうにない。

というのもまずヒロインの直虎がまだまだとても死にそうにないし、今死んでしまっては「戦のない世を見とうございます」、そのためには家康が天下の要に、という彼女がたどり着いた決意には、まだまだ当分が決着がつかない。

それになによりも、この脚本の本能寺の変の解釈では「突然の明智の謀反でびっくり」といった突発的な事件とは、まったくみなしてはないのだ。

むしろひとつの必然として光秀が信長を殺すに至る展開は、とてもではないが家康が伊賀越えを成功させて「ああ良かった」では済みそうにない複雑さで、しかも井伊万千代だけでなく井伊直虎までが、そこに深く関わることになりそうだ。

「あと二回しかないんじゃないの?これどうやって丸く収めるんだ?」と余計な心配はともかく、この本能寺の変の大胆な解釈は、史実上の具体的な根拠があるわけではないが、にも関わらずこの事件の歴史的な本質をしっかり踏まえ、井伊家の関わり方の部分はともかく全体的には十分にあり得るリアルで切実な話になっているのが、これまで小説家やアマチュア歴史家や映画やテレビの脚本家があまた提示して来た様々な俗説とは、一線を画している。

明智光秀像 大阪府・本徳寺蔵

明智光秀が織田信長に突然謀反を起こし殺害したことは、俗に「日本史上最大のミステリー」と言われ、最近では光秀が土岐氏の血統なのでその復興を目指していたといったまことしやかな俗説も唱えられたり、はるかに真面目な話として直接のきっかけと関係がありそうな書状も数年前に発見された。


長宗我部氏の支配する四国に武力で侵攻して滅ぼすのか、臣従をさせるのかをめぐって、その交渉を命じられた光秀は、長宗我部と縁戚関係にもあって、交渉に成功しつつあったのに、信長が平然と反故にして長宗我部を滅ぼそうとしていた。

この路線対立が光秀が謀反を決意するきっかけのひとつだったことは十分にあり得る。だがそれとて、ひとつのきっかけに過ぎないだろう。

これ以前にも、和睦や平和裏の臣従の可能性もあるのに冷酷無比に残虐な戦争を強行するよう(させるよう)になっていたのが当時の信長だった。

比叡山や本願寺派など仏教勢力との対立では虐殺行為さえ繰り返し、この前年には高野山とも対立を深め千数百名の高野聖を虐殺同然に賀茂川の河原で見せしめに処刑までしていた信長が、今度はいよいよ高野山本体も焼き討ちし、四国も武力征圧しようとしていたのだ。

長宗我部との交渉が信長の気まぐれで破綻しつつあったのがきっかけになったとしても、ついに光秀が付き合いきれなくなった最終局面のようなことだろう。

比叡山延暦寺の釈迦堂 信長焼き討ち以前の鎌倉時代にさかのぼる数少ない建築

実を言えば本能寺の変はミステリーでもなんでもない。光秀が信長を討たなければ、他の誰がやってもおかしくはなかったのだから「なぜ?」も謎もなにもないのだ。

俗説に黒幕説も後を断たないのも、光秀以外の織田家臣団の誰でも、当時の徳川のような同盟と言いつつ事実上の属国でも、機会さえあれば信長を殺すのに十分な動機はあった。

端的に言えば、織田信長をここまで強大な勢力に成長させた家臣団それ自体が、主家が大きくなったぶん、彼らそれぞれも織田家にとって脅威になるほど大きくなっていたことがある。そうやって力を持った家臣は、今度は信長や後継者の息子たちにとってはむしろ邪魔になり得るし、主家に取って替わり得るほどの力を持ち始めているのならばその力を抑制し疲弊させ、極論を言えばチャンスがあれば殺した方がいい。

逆に言えば、家臣達それぞれから見れば、そんな主君に殺されるくらいなら、先手を打って謀反を起こして主君を討った方がいい。

武家の「忠義」という儒教道徳はむしろ江戸時代にこそ推奨され、普及し、武家の骨身にまで刷り込まれたものだ。だいたい儒教それ自体が、中国皇帝が官僚機構で全土を支配するため、つまり安定した政権に合わせた政治・道徳理論だ。 
主君が臣下に所領を与え安堵することとの引き換えに臣下が武功で主君に尽くすという中世の日本の、いわば契約関係と利害の一致する共同体としての大名たちの「家」の現実には、必ずしもそぐわない。 
まして当時は室町幕府の統治秩序が応仁の乱で崩壊した後の、「下克上」が当たり前の戦国時代だ。 


比叡山延暦寺 西塔 釈迦堂 鎌倉時代

本能寺の変が起こった天正10(1582)年に、織田軍は3月に徳川との連合で甲斐の武田勝頼を滅ぼしている。西では羽柴秀吉が中国地方で毛利攻めの真っ最中で、北陸では柴田勝家が上杉と対峙していた。さらに高野山攻略も秒読み段階で、先述の通り信長は(最新発見の一連の書状のやりとりによれば)これから四国攻めも始めようとしていた。

信長がこのように多方面で同時並行で軍事力を行使できたのは、家臣たちがそれだけ有力な、ほとんど大名クラスの武将に成長していたからでもある。

信長は所領を広げるたびにかなり広大な領地を家臣に恩賞として与えてその所領についてはかなりの自由度・独立性の高い統治を許し、またそれぞれの家臣に自分の強力な軍団も組織させていた。

