最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

4/05/2011

ジュリアーノ・メール Juliano Mer (1958-2011)


「俺は1958年にナザレで生まれた。その時、父は牢屋に入っていた。4歳のとき面会に行ったのを憶えている。しばらくはナザレの共産党事務所に住んでいたが、ハイファに引っ越した」


「六日間戦争が始まり、エジプト軍がイスラエルの軍艦を撃沈したので、暴行されて腕を折られた。それからチェコスロヴァキアだ。父が党を代表して派遣された」


「1968年から1972年の、ソ連軍の侵攻の2ケ月前までチェコスロヴァキアにいて。それからモスクワ、ドイツ、ハンガリー、トルコ、イタリアを転々として、イスラエルに戻ったら、軍に顔を蹴られ殴られ、『汚いアラブ野郎』と」

アモス・ギタイ『エステル』のジュリアーノ(文章は彼が語る自身の生い立ち)

ユダヤ人の母と、パレスティナ人の父を持ち、「俺はハーフじゃないよ。100%イスラエル人で100%パレスティナ人だ」と豪語していた俳優、演出家、映画作家で和平運動家のジュリアーノ・メールが、パレスティナ自治区のジェニンの彼自身がディレクターを務めていた「自由劇場」の前で、暗殺された。

黒い覆面をかぶった暗殺団に、運転していた車が銃撃されたのだ。


 ハーレツの記事
 <アルジャジーラの記事


ジュリアーノについて、なにを言おうにも、今は言葉が見つからない。彼は和平と自由のために戦う映画人であり、戦う演劇人だった。2004年からジェニンに構えた「自由劇場」で、パレスティナ社会の右傾化・宗教保守化に抗するラディカルな舞台も立て続けに発表していた。

とても気性が激しい人だが、とほうもなく子煩悩で、愛情深い男でもあった。

   アモス・ギタイ『ベルリン・エルサレム』

「ジュリアーノのようなラディカルな人間は、自分の肉体を使って憎しみの溝を超える橋になる。ジュリアーノの場合、それは本物だった。常人を越えた大きさを持った男だった」−アモス・ギタイ

"There are people like Juliano, who are radical people, try with their own bodies to serve as a bridge over the gorges of hate. And in Juliano's case its real, he is a larger than life" -Amos Gitai, from haaretz

母はユダヤ人、父はキリスト教家庭出身のパレスティナ人で、パレスティナ共産党の幹部として東欧諸国を渡り歩いた。

多重のディアスポラを抱えた、引き裂かれたアイデンティティを持った芸術家でもあったからこそ、その心は、激しくも純粋だったのだろう。だから彼は、闘い続けたのだ。

   アモス・ギタイ『ケドマ』

憎しみを超えようとする肉体…僕もちょっとだけ「共演」したアモス・ギタイの『ケドマ』では、ジュールはあえて、イスラエル独立運動ゲリラのリーダーを演じていた。『ベルリン・エルサレム』でも攻撃的なキブツ運動家の役。そういうことが平気で出来る男だった。

藤原敏史『インディペンデンス アモス・ギタイの映画「ケドマ」をめぐって』のジュール

4/01/2011

嘘でもないのにエイプリルフール的な…あまりに不条理な…そして滑稽な…悲しいまでに…

日本政府は「東京電力の隠蔽体質で日本は国際社会の信頼を失う」というメディアの皆さんの危機感に賛同し、フランスの国際原子力資本アレバ社の参入を頼み、今後は安全で世界への情報公開万全の原子力推進へと、方向転換を図ることを決定しました…というのは、エイプリルフールでは、ない。

日本政府は次回G20で福島原発事故を元に国際的な安全基準を作るというフランスの提案に賛成、ということは事故った上にフランス企業の技術協力を求めてしまった日本に事実上発言権がなく、仏米英主導の基準を押し付けられて海外資本参入での原発推進となることも、エイプリルフールではない。

しかもエイプリルフールだと本気で思いたいのは、そもそもが福島と同形の原発の使用実績があるわけでもなく、地震・津波の事故の情報蓄積もなく、今回の事故に対処するノウハウがあるわけでもないフランスの「技術協力」を菅政権が仰いだのは、ひたすらマスコミ対策世論対応のためだけだと言うこと。

一方でアレバにしてみれば今回の事故は情報の宝庫、こんな事故が実際に起るなんてめったにないわけで、技術者を派遣することで情報収集、それが地震・津波対策が必要な東南アジアや中南米への原発売り込みにおいて必要な技術開発へと繋がること。我々はいわば実験動物になるのだ。

フランスは「原発大国」で、日本は、東京電力は遅れているのだという無邪気な思い込みも結構だが、ついひと月前まで日本もまた「原発大国」であり、そして原子力技術はどこでも国策であり国家機密レベルのものなのだ。そんなことも気づかずにヒステリックで稚拙な政府叩き、東京電力叩きに邁進して来たメディアの罪は大きい。

ぶっちゃけた話、発展途上国への原発技術の輸出において、フランスと日本はライバルだったわけで、無論、この事故で日本が原発技術を海外へ輸出だなんてもはや夢また夢の世界なわけで、フランスやアメリカに「技術協力」を仰いだ以上はその凋落は決定的だ。まあ世界で唯一の被爆国がそんなこと商売にしちゃいけないのはその通りなのだが、もっとおっかないシナリオが展開する可能性は大きい。

技術者派遣や物資提供だけでなく、なぜCEOが来日し、首相がサルコジと会っているのと並行してそのCEOは経産大臣と会談していたのか。日本の原発市場への参入も射程に置いたトップセールスであり、G20での協議での「国際的な安全基準」が日本への市場開放圧力となるのも、織り込み済みだ。

しかも仏、米、英が日本に原発の市場開放、資本参入を要求する正当性を、日本のメディアはすでに彼らに無邪気にも提供してしまっているわけだ。つまり利権癒着体質の日本の原子力産業の隠蔽体質だからこんな事故が起ったのなら(曰く「東京電力の人災だ」「責任追及」)、公明正大に世界にオープンにしなければ日本国民も納得しないという理屈。

生き馬の眼を抜く国際資本ビジネスの現実を考えもせず、海外メディアの扇情的な報道を「真実はそっちだろう」と踊っていた日本のメディアは、ジャーナリズムとしてあまりに幼稚だ。

始末の悪いことに、なぜ欧米メディアが原発事故に関して日本政府や東京電力の「隠蔽体質」を激しく批判するような論調になったのかと言えば、それは彼らがそう評価したからではなく、日本の報道関係者がそう言ってるのだからそうなのだろう、と言うわけで鵜呑みにして誇張して報道したというだけのこと。

無論、政府の情報の出し方に問題があるのはその通りだ。ジャーナリズムはそこを批判する責務はある。だが毎度おなじみの利権で腐敗で隠蔽で「原発マフィア」だのというようなことだったのかと言えば、それは部分的にしか正しくない。「隠蔽体質」といよりは、ただの官僚的な保身に過ぎない。

政府や東京電力や保安院がもっと正直であるべきだった点はなによりも、停電で起った事故である以上、原子炉の現状を把握するのに必要な計器がほとんど作動せず、だから情報がもの凄く限られていたということだ。それをちゃんと説明しないから、情報が「ない」ことが情報を「隠している」かのように見える。

このような事故の場合、なるべく安心感を与える情報の出し方をするのはパニックや風評被害の防止のためには当然のことだ。だが政府の情報の出し方は説得力のある安心感ではなく、言質をとられず逃げを確保する保身のための、うわべだけの安心感の演出に終始してしまった。これではかえって不安になる。

危機管理の上で安心感を与える情報の出し方は「安心です」と繰り返すことではない。出せる情報の範囲で、できるだけ分かり易く説明し、全体像を明らかにすることだ。だが政府はそれが出来ずに「安心だ」と「可能性としては」を繰り返し、全体見通しも表明できないまま、不正直さの印象ばかりになる。

政府で会見している枝野官房長官も菅首相も、会見を取材している記者にも、事故の全体像を把握する能力がない。テレビ局にもない。専門家が呼ばれても、頓珍漢な質問に苛立ちながら、なんとか安心感を与える説明をしようにも、また一般人向けの平易な語彙を操れないために、不完全燃焼に終って説得力を持てない。

分かり易い説明をしようとするあまり、噛み砕くのでなく単に難しい部分をはしょってしまう説明の結果、言葉だけの知識として「内部被曝」と言った用語を聞きかじってるだけのにわか評論家と化した一般人が、基礎的な教養も欠けたまま「隠蔽だ、あの学者は推進派の御用学者だ」と糺弾するスキが出来る。