こうした家臣達の競争関係がまた、織田全体にとって大きな活力にもなっていた。

また濃尾平野の平定を出発点にした信長は、畿内を中心に農業生産性も高く特産品も多い土地を押さえて来れた上に、教科書でも習う「楽市・楽座」制のように商業振興にも力を入れ、家臣団も自分の所領でそれに倣ったため、軍事力以上に強大な経済力を織田は持つことができた。

「勇ましい戦国武将」のファンタジーへの憧れで目を曇らされることなく史実を見れば、当時軍事力、戦争が強いことを誇り恐れられた勢力といえば、まず武田だ。織田の強みはむしろ豊かだったこと、財力・経済力だった。 
逆に武田はいかに戦は強くても、気候の厳しい甲斐は農業生産性が低く貧しいままで、また貧しいからこそ領土拡張政策を選び、まずは信濃を手始めに、各地を侵略して勢力を広げて行った。
その「戦国最強」の武田を破ることができた長篠の戦いの信長の斬新な作戦も、この大きな財力があってこそのものだ。 
長篠合戦図屏風 左に鉄砲を全面に出した織田・徳川連合軍
当時の日本で鉄砲はすでに完全に国産化されていて、その保有数は戦国時代末期の時点で当時世界一の十五万丁という試算にも相当に現実味があるが、それでも長篠の合戦の時点であれだけの数の鉄砲をひとつの戦場に集約させ、しかもこちらは硝石を輸入するしかなかった火薬を惜しげなく使えるほど潤沢に揃えるには、相当な資金力と流通ルートの確保が必要だったはずだ。


時代劇や戦国時代マンガや時代小説やゲームではほとんど無視されているが、天下統一にあと一歩までに至った織田の力というのは、信長の強烈な残酷独裁キャラとか、そのキャラ故に戦争が強かったとかではなく、こうした統治機構や政策の先進性で、強い経済と強い家臣団を育てて来れたことが大きい。

信長本人は確かに気まぐれで厳しく、突飛な発想についていくのも大変な、いわば無茶苦茶怖い上司ではあったが、ただ横暴な強権で押さえつけるだけの独裁者だったら、当時の日本でこんなに成功できていたはずがない。

むしろ織田の家臣はそれぞれに大きな自由度を与えられ、そのあいだで競争も激しかったからこそ、信長に忠実にそれぞれに大きな働きをなして、天下統一の一歩手前まで信長を押し上げることができたのだ。

延暦寺釈迦堂 鎌倉時代

だがこうした信長の統治手法は、織田がここまで大きくなってしまったとなると、信長と織田家それ自体にとっては両刃の剣にもなって来る。

それぞれの家臣が力を持ち過ぎれば、信長本人の強力な指導力に従ってくれているあいだはともかく、次の代にでもなればいつ力を持った家臣に取って替わられるかも分からないのだ。

そこで信長は巨大な権勢を見せつけるような安土城の築城と並行して、強力な自分の直属部隊を組織するなどして織田家本体にも力を集約させ、さらに後継世代での権力の安泰を狙って、家臣には難癖をつけたり無茶な軍役を課してその力を削いだり、それでうまく行かなければ激しく叱責したり処罰するような動きを始めていた。

これまで信長に忠実であることで自分も成長できた家臣達にしてみれば、今度は自分がその主君にとって大きくなり過ぎたので潰される危険を考えなければいけない。

そうでなくとも信長の、「天下布武」を標榜するその戦い方や圧力のかけ方、権力の見せつけ方は、はっきり言って当時の日本人の普通の価値観からすれば、よく言えば型破りで中世的なしがらみを打破し先進的、それだけについていくのも大変な、人を人とも思わず、当時であればもっとも気にされたであろう仏罰天罰をまったく意に介していなさそうな、空恐ろしいものでもあった。

天下統一が射程に入って来たとなると、征服する敵がいなくなった信長が今度は誰に矛先を向けるのか、分かったものではない。

またそうなってくれば、征服戦争と支配地域拡大が続くあいだは武功の競争で成立していた家臣団のなかでも、軋轢も当然起こって来る。気に入らない同輩を主君を動かして亡き者にするというのも、当然あり得た展開だろう。

釈迦堂の前の山の上にあるにない堂 江戸時代寛永期の再建
今ある比叡山延暦寺のほとんどの堂舎は徳川家が再興したもの

明智光秀のような織田の有力家臣から見れば、この主君が天下を統一するまではいいが、その先が怖い。

統一されたあとの天下の先行きの将来像がまったく見えない上に、自分の身も危ないかも知れないのは、柴田勝家にせよ丹羽長秀にせよ、羽柴秀吉でさえ、織田の有力家臣にとっては大なり小なり似たような事情だった。

いつ突然自分に謀反の言いがかりがつけられて、処刑されたり暗殺されたり自害が強要されるか、所領の居城で決死の籠城戦になり、召し上げられた所領が信長の息子の誰かに与えられる事態になってもおかしくないし、他の大名が和睦・臣従しそうな時に皆殺しの全面戦闘を命じるのだって、他国に織田の強さ恐ろしさを見せつけることだけが目的ではなく、うがった見方をすれば激しい戦闘で自分達を疲弊させて主家への脅威を減じるのが狙いかも知れない。