たとえば原子炉の専門家がこの事故の説明をTVに求められると、なにしろ冷却系の故障なのだから、原子炉の発熱と冷却の原理を説明しようとする…とウラン燃料でも混合燃料でも核分裂で熱を出すのは同じ原理だから、難しい物質名は省いてしまう。

すると三号炉はウランだけでなく混合燃料であることを聞きかじっていただけのジャーナリストたちからは、「プルトニウムの隠蔽だ!」という糺弾が始まる。

なにしろ素人の聞きかじりに過ぎないジャーナリストの多くは、事故の原因と結果のプロセスよりも「毒性の強いプルトニウム」という単語に反応する。その物理的特性には興味もないから、「なぜ放射線量ばかりでプルトニウムを計測しない」…ってそんなの技術的に無理だって、ってことにも気づかない。

一方で事故の現象と収束を解説する原子炉の専門家にとっては、この事故の技術的な解決策が最大の関心で、派生物として出る放射性物質は、原因を止めれば出なくなる、としか考えられない。そこに放射能にこそが最大の関心事(まあそれは当然だ)であるべったり文系志向の記者たちとの齟齬がまた生まれる。

また放射線の健康被害についての基礎教養を、ジャーナリストも一般人も持っていない。

放射線に限らずどんな毒でも致死量というものがあり、あくまで量と蓄積と累積と確率の問題なのに、彼らはあらゆる薬が量によっては毒になる、あらゆる麻酔や抗精神薬が麻薬でもあることも、考えたことすら、ないのだ。

一般人に伝える言葉を持たない専門家と、専門知識を理解するための基礎教養である中学高校までの理科すら踏まえてないジャーナリストや一般人、そして総責任者である自覚のない政府のあいだで、苛立と相互不信が蔓延し、しかもネットの功罪で中途半端に断片化された言葉だけの似非知識は蔓延する。

みんな知ったかぶり。

大規模な、自治体ぐるみの避難というような事態になれば、公表する前に避難計画などを整備するのは当然のことだ。だが日本のメディアもそういう常識を忘れて行動し、また政府は政府で既に信頼を失っている上にそうした細かな配慮が出来ない状態にある。それが隠蔽しているかのような印象を加速させる。

こうして事故をめぐる言説は、実のところよく分かってない官邸とやはりよく分かってないメディア関係者と、情報の出し方が下手過ぎる東電と保安院と、その混乱に苛立つ専門家と、不安情報が麻薬のようになってる一般人のあいだで、出来の悪い伝言ゲームの相互不信に陥る。そして政府と東電は批判される。

ところが官僚的な優等生体質の今の政権は、驚く程批判に弱い。

保安院も天下り上層部の官僚的な保身本能が暴走し、まともな科学技術的な説明すら出来なくなってしまっている。そして官邸は責任逃れ批判逃れで「可能性」を繰り返す。

こうしてますます政府批判が高まり、政府はそのことばかりを気にする。

かくして事故を体系的に理解しどう対処するのかを考えることよりも、全体像から切り離された個々のディテールに一喜一憂する世論が出来上がり、また細か過ぎる報道がそれに拍車をかける中、情報発信の稚拙さゆえに不信感を持たれた政府は、事故の解決や国民の安全よりも、世論の対応に精力を注ぐ。

こうして事故の解決のことよりも、世論対応にばかり汲々とする政府の脆弱さに、見事につけ込んだのがサルコジとアレバ社だったというわけだ。

政府も報道も国民も大局を見失ったなかで、さてこれからどうするの、というくらいの政治的・外交的・経済的な難局を引き起こしてしまい…

…さてこれからどうするの?

確かなことは、我々がこの原発事故を教訓に、日本はこれからどうするんですか、我々の生き方や社会のあり方はこれでいいんですかを自分たちで考えるチャンスを、自ら放棄してしまったこと。そして周辺地域の被災者ばかりが振り回されて、それでも発言権を持てない田舎として、何も言えないままに犠牲になるのだ。

…というところで、事故は事故で相変わらずそれなりに危険なまま、日本の歪んだ中央集権と一億総役人根性優等生体質の病弊ばかりが露になってしまった。

まさに国難であり、平成23年の敗戦。

個人的には、ヒロシマ・ナガサキの死者たちと生き残りたちに申し開きができないよなぁこんなんじゃ、と思う他なし。

…と同時に、1万2000人を超える死者が確認され、今なお届け出があるだけでも1万6000以上の人の行方が分からない、すでに現実に起った地震と津波という巨大な厄災があるというのに、まだ一人の死者もなく、数値的にそこまで命に関わる放射能汚染は原発の周辺以外では確認されてもいないのに、地震のことより原発のことばかり皆が考えているのも、なんだかバランスとしておかしな話だ。

考えてみれば原発の周辺で既に避難勧告が出ているか、今後避難対象になるかも知れない地域は、地震と津波の甚大な被害を受けているのだ。

我々はそのことすら、つい忘れがちだ。

3/30/2011

「核の危機」とアンドレイ・タルコフスキー

Sacrificiul – Tarcovski 1/5  RO Sub “Offret Sacrificatio” (1986)
 
 Vezi  mai multe  video    din   film
アンドレイ・タルコフスキー『サクリファイス』(1986)


福島第一原発の事故については、僕なりに噛み砕いた概説をこのブログにも載せたが、基本の部分はそこまで分かり易い話だというのに、当事者側の発表もマスコミやジャーナリズムの報道も、すっかり混乱の極みになっている。

一昨日の、敷地内の土壌サンプルからの微量のプルトニウム検出を巡る騒動で「これでいよいよ最悪の事態だ」と色めき立つのに至っては、失笑ものである。土壌サンプルの採取はよく聞けば3月20日と21日に五カ所からで、そのうち二カ所で今回の事故由来と特定できるものが、ということ。

つまりその漏出は21日以前であり、この発表はそれまでに相当に危機的な状況があったことを裏付けるに過ぎないデータだ。

そこで思い返すならば、ウラン/プルトニウム混合燃料がある三号炉で火災があったり放水をしたり、事故の初期に一号炉二号炉で蒸気を抜いたりしたことがあったわけで、微量のプルトニウムはその時期の漏出分である一方で、それらの問題は今では解決とまでは言わずともひとまずは安定していることには、なぜか誰も言及しないのだ。

ここ二、三日話題になっている水にしても同じことだ。その原因は特定されていないにせよ、一部は放水の結果かも知れないし、とくに二号炉は初期から指摘されていた格納容器の亀裂かなにかの可能性、そこから漏れ出した水であるにせよ、もうかれこれ20日近く経った、その結果が溜ったのだと推測するものだろう、普通は?

どちらも決して突然湧いて出た新たな災厄でもないのに、たかが三週間弱の時系列すら、我々は忘れがちなほど、興奮しきって「最悪の事態だ」と叫んでいる。

   アンドレイ・タルコフスキー『ストーカー』

もちろんこの事故は可能性としてはとても危険なものだし、現実的な危機感は持って当然だ。

とはいえ放射線や放射性物質の健康被害についてもまだこの短期ではさほど深刻に考慮すべきレベルのものではないという程度の教養というか判断力は失ってはいけないし、知らなかったとしたら知ろうともせずにそれで騒ぐのも、厳しい言い方をしてしまうなら、あまりに馬鹿げている。

かといってその知るべき情報というか教養が、ほとんどの人の手に届くところにはないのもまた現実だ。

考えるだけの素養を学校で教わっていないのか?いや義務教育の一部のはずだ。

では忘れているのか…情報の伝わり方も確かに拙いのはもちろんだが、受け取り方のほうにも問題はある。

先日のテレビで長崎大の放射線医学の先生が「こう言っては悪いですが、日本全国が理科音痴、そこへ物理学が降って湧いて来た」と言っていた。

言い得て妙ではある。

その自然現象、物理現象を理解できない自分たちの不安の理不尽さを自覚しないで済ますためだけに、論点を日本社会の内輪の内部抗争にすり替えて、「政府が、東電が信用ならん」「安全神話は崩壊した」「原発マフィアの利権だ」と叫ぶことに血道を上げているようにも見える。

それはそれで、まったく別次元の問題であり、会見場でなにを騒ごうが事故が理解できるはずも、事故が収束されるはずもないのだが…。

65年前にこの国は原子力爆弾の被害を受け、その後には第五福竜丸の事件などもあった。かつての日本人には、原子力というものが世界そのものの破滅を招きかねないものだという感覚は、確かにあったはずだし、僕なぞは家族の記憶もあって、今でもその記憶を引きずっていることも、さきおとといにこのブログで書いた通りだ。