つまり誰が信長を殺しても不思議ではなかった。あとは実現可能性、信長を討った後での勝算があったのかの問題でしかない。

信長の墓所 大徳寺塔頭・総見院

小説的なロマンチシズムで見れば、信長の死は天下統一の夢の途中で明智の裏切りに潰えた悲劇にもなろうが、歴史学的に大局を見れば、武力統一までは漕ぎ着けて天皇から征夷大将軍なり関白なり太政大臣の官位を得て大義名分も整えられたとしても、それで「天下布武」「天下統一」が実現したとは限らない。

むしろそれだけでは「戦国時代」は終わらなかった。歴史や政治というのは、ゲーム的な戦争の勝ち負けでは済まない。

今年の大河ドラマが革命的なのは、詳細がまったく分からない主人公なのでストーリーの主筋がフィクションだからこそ、そのフィクションを構築するために当時の社会のあり方や価値観、歴史の流れを徹底的に踏まえ、絵空事的な英雄譚としての戦国時代を見せるのではなく、時代背景とその社会のあり方をリアルに浮かび上がらせようとしているところだ。

そうして見えて来る「戦国時代」の全体像は、家康が直虎に「わしはこの世が嫌いだ」「誰がこんな世にしてしまったのか」と言うように、そうとうに嫌なものである。

だからと言って家康は、この時点ではまだ「だから自分がこんな戦国の世を終わらせるのだ」とは考えていない。 
後代の、結果を知っている偏向史観ではなく家康のそれまでの人生を辿って当時の立場を考えてみれば、天下統一などとこの時点の彼が思いついたはずが…というより、思いつけたはずがない。

既に直虎が、織田の「天下布武」が成功するとは思えない、と台詞で言ってしまっているのは説明し過ぎというかテレビ的だが、そう言われなくとも無理であることが、二つの点で十分に表現されて来ている。

まず直接的な見た目では、つまり誰が見ても分かり易いポイントでは、市川海老蔵演ずる信長をあまりにエキセントリックな魔王・鬼として見せて来たこと(これはスターにしかできない荒唐無稽スレスレの造形で、海老蔵というのはまさにキャスティングの妙)だ。

市川海老蔵の織田信長

だがそれ以上に見事な作劇の妙は、11ヶ月間かけてじっくり「戦国時代」というか中世末期の日本社会の現実のロジックと当時の価値観をできる限り再現してでドラマを構築して来たことだ。それも武家だけでなく農民や商人、僧侶、果ては流浪民まで含めて当時の社会の全階級をほぼ網羅しながら、である。

直接的にはこの直前まで、徳川信康自刃事件をじっくり見せ、そこに小さな井伊家をこれまで何度も襲って来た悲劇を丁寧に重ね合わせてもいたので、今さら説明がなくとも明智光秀(光石研)が今川氏真(尾上松也)に「共に信長を殺しましょうぞ」と言うだけで、いきなり出て来た意外性はあっても、「誰が殺しても当たり前」とすぐ納得できてしまう。

ところで明智光秀は唯一残っている肖像画(上掲)が若い頃の、おっとりした童顔にも見えるものなので、これまでの映画やドラマではかなり誤ったイメージが流布されて来た。実際には本能寺の変の時点で数えで56歳、初老どころか当時ならとっくに隠居していてもおかしくない。

だから『おんな城主直虎』で白髪の老人になっているのは正確だし、まただからこそ本能寺の変を若気の至りの思いつきの突発的謀反であるかのように演出して来た既存の定型には無理があった。

史実の通り思慮深い老人としての明智光秀(光石研)

明智光秀は丹波亀山の城主として善政を強いた有能な人物だったし(ことその河川整備は今でも十分に役に立っている)、思慮深い教養人でもあった。今川氏真と親交があったというのは脚本家のフィクションだろうが、文化人で連歌・和歌にも堪能だったのだから、徳川家に仕えるようになっていた今川の、当時すでに隠居・出家していて京都に遊ぶことも多かったであろう氏真と懇意だったか、少なくとも顔見知りだったのもあり得る。

大枠でいえば『おんな城主直虎』は本能寺について、一応は「徳川家康黒幕説」を取っていることになるが、単純化された陰謀論に陥らないのは、あくまで光秀が主体的に考えて徳川に持ちかけた話にしているところだ。それも明智が信長暗殺計画を今川を通して徳川に持ちかけるのに十分過ぎる理由を、しっかり史実を元にしながら、このドラマではすでにおなじみになったうがった逆転の「実はこうだった」発想で設定している。

本能寺の変が起きたとき、家康は主要な家臣たちとわずかな供のものだけを連れて堺にいたのは、よく考えれば奇妙で異例な事態の不運な偶然だ。家康たちはこの前に信長の招待で安土城を訪れ、これから織田の案内で京都見物も楽しむことになっていた。

織田と徳川の力関係から言えば、接待する側の織田から主要家臣もねぎらいたいと言われれば、こういう体制でしか動けなかっただろう。万が一の身辺の警護も考えて軍勢を引き連れてというのは、信長がこの前にやったように駿河や遠江を訪れるのならその軍勢も含めて接待を要求できるが(というか要求をするまでもないが)、家康がそれをやろうとすれば「織田が守っているのに信用しないのか?さては離反を企んではいないか?」と痛くもない腹を探られるだけだ。