それでも原子力発電を受け入れることにした時から、この国の人々はもうそのことを考えようとも、学ぼうともせず、ただ原子力によってもたらされる電力は存分に享受しながら、原子力というものをただ忌むべきものとして思考から排除して来ただけなのかも知れない。

文字通り、見て見ぬ振りであることは、「自然神の声を危機、生と死を司る境界の民」であったいわゆる被差別部落民を差別して来ている明治以降の歴史ともダブる。

そのツケが、2000度を超える崩壊熱を出している原子炉を「コンクリートで封じ込めろ」というメチャクチャな話を大真面目に主張する「反原発の権威」とやらの登場を招き(爆発しても知りませんよ、そんなの)、事故のことはそっちのけで、とっくに壊れている原子炉を「廃炉にするかどうか」でジャーナリストたちが東京電力の首脳に詰め寄る不条理喜劇めいた光景へと、めぐって来ているのかも知れない。

そりゃ東電の首脳が責任をとれば事故が治まるんだったらどうぞ「責任追及」して下さいなのではあるが、それってどういう責任なのだろう?人身御供で差し出せば暴走する原発の荒ぶる神が治まってくれるような宗教にしか思えない。

そういえば「コンクリートで封じ込め」という意味で、「石棺」という言葉が濫発されるのも、泰西ホラー映画の趣きさえあるではないか。

アンドレイ・タルコフスキー『サクリファイス』

この「核の亡霊の復活」を前にした世間のうろたえぶりを心底、奇妙なものだと思いつつ、過去に「核の危機」がたとえば全面核戦争というような可能性がリアルなものであった時代の映画を考えるに、やはり思いつくのはアンドレイ・タルコフスキーの遺作『サクリファイス』のことである。

考えてみたらこの映画が1986年のカンヌ映画祭で発表されたのは、チェルノブイリが4月の末だから、5月のカンヌはその直後だったことにあらためて気づいた。

無論タルコフスキーはそんな事故が起ることなど知らぬまま、無神論者で近代的な知のスーパーマンとも言うべき主人公アレクサンデル(エルランド・ヨセフソン)が自らの正気と、それまでの人生すべてと引き換えに、世界を核による破滅から救う物語を撮り上げ、この世を去ったのだろうが。


実のところ『サクリファイス』の物語は、「神」の存在をどう定義するかで、少なくとも二通りの解釈ができる。

「神」がいると判断するのなら、アレクサンデルは無神論者の知的なスーパーマン(ニーチェの言うところの「神は死んだ」で「超人」に近いもの)であることを棄て、神の神秘を受け入れて神にすがることで、実際に起りつつあった核戦争から世界を救う、その「犠牲」を描くのがこの映画だということになる。

一方で、彼が誕生日の夜(全面核戦争が告げられた晩)に祈ったその翌朝に、世界は全面核戦争の悪夢なぞどこへやら、元の平和で美しく見えるその姿を回復している。家族も友人もそんなことは忘れているのか、元からなかったことになているのか、アレクサンデルだけが核戦争が起りかけたことを覚えている。

そんな家族と友人たちにとって、アレクサンデルが捧げる「犠牲」はとんでもない狂気の沙汰にしか見えないわけで、そして彼が精神病院へと運ばれていく姿が、この映画の終幕となる。

つまりすべては彼の狂気のなせる妄想であるとも解釈できるわけで、実際に彼以外の人間にはそうとしか解釈しようがない。


だが『サクリファイス』の凄みは、そのどちらの解釈をも決定的に示さず、「神」がいるのか、「神」は人間の想像に過ぎず狂気の見せる幻影なのか、その不安定な宙づり状態にあり続ける映画であるところにこそ、ある。

いずれにせよ確かなのは、原子力、核というものの存在そのものが、「神」の、あるいは人間を越えた領域に人間が手を出してしまうことを意味し、そしてそれがもたらしうる巨大な破壊と厄災とは、人間にとっては狂気の沙汰でしか直視しえないものであることだろう。


タルコフスキーが核による最終的、超越的な破壊の脅威、我々の世界がその破壊のスレスレに存在しているに過ぎなかったことを意識させたのは、この遺作が最初ではない。

たとえば『ストーカー』は、終末的な核戦争か、大きな核の事故があった後の世界を描く寓話である。

アンドレイ・タルコフスキー『ストーカー』(1979) 
第一部 http://youtu.be/JYEfJhkPK7o  
第二部 http://youtu.be/hUHBgqx8YP8

三人の主人公がさまよう「ゾーン」は、すでにチェルノブイリ後の放射能に犯された大地を予見する空間だ。

彼らはなにかの「見えない」恐怖(それは恐らくは、放射能のホット・スポットなのだろう)を避けながら、必死でその荒れ果てた空間を進んでいく。

その見えない脅威を必死で避け続けるその姿、その見えない脅威を避けるためのやり方は、一歩間違えれば滑稽なほどに、不条理だ。


タルコフスキーは、「核」というものの本質的な恐怖を見事に映画にしている。『サクリファイス』でもそうなのだが、もっとも究極的な恐怖、「核」とは、なによりもまず「見えない」のだ。

今、福島第一原発でなんとか事故を最小限の被害に食い止めようとしている四百数十名の作業員たちも、『ストーカー』の三人の男たちと同じ不条理と闘っているはずだ。


見えないが故に実感がない死の不条理、それは映画学校でのタルコフスキーの師にあたるミハイル・ロンムの『一年の九日』で、冒頭に革新的な実験の成功と引きかえに致死量の被曝をしてしまう核物理学者が、死を目前にして吐露するものでもある。

ミハイル・ロンム『一年の九日』(1962)

最終的な破滅をもたらしかねない、人間の制御能力を越えたエネルギー。しかもそれが決して目に見えないものだという、理屈では分かっていても実感としては受け入れ難い、この主題がミハイル・ロンムからタルコフスキーに引き継がれている。

そしてそれは、原子力というものの人類にとっての哲学的な本質なのかも知れない。

その本質から眼を背けてしまうことは、なにも日本に限ったことではないだろう。


タルコフスキーが生きた時代とは、冷戦の時代だ。

その頃には全面核戦争で世界が崩壊するかも知れないという恐怖を、実感として我々は持ち続けて来た。とはいえその恐怖の本質を映画で捉え、描けた国がソビエト・ロシアであったのは、共産主義体制下の映画製作が商業主義の制約と無縁であったことと、無関係ではないだろう。


タルコフスキーの映画がソ連国内ではなかなか上映されなかった、上映禁止の連発だったこと、だからこそ彼が結局は最後の2作品を、『ノスタルジア』はイタリアで、『サクリファイス』はスウェーデンで(フランス資本もあって)撮り得たことを、我々は共産主義体制下での表現の自由の闘いとみなしがちだが、忘れてはならないのは、上映されず、つまり興収の見込めない映画を、タルコフスキーがソ連で撮り続けられたという現実もあったことだ。

公開されず赤字であっても、国際的な評価を得られる映画を、ソ連当局は作らせ続けもしたのだ。

逆に言えばそういう条件がなければ、商業主義の重圧に従うことを余儀なくされていれば、核の問題を人間と世界の関わりのあり方の哲学として扱う映画は、なかなか作れないのかも知れない。

そんなこと、誰もが考えたいものではないから。

そしてタルコフスキーの死と前後して、ソビエトがなくなり冷戦が終り、嫌だとは思っていても人類に共有されていた危機感も、なくなった。

冷戦体制の終焉とともに、全面核戦争が起るかもというアクチュアルな核の脅威は、我々の意識から後退した。実際には世界には相変わらず、この地球からすべての生命を何度も奪うだけの核兵器が、存在し続けているのにも関わらず。

ヒロシマ、ナガサキはアクチュアルな記憶ではなく、ただの歴史となった。そこを生き延びた人々の、決して消えることのない記憶と身体に刻まれた深い傷を除けば。

…というか、我々日本人でさえ、その歴史をも忘れようとして来た。折り鶴の少女・佐々木貞子をモチーフにした「祈り」という歌が昨年話題になったが、多くの人が「感動した」と言うその歌は、僕には凄まじい違和感しか与えてくれない。

なにせその歌詞には、原爆のことを少しでも暗示する言葉すら、なにひとつないのだ。これを原爆を歌ったものとして聴けということに、まず無理がある。


アラン・レネの『二十四時間の情事』では、岡田英次が「Tu n'as rien vu a hiroshima, rien 君はヒロシマでなにも見なかった、なにも」という言葉を繰り返す。

見えない、語り得ないからこそ、その脅威と傷を感じ、考え続けることを余儀なくされるはずの「原爆」「核」のことを、我々はいつのまにか考えることすらできないようになり、意識の奥底ですらなく、意識の外に置き続けて来たのではないか?