信長は本当に家康たちを接待したかっただけなのかも知れないが、大きくなり過ぎた徳川をこの際厄介払いしてしまおうと考えていてもおかしくはない。殺すことを狙ってわずかな供だけでいいと強要したわけではないが、強要するまでもなく家康には反論が出来ないのだから、どっちにしろ同じことだ。

現在の京都市内の本能寺(その後移転されている)

『おんな城主直虎』はこの信長の家康接待を家康暗殺計画と捉え、それを任された明智光秀が今川氏真を通して徳川に内通し、信長を逆に暗殺する、という仮説を取っている。もちろんそんな根拠は史料にないが、荒唐無稽な陰謀論と片付けられることでもない。

テレビドラマとして普通にうわべだけ見ていても、信長がなにを考えているのか分からない魔神のような人物として演じられているので、今度は家康を殺そうとしていても視聴者は納得するし、この脚本はそれだけで済ましていないところが見事だ。冷徹に利害関係だけを考えれば、信長がそう判断したとしても、それは信長なりの合理的判断でしかない。

織田・徳川連合軍の甲斐攻めが成功した祝いというのなら、ならば家康はこの一連の流れの中で3年前に信長の言いがかりに抗しきれず、嫡男・信康とその母の正室・築山殿の首を差し出しているのだ。

徳川幕府を開いた偉人のあまりに陰惨な過去なのでタブーになり過ぎて、従来はその禍根や影響の大きさすら十分に考慮されずに済まされがちだったが、考えてみればこの事件が織田・徳川双方に残した怨恨の深さ、徳川に残した傷は、とてつもなく大きかったはずだ。

家康が建立した松平(徳川)信康の霊廟 清龍寺

この徳川信康の粛清事件をクロースアップしたのも、『おんな城主直虎』が戦国時代劇として革命的と言えるところだ。最初から、少女時代の築山殿が後の井伊直虎と親戚の幼なじみという重要な登場人物で、井伊家を襲う数々の悲劇ですらこの信康事件の一種の伏線としてドラマが構築されて来た。

だから徳川方も今川氏真も、そして井伊にとってすら、信長を密かに恨み仇とみなす十分な理由があるし、だからこそ徳川が恨んでいてもおかしくないと百も承知の信長が、この禍根を未然に取り除き、関東・小田原の北条を使った両面作戦で三河・遠江・駿河という温暖で発展の可能性も大きい地方を直接手中に収めようとすることにも、なんの不思議もない。

信康事件は直接には信長の気まぐれのように見えながらも、決してそれだけではないように演出されていた。井伊家がかつて当主・直親(三浦春馬)を今川方に暗殺され、後を継いだ信虎にはそれでもその仇を討とうなどと考えることすら出来ない状況だった。ひたすら今川氏真とその祖母(義元の母)寿桂尼(浅丘ルリ子)に恭順の意を示して当主として認められなければならなかった彼女の過去と、信康と築山殿を殺さなければならなかった家や寸の悲劇が、執拗なまでに重ね合わされて来たのだ。

その上で、氏真が明智光秀の信長暗殺計画に乗るのも「瀬名(築山殿)と信康の仇」と言う。

今川氏真(尾上松也)

こうした悲劇が「戦国時代」では当然のロジックでもあったのだと再確認しながら、それを口にする氏真もまた井伊にとっては「直親の仇」でもある。だからこそ直虎は「ゆえに誰が仇かということをわたしは考えないようにしております」と返答する。ここまで「戦国時代」が実際にはどんな時代だったかを見せ続けたことで、信長の暴虐が単に信長個人の「キャラ」の問題ではなくこの時代の権力の論理的な必然であると同時にその限界を示し、だからこそこんな世を終わらせることの意味と、その難しさがテーマとして浮かび上がって来る。

つまりとりあえずは、その「戦国時代ロジック」の究極形である今の信長は排除されなければならない。

ただしそれだけで戦国時代が終わるわけではない。

実際の歴史では織田政権はまず豊臣秀吉に引き継がれ、「戦国時代の終わり」がようやく見えて来るのは本能寺の変の21年後、家康を天皇が征夷大将軍に任命するまで待たなければならない。なお井伊直政は関ヶ原の戦いの最後の最後で重傷を負った傷が元で、この前年に亡くなっている。

じゃあこの大河ドラマはどうやって終わらせるつもりなのか、というのはともかく、晩年の織田信長がかくも冷酷で残虐で横暴だったのは、必ずしも最初からこういう型破りな人物だったわけではない。

狩野永徳 織田信長像 大徳寺総見院

後代の、結果を知った上での歴史観だと、信長も秀吉も家康も最初から天下人になる野心があったかのように思われがちだが、『おんな城主直虎』は家康についてそんなことはまったくなかったであろう現実をかなりはっきり示して来た(むしろ直虎と万千代が、泰平の世を造るために家康に「天下人になるべきだ」と説き伏せる展開)。

実は同じことは、織田信長についても言える。

結果を知っている後代の発想では、織田信長が足利義昭を立てて京に上ったのは、足利将軍家の権威を利用した野心的行動に見えるし、義昭がその信長を討てと諸大名に密命を出したのは、信長に利用される形だけの将軍であることに怒ったか、信長の野心を見抜いて止めようとしたかのように思えてしまう(し、我々の世代の学校の日本史ではそう習っている)が、実際にはそうではなかった。