実際の生活では、同じ「核エネルギー」である原子力発電の産む電気を放埒に享受しながら。


そのふんだんに供給されるエネルギーはしかし、決して目に見えず、実を言えばよく分かってすらいない、人間の制御能力を越えた、最終的な破滅をもたらしかねないものであり続けて来た。

冷戦の終結とともに忘れて来た、考えないで済むと思い込んで来た我々の、無自覚さと盲目さと傲慢さが、この地震と津波を経て、唐突に我々の現実として突きつけられているのかも知れない。

もちろん福島第一原発の事故が、そのような究極的なカタストロフィをもたらすものだと怯えるべき段階には、我々はまだいない。

これから中央制御室の復旧が進み、原子炉内の細かなデータが得られるようになれば、今問題になっているこまごまとした不具合はもっと見つかるだろうし、その度にこの原子炉群を安全に終息させる作業はしばし阻まれることも繰り返すだろう。だが大筋に於いては、当初に危惧されたような炉心の溶融で原子炉が大きく破損するとか、水蒸気爆発とか、放射性物質が大量に拡散する危機は、今のところ考える必要はない(なんだかんだ言ったところで、炉心も使用済み燃料もデータはかなり安定しているし、排水口で測定されているかなりの量の放射性ヨウ素も、もっと大変だった時期に出ていたものが今そこに辿り着いているのだと考える方が合理的だ)。

とはいえそれは、まだなんとか運が良かっただけである。


『ストーカー』の「ゾーン」のようになるのは(あまりに痛ましく残酷な “幸運” として)せいぜいが原発の敷地とごく一部の周辺地域だけになるのだろうが、それでも核がもたらす破滅的な風景が現実となり得ることは、もう実感として十二分に我々には分かったはずだ。

一歩間違えれば…なにしろ福島第一原発に今ある核燃料の総量は、ヒロシマ型やナガサキ型の原爆のなかのそれよりも、桁違いに多いのである。

核がもたらしうる破滅的な風景それ自体を、タルコフスキーは『サクリファイス』でも『ストーカー』でも、見せようとはしていない。『サクリファイス』ではその破滅は回避されるし、『ストーカー』では抽象化された空間のなかで、三人の男たちはただひたすら歩くだけだ。

だがその究極的な破滅の風景と、しかしだからこそ、そこを目撃し、生き延びることの意味を、タルコフスキーはそのずっと前にすでに映画にしていたとも思えるし、その映画の記憶は『サクリファイス』に刻印されてもいる。


その記憶の刻印とは、アレクサンデルが誕生日に贈られる、中世ロシアのイコン画家アンドレイ・ルブリョフの画集だ。

言うまでもなく、タルコフスキーの監督第二作は、そのアンドレイ・ルブリョフの伝記映画である。

『アンドレイ・ルブリョフ』2003年修復版・全編
第一部 http://www.youtube.com/watch?v=1PAhbcy8mP4
第二部 http://www.youtube.com/watch?v=RwCJoEJFW5g

一見中世を舞台にしたこの映画の見せる、戦乱に引き裂かれ荒れ果てた大地とは、実はこの映画が作られた冷戦のまっただ中の時代に誰もが恐怖した、近未来の荒野のイメージではなかったのか?


淡いモノクロームでその荒れ果てた近未来の風景を見せ続けるスクリーンは、最後に極彩色で捉えられたルブリョフの絵画に覆われる。それは最早「宗教」も「神」も越えて、その終末の荒野を歩き続けた男が到達した精神の具象化に他ならない。

『アンドレイ・ルブリョフ』エピローグ、ルブリョフ作品のモンタージュ

その絵画、精神の具象化によって、『サクリファイス』は確かに、『アンドレイ・ルブリョフ』と繋がっているのだ。

そしてアレクサンデルがそうした荒野となることを阻止した大地、そうして守られた世界の美しさのなかに、彼の唖の息子が、初めて言葉を発する。


「『はじめに言葉ありき』、なぜなの、パパ?」

そして世界はあくまで、痛々しいまでに、神々しいまでに美しい。