実際には信長は義昭の要請があったので、その時点の実力ではまだまだ相当に無理があったのに、それでも将軍家の頼みだから応じたのであって、しかもそうやって京に上った信長は、義昭の将軍権威の復興に懸命に尽くしている。

それも大変な熱意でだった。新たな将軍のための御所を造営する際、信長は建設工事を自ら指揮したどころか、自分でも人夫人足たちに混じって工事そのものに参加までしているのだ。

足利義昭が密かに諸大名に信長に敵対するよう煽動したのも、自分が形だけの将軍で信長の専横が目に余ったからではない。むしろ義昭の身勝手で、自分に近いお気に入りばかりを優遇するやり方で政治が混乱し、信長がそんな義昭に将軍として自覚を持って欲しいと懸命に諌めたことが煩わしかったからだし、実際に義昭の治世はかなりメチャクチャだった。

その足利義昭の裏切り(それも二度も)による織田包囲網の危機を乗り切った信長は、それでも義昭を最後まで殺しはしていない。

秀吉が建立した信長の菩提所・大徳寺総見院

つまり信長は将軍の権威で天下が再びまとまるようにと期待して献身的に協力し、要請された時点ではまだまだかなり無理があったのに、それでも義昭を立てたと考えた方が説明がつく。この時には「天下布武」という旗印もその使い方の意味が違っていて、自分の「武」で「天下を」ではなく、むしろ「武」の棟梁たる将軍の権威による全国統治の復興、という標語に読める。

なお明智光秀が信長の家臣になったのはこれがきっかけで、元々は足利義昭に仕えていた。 
光秀はどちらかと言えば保守的で真面目な性格だったと言われる。信長が義昭を諌めた意見書を出した元亀3(1572)年の時点で、すでに光秀は40代半ばの分別盛り、その光秀が主君を替えたのにも、やはり義昭についてよほどのことがあったのかも知れない。

それより以前に、濃尾平野を平定した信長は、その全体が見渡せる岐阜城に本拠を置いている。逆に言えば濃尾平野全体から見える山頂にある岐阜城を、あえて目立ち飾り立てるように改造しているのも、武力の直接行使よりも「戦わずして勝つ」、つまり戦おう、歯向かおうとは思わせない演出だろう。

山頂の居城では行政になにかと不便を来すので山の麓にも館を置き、この館の方には見事な庭園や豪華な建造物を配していたのも、同じような政治的効果を狙ったものだろうし、城下町も整備して特産品の生産を奨励し、楽市楽座制度で商業の発展も計っている。

足軽を城下町に住まわせる兵農分離も、確かに軍団の強化にもつながっただろうが、足軽に給金を保証して生活を安定させることと、農民に軍役が課されて農作業や生活が阻害されるのを防ぎ、さらに侵攻した地域で下級武士が略奪や虐殺を繰り返すことも防ぐ二本立ての意味合いだって、決して小さくはなかったはずだ。

むろん経済的な豊かさは軍事力の強化にもつながりはする。 
逆に甲斐の武田が信玄の下で「戦国最強」になったのは、信玄が野心家だったというだけではなく、領地の拡大が山間部で冬は雪深い土地で領民が少しでも食べて行けるようにするための選択でもあった。

信長が岐阜の居館に見事な庭園を設けたりしたこととの関連で言えば、千利休を重用したのも、茶の湯はいわば接待のとてつもなく有効な政治的手段だった。

利休のすべてを削ぎ落としたかのような美学は一方で、たとえばにじり口の二畳台目の茶室は武力ではなく腹を割った話し合いで問題を解決する場所としても設計されている。

千利休 二畳台目茶室「待庵」

刀を持ち込むことが出来ないし、その中では客と主人のあいだに上下関係が成立しないのが元々のコンセプトだ(より広い茶室となると上座や下座や陪席などの席次が設定されるが)。

 大井戸茶碗 銘「信長」 織田信長・豊臣秀吉・古田織部所用 畠山記念館蔵

信長は信長で、始めは少しでも戦争を避けよう、戦ではない手段で繁栄しよう、戦乱で民を泣かすことなく少しでも暮らしやすい社会を造ろうという意思もあって、室町幕府を建て直して秩序ある世の中にしようとも思っていたのではないか、とも考えられるのだ。

だとしたらその信長が変質したのは、具体的には足利義昭に裏切られたこと、より大きな視野で言うなら幕府の復興による秩序の回復は非現実的な夢でしかない(足利将軍家はおよそその器ではない)と気付かされたからだった、とも言えるのかも知れない。

総見院は明治の廃仏毀釈で襲撃され 創建当時のまま残るのはこの鐘楼と門だけ

さて、同じく後代の、結果を知っている故の歴史観では、本能寺の変が無謀に思え、それも「最大のミステリー」と言われる理由のひとつになっているのは、そのクーデタ計画の実現可能性が問題になるからだ。

つまり、明智光秀は俗に言う「三日天下」で終わって、わずか十一日後に山崎の合戦で豊臣秀吉に敗れている。

芳員『粟津ヶ原の戦い』  弘化四年(1847)~嘉永五年(1852)
山崎の合戦で敗走する光秀を木曾義仲に見立てた浮世絵

確かに、光秀にとって信長を討つことは大きな賭けだったが、まったく勝算がなかったわけではもちろんない。

信長の嫡男で名目上はすでに家督を継いでいた信忠も二条城で討っているので、織田家臣団の誰でも謀反人である自分を殺すことで織田家中の最大の実力者というか事実上の天下人の後継者になれる…というか、結果として豊臣秀吉がそうやって天下人になっているわけだが、これも後付けの歴史観の偏向した思い込み過ぎないのかも知れない。

実際には、光秀は秀吉に討たれるまでの十一日間になにもしなかったわけでは無論ない。

即座に安土城も攻め落とす一方で、朝廷に働きかけて自らの行為と地位は早々に正当化しているのはいかにも折り目正しい光秀らしく、当時の価値観で言っても定石だったし、好意的な返答には至っていなくとも、織田の他の家臣たちを説得しようともしている。

「光秀でなければ誰がやってもおかしくなかった」のがその家臣団の現実だったのであれば、光秀にだって普通に考えれば相当に勝算があったことになるし、その意味で「黒幕説」、つまり光秀が誰かに踊らされて主君を討ったという俗説はナンセンスだ。

だいたい経験も豊富で教養人としても知られる有能で老獪なベテラン政治家だった明智光秀が、そう簡単にそそのかされたり、まして「若気の至り」の野心の暴発的にこんなことをやるとも思えない。

むしろ秘密裏に周到に準備され、考え抜かれて計画されたクーデタだったはずだし、証拠となる文書記録が残っていないから根拠がないと言っても、たとえば密かに共謀関係だった相手がそんな文書を残すわけがない。

徳川家康(阿部サダヲ)

逆に言えば、『おんな城主直虎』では井伊家が主人公なのでその主家である徳川が明智の密かな共謀者という仮説を取っているが、本能寺の変が光秀の独断先行ではなく有力な共謀者さえいれば、これは無謀な賭けではなく、それでも相当にハイリスクではあるが、しかし実現可能性が十分にある計画になる。

その共謀の可能性が高いのは誰かと言えば、例えば3年前に信長の横暴で妻子を自らの手で殺すまで追い込まれ、それでも信長に臣従を続けて(面従腹背?)駿河まで手に入れた徳川家康だろう。

羽柴(豊臣)秀吉

結局は光秀を倒して信長の後継者候補ナンバーワンに躍り出た羽柴(豊臣)秀吉にしてみれば、光秀が乱心して主君を討ったというくらいの話にしておいた方が、いろいろ自己正当化の上で都合がよくもあった。

もちろん光秀があてにした共謀者が羽柴秀吉で、秀吉が信長を裏切った上でしかも今度は光秀も裏切った、という「真相」だってまったくあり得ないわけではない。 
…というか、後述するような秀吉の性格を考えれば、これもまた大いにあり得る。

また秀吉が光秀を討ってしまえば、もともと仲間の信頼で結び付いたというよりもライバル関係だった他の織田家臣団にしてみれば、「光秀でなければ自分がやっていた」「信長は自分達にとって危険な主君だった」なととはおくびにも出さなくなる(決して言えなくなる)のも当然だ。

そしてなによりも、明智光秀の立場から見れば、毛利攻めで備中高松城包囲戦の真っ最中だった羽柴秀吉が、まさかこうも速やかに自分を倒しに戻って来るなどとは、まったくの想定外だったことを忘れてはならない。

むしろ水攻めの兵糧攻めという時間のかかるやり方で戦争中だった秀吉は、光秀から見ればノーマークでもおかしくない相手だった。

ところが秀吉は、高松城攻防戦をあっというまに和睦に持ち込み(毛利側に信長の死を知られる前に、というギリギリの交渉術の離れ業)、その軍団に全力疾走させて、それこそあっというまに備中(岡山県)から山城(京都府)まで戻って来るという「中国大返し」をやってのけた。

そして最終的には、もっととんでもない想定外の積み重ねが、光秀の計画を破綻させることになった。

月岡芳年 「大日本名将鑑」より『織田右大臣平信長』明治時代

本能寺で寝込みを襲われた信長はすぐさま宿泊する客殿に火をつけているので、どのように死んだのかの模様はまったく分からない(これまでの大河ドラマでもおなじみの、森蘭丸がどうこう等は基本的にすべて後代のフィクション)。

自害はしたのだろうが、まず光秀にとっての第一の想定外として、遺体が見つからなかった。

大徳寺総見院の信長の墓 ただしこの下には遺体も遺骨もない

光秀が計画通りに信長の首をあげていれば、状況はまったく異なっていただろう。

しかも遺体が見つからなかったことを、秀吉が早々に察知しただけでは済まなかった。この情報に飛びついた秀吉が、信長は生きていて無事本能寺を抜け出し、中国からとって返している途中の自分に合流する、という手紙を各所に送りまくるなんてことは、光秀にとっても(もし共謀があったとしたら家康にとっても)まったく予想などしていなかった事態だったに違いない。

総見院 加藤清正が朝鮮出兵で持ち帰った石を寄進したとされる井戸

この秀吉の「信長は生きている」デマだけで、他の家臣団や同盟諸侯はまったく動けなくなった。

光秀に共謀者がいても、これではその共謀自体がなかったことにする他はない。光秀が信長を殺してくれて実はほっとしていても、そんなことは絶対に言えないし、共鳴して味方として動くなんてもっての他だ。

かと言って他の有力家臣の多くがすぐに秀吉側についたわけではない。ただ、動かなかっただけだ。

それにしても、こんな大噓をこの状況下で思いつける(いきなり主君が謀反に倒れただけでなく、自分は最前線で持久戦の真っ最中で、しかも遠く離れていた)秀吉というのも相当なものだ。

この後、秀吉が信長の後継者として執り行なった葬儀も凄い。遺体が見つからなかったので等身大の木像を棺桶に収めて火葬にしたのだが、その木像はわざわざ貴重な香木の沈香で造らせたのだ。ちょっと炊いただけでも強い香りを放つ沈香を大量に燃やしたわけで、その香りは北の大徳寺の方角から京中に広がった。ド派手なパフォーマンスを、それも見せるのでなく匂いで印象づけたわけだ。

織田信長坐像 大徳寺総見院 火葬された木像の写しと思われる

織田信長は今で言うサイコパスだったのではないかという見解は根強く、今回の市川海老蔵演ずる信長でその印象はさらに強くなるのだろうが、サイコパス性では秀吉も負けてはいない…というより、よほど本格的なサイコパスではないのか?

なおサイコパス、非社会性パーソナリティ障害というのもかなり誤解されている現象で、この『おんな城主直虎』で最後の方になって突然出番が増えた信長がただ怖い、常軌を逸していて血も涙もないだけで「サイコパス」と断言できるものでもない。 
むしろ足利義昭を最終的に追放するまでの信長が妙に真面目と言うか、かなり浮世離れした正義感の強そうな行動と、それ以降のあまりもの極端な切り替えの早さの方が、サイコパスだった可能性を示唆するところだったりもする。 
「サイコパス」は端的に「良心がない」と形容される。この俗流定義はもちろん、では「良心」とはなんぞや、という禅問答にすぐに陥ってしまうわけだが、「良心」という曖昧模糊とした概念は、足利将軍家の末裔を立てて「天下布武」で秩序の復興、というような明快な「正義」とはかなり異なったものだ。 
その意味で「正義」は合理主義で明快に理論化して割り切れるものだが、「良心」はそうではない。 
たとえば「正義」に反する者は殺していい、いや殺すべきだ、というのは、その「正義」を信奉する者の内面では理論的な合理化が可能だが、そこで殺人自体に躊躇する本能的な心の動きが「良心」だ。「サイコパスには良心がない」ないし共感能力がない、人間性がない、というのはこういう意味で、現に晩年の信長の行動でさえ、戦国時代のロジックのなかで完全に合理的ではあった。 

秀吉が「信長は生きていて」という大噓を平然と流布して他の織田家臣や同盟諸侯を動けなくしたのも、戦略的には完全に合理的な判断ではある。だがいわゆる普通の人間には、そこで「嘘をつく」ということに対する本能的な躊躇が働き、ここまでは出来ないだろう。

結局一般人にいちばん分かり易い「サイコパス」の判断基準は、この秀吉のように自分の目的のための合理性さえあれば平気で噓をつける人というのは、相当に危ない。

総見院は明治の廃仏毀釈で略奪に遭いほとんどの堂舎を失った後
大徳寺の修行道場として使われた 本堂はその大正時代の禅堂を改装したもの

歴史的な出来事について「現代の価値観で過去を判断してはいけない」という教訓めいたことを言うのは、たいがいは歴史を知らず過去の価値観も理解できていない(し興味もない)人たちが反論できなくなった時に無責任の言い訳か、自分の現代の身勝手な価値観を押し付けている場合がほとんどだ。戦時中に日本軍がやったことの多くは普遍的にあきらかに酷いことであって「みんな(他の国)もやっていた」は言い訳にならない。

晩年の織田信長がひどい虐殺魔だったというのは、信長にはそうなる理由もあったにせよ、だからといって正当化できるわけではないし情状酌量の余地もあるとは思えず、もちろん当時の日本の道徳では許されたなんてこともない。単に信長に逆らえなかった、現実と妥協するしかなかっただけだ。

信長にとってそうした残虐行為が「当時では仕方がなかった」というのなら、それは「戦国時代」がそれだけ、当時の人間にとってもひどい時代だったというだけのことだ。

信長が父・信秀の菩提所として建立し秀吉が再建した大徳寺黄梅院

そうした色眼鏡を排して言うのであれば、明智光秀というのはもっと評価されていい人物だし、本能寺の変はただ「動機が分からない、しかも無謀」だから「日本史上最大のミステリー」と言うのも、そこで光秀の動機についていろいろと俗説を空想するのも(「土岐氏の再興」に至っては「そういうこともなかったと断言はできませんがねえ…」としか言いようがないし)、趣味としてはおもしろいかも知れないが、あまり意味はない。

むしろそうなるに至った事態の推移と、そうした事態を醸成した「戦国時代」の武家社会のあり方をまず分析的に見るべきだし、その時代と社会の全体像をちゃんと見ることからなぜそうなったのかを考えてこそ歴史が教訓になるのが、真の意味での「現代の価値観で過去を判断してはいけない」のはずであって、秀吉が信長の後継者というイメージを巧妙に利用するために構築した後付けの歴史観で明智光秀の行動を云々することの方こそ「現代の価値観で過去を判断」でしかあるまい。

信長の比叡山焼き討ちも本願寺派大弾圧・大虐殺も高野山襲撃計画も、普遍的な道徳として虐殺は虐殺だし、「当時の価値観」を言うのなら敬虔な仏教国では「罰当たり」「天も恐れぬ」の極みだ。 
単に信長がそうした人間的な価値観というか良心の躊躇を超越した極度な合理主義者だった、つまりサイコパスだったというだけのことで、そういう信長に強制されたからって家康が信康や築山殿の死に自らの罪や責任を感じなかったわけもない。
戦時中の日本軍の慰安婦制度などというのはもちろん当時の軍に求められた正義感でこそまったく不道徳な暴虐であり、だから軍専用のただの(強制)売春制度を国が大掛かりに運用していた不道徳の極みを誤摩化すために、将兵の「慰安」をもっともらしく装った「慰安婦」なる呼称をでっち上げたのが「当時の価値観」の実際だ。軍の内部だとかでは皇軍の兵士に性奉仕するのは当然だなどと実は思われていたとしても、そんな価値観は当時でもおよそ社会的に許容されるものではない。
まして武装した兵士がやってきて脅して強引に慰安婦をリクルートなぞ、完全に当時の一般的な価値観や道徳観に反して大問題(というか立憲国家では許されない組織犯罪)だからこそ、公式な命令書に「強制連行しろ」と明記なぞ最初からしているはずもない。 
国民相手には「八紘一宇」の「大東亜共栄圏」という偽善プロパガンダを吹聴していたからこそ、南京攻略時に大虐殺をやったことだって隠蔽するしかなく、だから「証拠がない」「被害者数が分からない」ようにしたのが実態だ。それを現代の価値観というか都合で「証拠がないからでっち上げだ」などというのは、「現代の価値観で過去をねじ曲げる」の典型でしかない。

そうすることでこそ、たとえば光秀がなぜ信長を討とうと決意したのかも、自ずから見えて来るはずだし、具体的な契機などについては史料が残っていない以上は謎のままでも、史料で抜け落ちている部分で起こったであろうことも、抽象的なレベルでは自ずから輪郭が浮かび上がって来るだろう。

黄梅院の庫裏 天正17(1589)年 小早川隆景による建立・寄進

もちろんそのような抽象的な推論のレベルでは、映画やテレビドラマの時代劇にはならないわけで、その部分を巧みに構築されたリアリティ性の高いフィクションで補っている『おんな城主直虎』での本能寺の変の展開は、これまで日本人が漠然と、後世の後付けの合理化を鵜呑みにして信じて来た歴史観を鋭く問うてもいる。

これからも「大河ドラマ」でNHKが、つまり公共放送が日本史上の出来事や人物を取り上げ続けるのなら、近現代に国家政府の都合いろいろねじ曲げられて来たことも多い我々の歴史観を、このように問うものであるべきだろう。

「戦国時代」ひとつとっても、我々が思って来たようなイメージは、史実や歴史的な現実とはかなり異なっている場合も多いのだ。

それにしても記録上の史実ではこの本能寺の変の直後に亡くなっている井伊直虎の話を、脚本家はどうやって終わらせるつもりなんだろう? 
井伊直虎(柴咲コウ)
これまでも信虎が考え抜いた計画が、思わぬ番狂わせでひっくり返ってしまう展開が相次ぎ、井伊家は先祖代々の所領である井伊谷(いいのや)まで失ってしまった。 
そして最後のクライマックスの本能寺の変もまた、豊臣秀吉の想定外・奇抜過ぎる発想と行動の番狂わせで、明智光秀や家康や万千代、直虎が願ったような結果にはならない。 
もしかして直虎が「井伊直虎」としては亡くなったことにして、家康の影の側近として供に泰平の世を目指すことを決意する、というようなラストにでもなるんだろうか? 
その直虎の下には明智光秀の幼い息子も預けられているのも、この子はいったいどうなる(誰になる?)のやら… 
直虎については、まさかとは思うが…家康の身近には確かに、彼女が「井伊直虎」の名を捨てて(死んだことにして)この人物になった、と言えそうな側近はいて、徳川の平和統治の理念的な礎を築いた大功労者ながら、その前半生がよく分かっていない。 
家康・秀忠・家光の三代に渡って徳川家を理念的に支え、とりわけ家光に深く慕われた天海(慈眼大師)だ。 
天海僧正坐像 喜多院慈眼堂 寛永20(1643)年
天海の没する数ヶ月前に生き写し像として作られたと言われる
 
川越喜多院・天海を祀る慈眼堂
ちなみに天海については「実は明智光秀だった」という俗説もあるのだが、「実は女だった」でもこのドラマなんだから構わないのではないか、と…。 
いや天海は天台宗で、井伊次郎法師は臨済宗の尼僧だったんだから、とは言っても、いくらなんでも直虎が実は以心崇伝になった、というのはさすがに年齢的にもあり得ないと思いますが…。
天海が家康の一周忌に法要を行った仙波東照宮

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